第49章・娘二人

文字数 11,671文字

 翌朝の出航時に、エリスは贈り物の結び編みで作った祭事用の中敷きをサムルに渡した。紫岩苔で染めた紫の糸と交易島で購入された発色のよい黄色の糸とを使った、結構贅沢なものではあった。黄色い花芯の紫の花は、少々花弁が歪んでいる部分もあったが、サムルはそれを押し頂くように受け取った。
 大袈裟に過ぎる、とエリスは思った。昨夜の宴会では、エリスは婚約者からの最初の贈り物として見事な金の指輪を貰っていた。滅多に手に入らぬ金に細かな彫りを施されたそれは、非常に高価なものである事はエリスの目にも分かった。それでも、特別な感慨もなかったし、冬の間は行き来が途絶えるので遠征での無事すら分からないというのに、寂しさも感じなかった。むしろ、愛しい婚約者とは別れるのは名残惜しいと言いたげなサムルの態度に(いだ)いたのは、胡散臭さだった。
 船に乗り込む直前にサムルはエリスの両手を取り、にっこりと笑った。言葉は、なかった。全てが首尾よく済んだので、満足したのであろう。サムルの背後の、先に船に乗り組んでいる男達は嫌なにやにや笑いを浮かべていたが、男女が仲良くしている時にはそういうものなので、気にするまいとした。その中にウーリックの姿を探したが、慎ましやかな詩人は男達の背後にでもいるのか、見えなかった。その事は、少し寂しいとは感じたのだが。
 次に貴女にお会いする時を楽しみにしておりますよ。
 サムルはようやく(とも)からそう言ったが、それさえも慣例であり、エリスの心には響かなかった。一体に、この男のどこまでが本気なのか、結局は何も見抜けない。奸智に長けた男であるならば、決してエリスのような浅慮な年少者に尻尾は摑ませまい。
 それでも、エリスは昨日(さくじつ)に目の当たりにしたサムルの哀しみと苦悩とを頭の中から追い払う事はできなかった。あれは演技ではなかったし、真実を自分に見せてくれたのだと思った。どれだけ多様な顔を、あの男が持っているのかと思うと眩暈がした。
 艫に佇み、エリスを見るサムルの姿が遠くなって初めて、エリスは胸に痛みを感じた。あの男ならば、自分の置かれた立場の不安と苦しみとを理解してくれたのかもしれない。自分や弟達に、何か有益な助言をしてくれたのかもしれない。決して打ち明ける事のできぬ問題ではあったが、その思いはエリスの中にわだかまっていた。
「もう、寂しくなりましたか」
 オルトがエリスに声をかけてきた。
「まさか」
 短くエリスは答えた。結局、母は今回も客人の前に姿を見せずじまいであった。それはオルトのせいではなかったが、気持ちのやり場がなかった。どこまでも報われる事のない人生を、これからも母は続けて行くのだろうか、自分はどうなってしまうのだろうかと考え始めると、目の前が真っ暗になるような気がした。
「普段着に着替えましたら、堅焼き麺麭作りですよ」
 気にした風もなくオルトは言った。「一日も無駄にできませんからね」
 次の夏にはこの島を離れ、一人で家を切り盛りしなくてはならない。その為には時間はいくらあっても足りないのだ。
 オルトはずっと、そう言い続けていた。この島での、今日という日は二度とは訪れないのであるから、あちらの島へ行っても困らぬようにしっかり学べと。
 溜息をついたエリスの腕に、この夏に館で仕えるようになった娘のカトラが腕を絡ませてきた。
「さあ、参りましょう。お仕事は早くに終わらせて、支度に時間をかけなくては」
 カトラはエリスよりも一つ年上で、来夏の夏至祭に結婚が決まっていた。東の端にある小さな集落の娘で、金の髪と青い目をして、ふっくらとした頬が可愛らしかった。エリスに男女の事をこっそりと教えてくれたのも、この娘であった。父親が遠征から帰ると、共に集落へ戻る事になっていた。もうすぐ、この人懐こい娘と生涯会う事はなくなるのだと思うと、エリスは哀しくなった。そして、サムルと別れるのとは、何と違っているのだろうと内心で愕いた。
