第58章・続 オルト

文字数 10,630文字

 微かにひゅうっと喉が鳴る音のした事に、ロルフは気付いた。ちらりとヴァドルの方へ眼をやったが、そこには闇が溜まっているばかりで姿は見えなかった。
 後戻りはできないな、とロルフは思った。余りにも重大な――ヴァドルの存在の根幹にかかわる事を、オルトは語ろうとしていた。残酷な真実が暴露されるだろうという懸念に、ロルフはヴァドルに聴かせたくないとは思ったが、今更ヴァドルは承服すまい。互いに覚悟を決めねばならない。
「なぜ、断言できるのだ」穏やかにロルフは言った。「結婚後、数年子に恵まれなかったとは言っても、それは珍しい事ではないだろう」
「五年の間、わたしは周りからずっと言われ続けてきましたわ――子はまだなのか、と。人々は密かに、わたしが石女(うまずめ)ではないのかと噂をし、実際にビョルニにそう申す者もおりました」
「だが、お前の夫は離婚をしなかった」
 ならば、夫の方には愛情が存在したのではないのか。
 言外の含みをオルトも感じたのか、天井を見つめ、暫く口を開かなかった。
「あの人は結婚した時に、自分は殊更子供を欲しいと思わない、と申しました」淡々とした口調であった。「だから、その事を気にする必要はない、それを理由に離婚はしないと」
 自分がエリシフを娶った時もそうであったと、ロルフはぼんやりと思い出した。華奢な身体が妊娠出産という大事業が耐えられるとは思えなかったからだ。両親が四人もの子を早逝させているのも大きかった。二人で話し合い、跡継ぎは必要だとなったのだ。そして、二人目はエリシフが強く望み、ロルフが折れた結果であった。
「ビョルニは、女性から全く相手をされていなかった訳ではございません。むしろ、逆でした。あなたの父君がお歳を召しても若い娘を魅きつけていたように、あなたご自身が今もそうでいらっしゃるように、ビョルニは三十を越えてなお、娘達の憧憬を集めておりました。ラグンヴァルドルさまにそっくりでしたもの、それも無理ないことでしょう」
 父が配下の戦士だけではなく、若い女達からも慕われているのは知っていた。だが、かつてはいざ知らず、ロルフがその事に気付いた頃には、父の関心はそのような女達にはなかった。族長である、という事を差し引いても、父は女にとり魅力的な男であったのは確かだ。その父に似ていたというのだから、オルトの夫にも誘惑は多かっただろう。
「それでも、お前一人を守ったのだろう」
 ロルフの言葉にオルトは微笑んだが、それは寂し気に見えた。
「あの人は、他に女を作るようなことはできない人でしたから」
 なのに、オルトは夫を愛さずに他の男を愛したのか。それとも、誰かから暴力を受けたのか。何をオルトが話そうとしているのか、ロルフには見当もつかなかった。
「わたしは、あの人を愛して一緒になったのではありませんでした。使者達を伴って求婚に来たあの人を、こっそりと奥から見ただけでしたし、父の一存で全ては決まったのです。取り立てて珍しいことではありません。どこにでもある、普通の結婚でした。まともにあの人を見たのは正式に婚約した時で、次に会ったのは結婚式でした。それも、珍しいことではありません。表面上は、どこにでもいる、ありふれた夫婦でした」
 表面上は、という言葉にロルフは引っかかりを憶えたが、無言で頷いた。
「女たちは、わたしに子ができないので、子に恵まれるあれこれを教えてくれました。薬草、(まじな)いはもとより、周囲に知られぬよう女神に犠牲(いけにえ)を捧げる方法であるとか、口に出すのを憚られるようなことまで様々に。でも、神々は、わたしたちには子は授けられぬと決められたようでした。わたしは二十五を目前にしており、初めて子を授かるにはよい年齢を過ぎようとしておりました」オルトは溜息をついた。「もう、わたしは飽き飽きしていたのです。女たちのおせっかいも、ビョルニにも」
 ロルフは居心地の悪さを感じたが、ヴァドルは身じろぎ一つせずに聞き入っているようであった。