 唯論(もちろん)、カトラは初めてエリスが親しくなった同年代の娘である、という事も大いに関係しているだろう。それは、カトラも同じであるらしい。集落には同じ年頃の娘はいないのだと聞いた時には少々、大袈裟に過ぎないかとも思ったものだが、八家族という集落の規模を知れば、それも致し方のない事だと納得した。
 何をしても楽しそうな金色の髪の娘は、蟄居を余儀なくされる冬の間に、館で貰った珍しい色糸を使って晴れ着に刺繍をするのだと言っていた。年頃の娘達が館に上がるのは、中央集落や他島の男の目に留まりたいというだけではなく、交易島でしか手に入らないような高価な糸や布を家に帰る際に持たせてもらえるという理由もあった。その上、手仕事の残りは金糸や銀糸――糸に金銀箔を巻いてあるので非常に高価であった――以外は自分の物にして良いので、娘達はどんな僅かな端糸や端切れでさえも大事に取っておく。エリスも同じ事をして布を繋ぎ合わせてなどしてみたが、どうにもちぐはぐな色使いになってしまう。糸は母が喜んで使ってくれるが、ひと針、ふた針しかないような糸でさえも活かし切るその境地には、絶対に辿り着けそうになかった。
 船が出てしまうと集まっていた人々は速やかに散り、その日の仕事に戻って行ってしまった。今、浜にいるのは族長家の人間と、浜に上げられた船の手入れをする者達ばかりだ。父は既に海に背を向けて館に向かっている。ヴァドルは弟達に声をかけて、取り敢えずは今日は館で父の話を聞くようにと言っていた。
 皆が自分達に関心を払っていない事に、エリスは安堵した。サムルと別れの挨拶を交わす場面では、皆の注目を浴びて居心地が悪かった。自分達の婚約の本当の理由がばれてしまうのではないかという不安もあった。だが、今は普段の無関心に戻っている。
「厨房の脇で、外に焼き場をいくつも作るのでしょう」うきうきしたようにカトラは言った。「こんな時には、集落では広場で皆寄り集まっていたのだけど、ここでは館の人だけで作るのね」
 航海用の堅焼き麺麭はいくらあっても充分だと言われる事はない。不味いの何のと聞こえて来るが、日持ちのよいように平たく固く作るのだから仕方がなかった。冬の間にも保存食として貯蔵されるが、大体が(あつもの)や煮込みに突っ込んで柔らかくして食べるので、エリスは味まで考えた事はない。航海中、男達はこれを割って酒で流し込むのだというから、また違った思いがあるのだろう。
「集落では共同で作ったりもするわ」エリスは言った。「数が多いのですもの、家族の分は当然、用意しなくてはいけないのだけど、賄いきれない独り者の分は皆で負担でしょう。まあ、弟達も手伝いに来るでしょうから、こき使ってよ」
 大量の粉を挽いたり焼きあがった麺麭を運ぶのは、見習い戦士の仕事だ。父からの話が何であろうと、終われば皆はやって来るだろう。
 二人は館に向かって歩き始めた。
「ねえ」カトラが声を潜めて言った。「ねえ、サムルどのと、何かあったのでしょう」
 エリスは自分の顔が赤くなるのが分かった。
「やっぱり、そうなのね」カトラはくすくす笑った。「昨日、結納財のお披露目の前に二人で抜け出したでしょう」
「気付いていたの」
 ぎくりとしてエリスは足を止めた。だが、カトラは大した事ではないようにエリスの腕を引いた。
「久し振りにお会いしたのでしょう。ようやく二人きりで話せるのですもの、抜け出さない方がおかしいわ」
「――あなたも、そうだったの」
「やあね」ころころと笑ってカトラは立ち止った。「わたしたちは以前から知った仲だったから。他の集落だけど、ヴィンドルスは兄の親友ですもの」
 カトラの長兄は五歳上だと聞いていたので、婚約者も年齢的には釣り合いが取れている。それなりの稼ぎもあるのだろう。
「好きなのでしょう」エリスは訊ねた。この娘の口から婚約者の話が出る事は余りなかったが、お喋りな他の娘の中で目立たないだけだろう。「その人のこと」
 言外に自分はそうではない、と匂わせたつもりであったが、カトラには通じなかったようであった。娘は肩を竦めて小さく笑った。
「どうかしら、好きは、好きだわ。でも、愛しているのか、と訊かれると、迷うわ。だって、十二,三の頃から知っているのよ。恋人と言うよりは、もう一人の兄ね」
 兄のように思える存在であるならば、それはそれで良いとエリスは思った。全く知らない男と(めあわ)せられるのとは違う。
「断る理由が父にはなかったし、まあ、いずれはそうなるかもしれないという予感はあったのかもしれないわ。わたしも、別に嫌いな人ではなかったから」
 消極的な理由かもしれないが、そうして結婚して行く娘が圧倒的に多い。中には相愛の男がいたとしても親が許さぬ場合もあるのだから、カトラの場合は幸せな方であろう。財産と名声があるからと、ずっと年齢の高い男を好む者もいるのも確かではあるが、そのような割り切った関係を自分はサムルと持つのだと思うと、例え兄のように感じていても互いに親しみ、愛情を(いだ)き合える可能性の高い婚約者を得たカトラを羨ましく思う心もあった。
「それで、何があったの」
 声を潜めて、だがわくわくしたように、カトラはエリスに訊ねてきた。青い目が、好奇心できらめいていた。年頃の娘というのは、本当にこの手の話が好きなのだな、とエリスは思った。楽しめていない自分はおかしいのだろうか、何かが欠けているのだろうかと少々、心配にさえなった。それでも、誰かにあの出来事を話す事など、できそうになかった。
「顔が赤いわよ」カトラが笑った。「怪しいわ」
 エリスはぱっと頬に手を当ててから、しまった、と思った。これでは、言わずもがなではないか。
 ひとつ、溜息をついてエリスは心を決めた。黙っていても変に勘繰られるだけだ。それならば、カトラには話しても良いかもしれない。何かしらの助言も貰えるかもしれない。この娘から他の者に話が伝わるとも思えなかったが、一応の口止めは必要であろう。
「誰にも言わないでくれるのなら」
「二人の秘密ね。大丈夫よ」
 他意なく嬉しそうな表情に、エリスはちらりとでも疑った自分を恥じた。こそっとカトラに耳打ちした。
 告白が終わると、不謹慎な事にカトラは笑い始めた。抑えてはいたが、エリスの耳には大きく響いた。
「ごめんなさいね」
 カトラはまだ笑いながら言った。その目には涙さえも浮かんでいる。自分はそんなに滑稽な事を話したつもりはなかった。
「大丈夫よ、心配しなくても。それでは、子供はできないから」
 思い切って告白したのに、カトラの態度はまるでサムルであった。エリスはますます赤くなった。
「ああ、でも、あなたは本当に皆に守られてきたのね」
 そう言って、カトラはエリスに抱き着いてきた。「可愛い人だわ」
 カトラの言葉と行動に、エリスは怯んだ。見た目の可愛らしさを言ったのではない事は分かったが、どういう意味でそのような行動に繋がるのかが全く不明であった。
「でも、でも、あなたは言ったわ――」
 どうすれば良いのか分からず、エリスは戸惑った。
「それはね、違うのよ」
 カトラは身を離し、そっと人差し指でエリスの唇に触れた。「でも、それは私が話すことではないわ。奥方さまから、いずれお話があるでしょう」
 母は、きっと何も話してはくれない、とエリスは思った。
「あなたも、お母さまから教わったの」
 恐る恐る、エリスは訊ねた。すると、カトラは肩を竦めて笑った。その顔に、はっとした。
「もしかして、もう――」
 辺りに人のない事を確認してエリスは小声で言った。
「まあね」
 エリスの頭の中は真っ白になった。
「ヴィンドルスどのは、そんな人には見えないのに」
 館に来る事があっても、無口で不愛想な若者、という印象しかヴィンドルスには持ってはいなかった。こっそりとカトラが、あの人が婚約者だと教えてくれなければ、他の戦士に紛れて分からないような男だった。若い娘を誑かすようには見えなかった。だが、見えないと言えば、カトラもだ。男好きのするような少し太り(じし)ではあったが童顔で、美しいというよりは可愛らしさが先に立った。
「ヴィンドルスではないのよ」
 その言葉に、エリスは蒼くなった。そういう事は往々にしてあるとは知ってはいたが、まさかカトラがと、信じられない思いであった。控え目でありながらも明るいカトラに、そんな影は微塵も見られなかった。痛々しくてエリスは、思わず娘の手を取った。