「良い人ではあっても、愛せるとは限りませんわ。別にビョルニに愛情を抱いていなかったからといって、憎しみを持っていた訳でもありませんもの。ただ、起居を共にし、わたしは妻として夫の世話をして家を調(ととの)えていたにすぎません」
 おかしな話であった。冷静にとつとつと語っているが、オルトが感情に乏しく、情に薄い女ではない事は、長く世話を受けていたロルフには分かる。そんな女が共に生活をする夫に対して、何らの感情も持たなかったというのは不思議であった。だが、今はそれを追求する時ではなかった。何故(なにゆえ)に、オルトが「良人(おっと)」ではなく「夫」という言葉を使うのかなどの不審な点は、後でも充分だ。
 ヴァドルは、微動だにする様子がなかった。母親の口から語られる物語としては、最悪だ。息づかいは、それでも、乱れてはいないようであった。本当は、平常心を保っているのが精いっぱいなのかもしれない。自分は残酷な事をしている、とロルフは苦々しく思った。有無を言わさずに退出させる事もできたのに、今となっては遅い。ヴァドルは続きを、真実を知りたいと思うだろうし、我が身であると顧みれば、その心をロルフは無視できなかった。
「わたしには、ビョルニとの結婚前に思いを寄せている人がおりました」唐突に語り始めたオルトに、ロルフは我に返った。「その方は既に奥方さまがおられましたので、それはわたしの勝手な気持ちにすぎませんでした。でも、収穫祭の時に、その方がひどく酔っている姿を目にしたのです。わたしは、その方が数月前に幼子を亡くしたことを知っておりました。いいえ、わたしばかりではなく、皆が知っていたことです」オルトは溜息をついた。「華やかな祭りに積極的に参加する気もなく、わたしは少し集団から離れておりました。だから、その方がおぼつかない足取りで人の輪から出て森へ行くのを見つけたのです。誰もが、その時に起った何かしらの競技の大きな歓声に気を取られており、その方が皆を離れるのに気が付かないようでした。わたしは、普段とは違うその方の姿に愕きました。自らを律し、決して乱れることのない人でしたから、少し心配になってその後を追いました」
 ロルフは黙ってオルトに語らせようと思った。胸の内を吐き出して心安くなれば、少しでも良い方に向かうのではないかとの考えもあった。今の状態を見るに、オルトはヴァドルの存在は全く頭にないようだ。聞きたくないと思えば、ヴァドルは退室しても良いのだと、ロルフは合図を送った。だが、ヴァドルは動く気配がなかった。
「森の中で、ようやくその方に追いつきました。わたしは恐る恐るでありましたが、どうかされたのか、と声をかけました。ご気分でも悪いのですか、と。その方は木に寄り掛かり、わたしに背を向けて首を振るばかりでした。遠くで、歓声が聞こえました。随分と森の中へと分け入ってしまったことに、その時、わたしは気付きました。狼も熊も飢えてはいない季節ではありましたが、人を離れては危険であることに変わりはありません。長剣を携えているとはいうものの、その方は酔っておりましたし、わたしの片刃の小太刀の腕では二人の身を守ることはできないと思いました。さあ、お戻りになりましょう。そう声をかけてその方の背に触れました――」
 オルトの声は震えていた。
「その方は、突然、わたしに抱き着いてきました。そして、奥方さまの名を呼ばれたのです。辛いよなあ、哀しいよなあ、嘆く事も泣く事も、この身では敵わぬとは。そう、仰言られたのです。亡くされたお子の事を想われていらっしゃるのだと、すぐに分かりました。祭りには、多くの子供もおりましたし、乳飲み子を抱えた女たちもおりました。お子を亡くされたばかりでも、男として、立場として、その方は感情を露わにすることはできなかったのです。それでも、奥方さまの前では素顔を見せられるのだと思うと、わたしの心には黒いものが生れたのです」
 一粒の涙が、オルトの目からこぼれ落ちた。ロルフは何も言えず、動く事さえできなかった。