「勘違いしないで」カトラは軽やかに笑った。「別に好きでもない相手だったけど、あなたが思っているような深刻なことではないわ」
「だって」
「夏至祭のせいよ。お互いにそんな気になっただけ。一度きりの相手よ。名前も知らないし、顔も憶えてはいないわ。向こうもそうだと思うし」
 悪びれる様子もなく言うカトラにエリスは少なからず衝撃を受けた。
「そういう()は多いと思うの。でも、あなたは別よ」慌てたようにカトラは付け加えた。「あなたは族長の娘なのですもの」
「で、で、で、でも――ヴィンドルスどのと結婚するのでしょう」
「やあね、ヴィンドルスは正戦士なんですもの、女を知らないはずがないじゃない。ヴィンドルスの相手が誰で何人であってもわたしは気にしないわ。それに、わたしがここに上がることを聞いても反対しなかったのだから、仕方がないことよ」
 ますます、エリスは分からなくなった。それを察したかのようにカトラはエリスを脇に引っ張り、言った。
「あのね、十四の時だから、もう昔のことだわ。それに、ヴィンドルスだって、わたしに純潔を要求することはないと思うの。族長の館に上がるのを許可する、というのは、

ことも起こるかもしれない、と承知していることでもあるのよ。唯論、オルトさんはそういうことが起こらないように気を付けていらっしゃるけど、全員を厳しく見張るのは無理よ。誘惑されることも多いし、名のある戦士達がこの館や集落に大勢いるのですもの、気を引こうとするのも分かるわ」くすりとカトラは笑った。「中には族長やあなたの弟に目を掛けてもらおうとしている()もいるけど、そんな下心の見え透いた娘は、相手にされないから大丈夫よ」
「お父さまやロロに、ですって」
 ひそめられてはいたが、エリスの声は裏返った。眩暈がした。
「族長は、だって、部族民の憧れだわ。ロロどのは、そうね、まだまだ晩熟(おくて)のようで、全く気付いてはいらっしゃらないみたい」
 自分の父が皆の憧れの対象であるというのは、面映ゆいながらも嬉しかった。そこに性的な意味が加わると、非常に複雑な思いであったが。
 しかも、ロロ。弟を籠絡しようという者がいようとは思わなかった。まだ、十六ではないか。女ならば、十四で相手が決まる事もある。法が正式な婚約期間を男女共に最大三年と定めているからだ。だが、男は普通は一人前と認められる十八までは婚約も結婚もしないものだ。その普通ではない事を、通そうというのか。法では未婚の男の婚外子を三人まで認知する事を認めているが――戦士の娘が婚外子を産むのには、世間は冷ややかだ。それであっても、次期族長の寵愛を選ぶというのか。
「心配性ね。ロロどのだって、その辺はわきまえていらっしゃるわよ。年頃になれば、父親から息子に注意をするものだし、殊にロロどのは地位が地位ですもの」
「わたしたちが、裳着の儀式の時に言われるように――」
「そうね。男とは二人きりになるな、でしょ。それを守る娘が殆どいないように、男の方だって、見習いであっても守らない――守れない人は多いわ。でも、ロロどのは責任ある立場なんですもの、軽々しく戦士の娘に手を付けたりはしないわよ」
 生臭い話に、エリスは戸惑わずにいられなかった。それでも、カトラが本音を話してくれる事が嬉しかったし、有り難いと思った。今まで館に上がった娘達は、どこかエリスとは距離を置いていたし、この夏に来た他の者達も同様であった。それを、自分が族長の娘だからだと思っていたが、もしかしたら、中つ海の血を引いているからかもしれないと思うようになっていた。
「白鷹の娘だとはいっても、わたしは――」
「そんなことは言わないのよ」カトラの口調が変わった。より真剣に、真面目になった。「あなたは族長のお気に入りだわ。その証拠に、誰もあなたを誘惑しようなんて思わなかったのだし、男と女の話もしなかったでしょう。あなたは、族長に守られているのよ」