「この方は、わたしを奥方さまと思っていらっしゃるから、こうして縋り、弱音を吐かれるのだ。なら、このまま、奥方さまのふりをしていけないということがあろうか、と。傷付いたこの方に慰めを与えるのは、決して悪いことではないのだと、勝手な理屈をつけたのです」
 老女はロルフに語り掛けていながらも、最早、ロルフを見てはいなかった。中空を見つめ、過去にいるようであった。
「わたしは、奥方さまのこともよく存じ上げておりました。どれほど心優しくあられたのか、わたしと違って美しく、(たお)やかでいらしたことか。親しくしていただいて、今回の件でどれほど深く哀しんでいらっしゃり、夫であるその方の愛情しか頼ることができないのも、知っておりました。なのに、わたしは、その方に初めて触れて悪心を起こして――その方を抱き返して慰めの言葉を囁いたのです。更にきつく抱き締められ、わたしは男性の腕と胸とに頭が真っ白になりました。そして、わたしたちは関係を持ったのです」
 オルトは言葉を切り、ロルフは静かに次の言葉を待った。
「全てが終わった後、その方は酔いもあって眠り込んでしまいました。わたしは、自分のしでかしたことの大きさを、その時、初めて悟りました。夫ばかりではなく、わたしに優しく親しくして下さっていたその方の奥方さままでも裏切ったのです。でも、自分のしでかしたことを後悔している時間はないことも分かっておりましたので、急いで自分とその方との体裁を整えました。何かがあったと、その方に知られてもならなかったのです。それから、わたしは軽く鼾をかいているその方を置いて、集会の野へ戻りました。そこでは、その方がいない事ことに気付いた者たちが、姿を探しておりました。その中に、ビョルニがいたのです。わたしは何食わぬ顔で近付き、その方が森へ入って行くのを見たと申しました――何と厚顔な女とお思いでしょう。わたしの本性とは、そんなものかもしれません。でも、これが最後だと、自分の邪な想いと訣別するよい機会だと思いました。今後は、ビョルニのよき妻として生きて行こう、と決心いたしました」
 再び、オルトの目から涙がこぼれ落ちた。
 ロルフは、夫の留守中に道ならぬ恋や愛人を作る女は幾らでも見てきた。離婚騒動の大きな原因でもあった。現行犯ではない限り立証は難しいので、まんまと逃げおおせる女もいただろう。その内の一人でも、後ろめたさや後悔を見せた女がいただろうか。尤も、現場に踏み込まれたのならば、二人とも殺されて当然なのだが。
 ロルフは、オルトは自分に厳しすぎるのではないかと感じたが、ヴァドルはそうではないかもしれないと気付いた。母親の恋の果てを聞くのは辛かろう。
「けれども、それで終わりではありませんでした。わたしは、身籠っていたのです。偽りと虚飾の神の目にでも留まったのでしょうか、ただの一度で、わたしは子を授かったのです――そのことを、夫から隠し通すことは不可能でした。始末することなど、思いもしなかったのです。わたしは、ビョルニに申し出ました。わたしを離婚して欲しい、と。わたしから離婚するのは、約束で禁じられておりました。父は、それを余程気に入られた証拠だと喜びましたが、奇妙な約束ではありました」オルトは微かな笑みを浮かべた。「あの人は――ビョルニは、予防線を張っていたのですわ。そんな人でしたから、当然、ぎょっとしたような顔でわたしを見ました。なぜ、と聞き返す声は震えておりました。わたしは、自分から離婚を訴え出られない以上、あなたから申し立ててもらうしかないのだと答えたのです」
 ――私の方には、お前を離縁する理由など何一つない。
 ――あなたにはなくても、わたしにはあるのです。聞き届けてはいただけませんか。
 ――駄目だ。承服できない。
 そのやり取りの後で、オルトは決定的な言葉を口にしたのだと語った。