 そう言うところをみると、カトラも当然、エリスの身の上は知っているのだ。それを両親や兄から聞いたのか、ここに来て集落で耳にしたのか他の娘の口から聞いたのかは不明であったが、知っている事に変わりはない。
「わたしがヴィンドルスと婚約することになったのは、この島で族長集会が開かれるからなの」
 急な話の転換に、エリスは混乱した。
「他の島の戦士が大量にやって来るのですもの。年頃の娘は、先に決めてしまわなければ目の前で攫われてしまうかもしれないのよ。ヴィンドルスはそれほど気のきく方ではないし、便利な場所に住んでいる訳でもないわ。容姿も人並みよ。他島の戦士が来る前に決めてしまわないと婚期を逃しかねない、と向こうの親が思ったのでしょうね。丁度、わたしという年頃の者が知り合いにいたというにすぎないのよ」
「ヴィンドルスどのは、あなたを選ばなかったかもしれないと言うの」
「その可能性は、あるわ。親同士が決めたのは確かだし、互いに知り合いなのもね。でも、愛情があるかと言ったら――向こうも親友の妹としか見ていなかったと思うの」さばさばした物言いであった。「別に十四の時のことを後悔している訳でも、結婚をしたくない訳でもないわ。ただ、あなたが時に羨ましくなるわ」
 その微笑みに、エリスは愕いた。どうして、自分を羨ましく思うのだろうか。族長の娘とはいえ、所詮は道具である。男達の政治の、駆け引きの道具として扱われるのは変わらない。
「だって、サムルどのは、自分であなたを好ましい、と思って来られたのでしょう。別に父君から言われたのではなく」
 道具としてね。
 その言葉をエリスは飲み込んだ。サムルにとり、自分は白鷹の支持を得る為の手段でしかない。自分はそれを納得して、取り引きとして結婚するのだ。その事は、誰にも知られてはならなかった。エリスは沈黙した。
「サムルどのは、きちんとした人のようだし、かと言って、ヴィンドルスほどに野暮な訳でもないわ。父君は族長家の一員で戦士長。戦士としても優秀だと聞いたわ」
「どこから、そんな――」
 カトラの情報は、どこから来たのだろうかとエリスは不思議に思った。
「あら、そういうことは、お酒で頭と口の軽くなった乗り組み員や推薦人から、幾らでも聞き出せるわ。こちらから訊かなくても、勝手に話してくれることもあるし」
 では、自分の事もあちらの人々は知っていると思っていた方が良いのだろう。こちらの者が、同じように何でも話したかもしれないと思うと暗澹たるものがあったが、いちいちどうこうできるものではないにしてもだ。
「大丈夫よ、自信を持って。このあたりが無難だということで、わたしがヴィンドルスと娶せられるのとは大違いよ」
「あなたがヴィンドルスどのにとって、無難な選択だとは思わないわ」エリスは言った。「あなたは明るいし、可愛らしい人だし、仕事だって、目立ちはしないかもしれないけれど丁寧で速いわ。ヴィンドルスどのが決められたのは、あなたをみすみす搔っ攫われないようによ」
 カトラのような娘が、男に望まれなかったとは思えなかった。確かに、軽はずみな部分はあるだろう。だが、それはもう、子供であった何年も前の話だ。
 その言葉に、カトラは目を丸くした。そのような事は考えてもみなかったのだろう。そして、くすくすと笑った。
「あなたは良い人だわ。有難う。でもね、余り期待はしていないわ。だって、兄との関係を緊密にするためにも、わたしがいた方が都合が良いのですもの」
 カトラの父親は、小さな集落ではあっても唯一人の戦士で指導者であった。族長との距離も、ただの戦士よりは近い。船持ちではなかったが、一集落を代表する者としての地位はある。少し大きな集落に住み、代表者ではないヴィンドルスの父親にしてみれば、財産のほどはいかにあろうと、権威を有する者との縁組は願ってもない事であったのかもしれない。全島集会では自由民であっても成人に達していれば誰にでも発言権、投票権はある。だが、族長の館で行われる合議に関しては各集落の代表者しか関われない。どちらの権利も有さない女では関係のない事ではあったが、男達にとっては自分の意見や発言に支持が得られるかどうかは重要な案件である。