「わたしは身籠っております、あなたは、その子の父親になれるのですか。わたしはそう、申しました。あの人は、真っ蒼になりました。まさか、わたしが裏切りを働くとは思わなかったのでしょう。わたしは、里の男たちからも老木のようなごつごつとした感じの骨太な女だと陰口をたたかれるような、男好きのする女ではありませんでした。誰が好んでわたしなどを相手にしましょうか。父からも、お前は一生ここにいてもよいのだ、貧しいがよい男がいれば婿に取ろうと言われるような娘でありました。そんな女が男を作るなど、あの人は考えもしなかったのだと思うと口惜(くちお)しくなりました――こともあろうに、私はビョルニを痛めつけたくなったのです」
 ロルフの知る若い頃のオルトは、充分に綺麗であった。肉付きは薄かったかもしれないが、男達が評したようなごつごつした感じはなかった。それは、ヴァドルを授かった事による変化なのか。時折、そういう女はいるものだ。
「わたしたちが子に恵まれぬことは、あなたが最もよくご存じでありましょう。わたしはこの子を産みたいと思いますので、離婚をお願いしたいのです、子ができなくともあなたを責める人はおりますまいが、わたしはもう耐えられませんと言いました。理由は何でも構わない、もし、わたしが間男を作ったというのがあなたの不名誉であるならば、この場で殺してくれても構わないのだ、と」
 怖いもの知らずの女であるとは思っていたが、ロルフは愕かずにはいられなかった。そこまで言う女は、そうはいまい。
「わたしは、卑怯でした。ビョルニにその勇気のないことも存じておりましたし、身に覚えのない子だと認めるのを拒むのも。ましてや、自らの手で子を始末することなど、到底できなかったでしょう。そういう人であったのです。ビョルニの身体が震えました。拳を握り締め、わたしから目を逸らしておりました。わたしはそれを見て、まだ皆に知られるには時間があるだろうから考えておいてくれるよう頼み、仕事に戻りました。その夜、ビョルニはいつもと同じように族長の館の宴に行きました。その出際に、わたしに申したのです」
 ――その子を我が子と認めよう。男ならば、私の正式な相続人となり、女ならば持参財も相手に応じて出そう。
「そして、ビョルニは再び生きて戸口をくぐることはなかったのです」
 重い沈黙が落ちた。それを破ったのはロルフであった。
「なぜ、お前には夫ではなくその男が子の父親だと分かるのだ。お前たち夫婦が五年の間、子に恵まれなかったからと言って、絶対に授からぬと決まった訳でもなかろう」自分を育ててくれた者に対して、このような事を訊ねるのは尻が落ち着かなかった。だが、肝心なところだ。「お前の話を聞く限りでは、夫婦関係は悪いものではないようであったが」
「わたしたちには、子はできるはずもなかったのです」
 その答えに、ロルフは混乱した。女は、そういった事までも断言できるものなのか。五年よりももっと長く子を授からなかった夫婦に子ができたという話は、枚挙にいとまがない。だから、そのいつか、を願う者も多いというのに。
「ビョルニは、男ではなかったのですもの」
 ロルフは訳がか分からなくなった。普通、それは臆病者を指す言葉であった。
「あの人は、不能だったのです」

 一瞬、聞き違えたのかとロルフは思った、だが、オルトは淡々と再び語り始めた。
「それを知ったのは、結婚して五日目でした。田舎娘でしたが――いいえ、だからこそ、男と女のことは存じておりました。最初は、気を遣って貰っているのだろうと思ったのです。何しろ、年齢が離れておりましたから、向こうにはわたしは何も知らない小娘に見えたのだろう、と。でも、そうではなかったのです。あの人は、わたしに告白したのです。自分は夫として役立たずである、それでも、お前は理知的な女だから結婚の利点はわかっているだろう、と申しました。お前のような女を嫁に貰ってやるのだから多少の瑕疵は目をつぶれと言われているのだと、わたしは思いました。若い女にとり、それ以上の屈辱がありましょうか。結婚は隠れ蓑であり、愛の有無どころか、わたしは秘密を守ることを強要されたのです。わたしから離婚を切り出せないという条件は、そのことが広がらぬためでもあったのだと思いました。初遠征まではちゃんと男であったのだから、いつかは戻る、とは申しておりましたが、結局、五年間に何度か試みようとはしたようですが、男の誇りを取り戻すことはありませんでした」