「そんな理由で結婚してゆく()が多いのも、事実ですもの」カトラの言葉に悲壮感はなかった。「別に珍しいことではないわ」
 中には、息子がどこそこの娘に夢中なので縁組を願えないかと父に相談を持ちかけて来る者もいる。大抵は男の方が財産的、地位的に劣る事が多い。それでも、相手に愛情のある事を伏せられて話が進められるのを、エリスは立ち聞きしてしまった事もあった。カトラもそうかもしれないではないかと思ったが、言葉にはできなかった。気休めであったとしても、余計に傷つけてしまうかもしれないような無責任な事を口にしたくはなかった。
「それでも、全く知らない人でないだけ、ありがたいのかもしれないわね」
「――結婚は、嬉しいの」
 エリスはカトラに訊ねた。相手が誰であろうと、決まれば喜び、楽しみにする娘も多い。その気持ちをエリスは理解できなかった。
「そうね。両親は、いずれいなくなるわ。その時、幾つであろうと、兄の世話になって肩身の狭い思いをしていたくはないわ。未婚の女一人では生きては行けないもの、誰かの庇護を受けなくてはならないのなら、家族持ちになった兄よりも夫の方が良いと思わない」カトラは肩を竦めた。「持参財を用意できない()は大変よね。それでも構わないという奇特な人でも現れない限り、兄弟(あにおとうと)に養われて使用人のように使われるか、誰かの愛人となって後ろ指をさされながら生きるかですもの。一度でも結婚してしまえば、離婚されたり未亡人になっても、それはそれで生きる道はあるのだけど」
 その言葉に、エリスは沈黙するしかなかった。皆、必死なのだ。ロロや父を誘惑しようとしたとしても、責めるばかりでは駄目だった。だが、自分には現状を変えるだけの力がない。交易島で売る布や刺繍を作るなど、方便(たつき)に関しては問題がなくとも、女が一人で生きて行く事を惨めだ、可哀想だという意識が消えない限りは、卑劣漢に全てを奪われようとも味方をしてくれる者はいないであろう。戦士であった男でさえ身寄りもなく老いれば、満足な相続分を持たぬ見知らぬ若者に侮辱を受け、決闘騒ぎになった挙句に殺されても誰も異議を唱えないのである。老いた妻は元の家に住まう事を許されても使用人扱いであるし、訴訟の権利も持たない。ただ、結婚の際に持参した財産だけは法により夫殺しの男でさえも手出しはできぬので、それを頼りに生きて行くしかない。
 結局は、法でも女が守られているとは言えなかった。そこを改善しようにも、法の場で発言の出来る女はごく限られた、それこそ詩人に謳われるような女傑と呼ばれるような強い者であった。普通の女は話し合いの場にさえも加わらせては貰えない。しかも、男達が進んで女の権利を認めるとは思えない。(いにしえ)の時代であれば、武力も権力をも有した女がいたという話であったが、それはもう、遠い伝説の中だ。
「あなたはそんな心配をする必要はないし、知らなくても構わなかったことなのに、どうしてそんなことを知りたいの」不思議そうにカトラが言った。「あなたの父君は族長だわ。そうでなくても、裕福な地位の高い家の()は他人の心配をするものではないのに」
 いずれはサムルと離婚して島に戻り、母を引き取って女二人で暮らして行くつもりだと打ち明ける事はできなかった。
「婚約したからと言って、胸が躍るわけでも楽しみに思うのでもないのですもの」
 それもまた、真実であった。
「わたしだって、それほどときめいたわけではないのよ」カトラは笑った。「ヴィンドルスはいい人だと思うわ。嫌いではないのだけど、ヴィンドルスという人と結婚できるから嬉しいというものでもないの。向こうは、友情の他にも強力な

ができたと喜んでいるかもしれないけれど」
「他に好きな人でもいるとか」
「まさか」
 エリスが愕いた事に、カトラは声を上げて笑った。「男とは、どういうものか分かったから、そういう気持ちにはなれないわね。ただ、そうね、家族になるのですもの、いずれヴィンドルスのことは夫として愛するようにはなるでしょうけど」
「夫として――」
「恋人として、ではなくて家族としてね」
 カトラは頷いて言った。胸を焦がすような恋は分からなかったが、それならばエリスにも理解できた。
「あなただって、いずれはサムル殿とそういう関係になるではないかしら、今は何も感じなくても。大抵の夫婦がそういうものだと思うわ」
 その言葉に、エリスは少し眉をひそめた。そのような「家族としての愛」をサムルに対して(いだ)く必要はないだろう。また、それだけの時間があるとも思えなかった。自分達は互いに得るものあっての結婚なのだ。
 サムルも、そのようなものを必要とはしていまい。
 そう考えると、僅かに胸を刺すものがあった。
 大切に思っていた母親を亡くして、どれ程の痛みをサムルが感じたのかに思いを馳せると、本当にサムルに必要なのは相続権云々ではなく、同じく深い愛情を(いだ)き合う人なのではないだろうか。父親のヴェステインはサムルを大事に思っているだろうが、もっと細やかな、傷を癒し心を満たしてくれるような者こそ、サムルは娶るべきではないか、と。その事をサムルは気付いていないだろうし、エリスはその役目ではない。早々に、そのような人物が現れてくれれば、エリスも自由になりやすいというものだ。
 黙り込んだエリスにカトラは何を思ったのか、にっこりと笑った。
「何だかんだと言っても、サムルどのがお帰りになって、寂しいのではなくて」
 穿ったような言い方に、エリスはむっとした。
「遊び相手や論争の相手としては、そうね。でも、婚約者としては違うわ」
 きっぱりと言ったエリスに対するカトラの笑みは、ますます広がった。
「そういうことにしておきましょう」
 この娘にまで揶揄われているかと思うと、口惜しい気持ちもあった。そこで、少し困るような質問をしたくなった。
「あなたは、正戦士なら女を知らないはずがない、と言ったけど、サムルもそうだと思うの」
 カトラはその問いに困惑するような顔になった。少しく悩むようであったが、やがて口を開いた。
「正戦士ですもの。戦士内で一人前と認められるには、族長の承認と遠征への参加だけではなく、そういった経験も必要だと、兄とヴィンドルスが話しているのを聞いたわ。色気づくのが早ければ、見習いの内にね。あなた弟君たちはあなたに似ておぼこいけど、早い者は早いようよ。でも、それはわたしたち女も同じだわ」
 サムルに対して抱いていた元々温かであったとは言えない気持ちが、更に醒めて行くようであった。族長の娘であるからと無知、無垢である事を要求されるのに、男はそうではないのか。
「でも、まあ、それは仕方のないことよ。だって、あなたのように何も知らないままにお嫁に行く()も多いわ。だったら、男に知識や経験があった方がよくはないかしら」
 エリスの機嫌の変化に気付いたのか、カトラは慌てて言った。しかし、それはエリスを赤面させるだけであった。
「大丈夫よ。サムルどのは、結婚したら他の女には手を出すような人には見えないわ」
 安心させるように、宥めるようにカトラは言ったが、エリスの心は沈み、冷えるばかりであった。族長の娘であるエリスの機嫌を損ねるような事をサムルは避けるであろう。だが、男子を得て、その上で気に入った女がいれば、サムルは簡単にエリスと離婚してその女と結婚する。
 お互い様だわ。エリスは思った。条件を満たさなくとも、エリスに相愛の男が現れた際には話し合いに応じようとサムルは言ったのではなかったか。そのような男ができるとは思わなかったが、最初から別れる事を前提とした関係なのだ、何を気にする必要があるだろうか。
 例え、家族としての、であったとしても、サムルに愛情を(いだ)くなど、考えられなかった。どうせ、短期間であろうから、そのような感情を抱く時間もないのではと思った。
 飽くまでも、サムルは取り引きの相手である。友人としてならば良い人なのかもしれないが、男同士とは異なり、恐らくは、別れてしまえばそれきりの関係だ。
 深入りはしない方がいい。
 エリスは思った。
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