 初めての遠征で初めて人を殺し、戦場の凄惨さに勇気を挫かれる者は確かにいる。だが、大部分はやがて慣れて行くものだ。ロルフ自身、初めて人を斬った時の感触には(おのの)いた。獣を殺すのとは違って自分と同じ人間の生命を、魂を絶ったのだという、鳥肌の立つような恐れ。それを克服するのにそれほど時間を要しなかったのは、秤にかけられたのが自分の生命であるからだ。生命を惜しいと、愛するエリシフの許へ帰りたいと思えば、生き残る為に戦わなくては、殺さなくてはならなかった。
「愛のない結婚に、わたしは絶望しながらも日々を、よき妻であると他の人に見えるように振舞わねばなりませんでした。知られれば人はわたしを嘲笑いましたでしょう。それは、女としてのわたしの誇りを傷つけるものでした。抱擁はおろか、必要以上に触れ合うことのない関係でした。だから、わたしは恋心を抱いていた方に抱擁されて、異性の腕の中というものを初めて知ったのです――わたしは、その時にようやく、自分は愛されたかったのだと思い知りました。もしかしたら、誰でもよかったのかもしれません、わたしを愛してくれる人であれば。その方がわたしを愛していないことは承知しておりましたが、身代わりでもなんでもよいから、愛されたかったのです」
 オルトを責める事はできないと、ロルフは思った。誰かの愛情に縋りたいという思いを罰する事が、自分にできるだろうか。一時(いっとき)、自分が女に求めたのは慰めであり、刹那の愛だった。他の者が同じであった際に、それを不実であると断罪する事ができるだろうか。
「良人」という言葉を用いずに「夫」と言ったオルトは、精神的にも肉体的にも相手とは結ばれてはいなかったのだ。妻ある男と関係を持ったとしても、それを夫に対する不実と言えるだろうか。身体的な理由がありながら欺いた男の方により責任があるのではないか。
 いや、だが、それにしても不審な点がある、とロルフは眉をひそめた。
 オルトは頑固なところはあるが、決して思い込みに囚われる人間ではなかった。
「わたしは、ビョルニの死が偶然に起った不幸な事故などではないと、すぐに気付きました。あの人は、わたしへの当てつけで死んだのだ、わたしに生涯、他の男の子を自分の子であると認めさせたことの重さを思い知らせるために、自ら死を選んだのだと。わたしも卑怯で悪い心の持ち主でありましたが、夫の子ではない子を、それでも、あの人には恥をかかせまいと離婚をして欲しいと申し出たのに、あの人は、離婚も結婚の継続も選べずに逃げたのです。わたしが如何に残酷な女であるかを見せつけて」
 オルトの夫は、そのような事をする人物であっただろうか。ロルフは疑問を持った。父からは特に何も聞けなかったが、年寄り連中の数少ない話から察するに、決して問題から背を向けて逃げる人物とは思えなかった。男ではなかったとしても、男らしくなかった訳ではないだろう。
「わたしは夫の葬儀の後で、遠い親戚たちがビョルニの財産をどうするか話し合うのを隅で聞いておりました。その時には、まだわたしの父は存命しておりましたので、話し合いには父も参加していました。父は、わたしが子を身籠っている以上、相続の権利問題はその子が男児かどうか分かってからであっても充分ではないか、と申し出てくれました。それで、わたしは出産まではこの家に留まることになったのです。
「夫を不遇の死で失ったわたしに、女たちはもちろん、男たちも親切にしてくれました。家長と稼ぎ手もなく、女が一人で生きて行くのは容易ではありません。女たちはそれを知っておりますので、何かと今まで以上に親切でありました。男たちが親切であったのは、ビョルニへの友情と敬意の故であると父は申しました。人望のない人物であれば、家族が路頭に迷おうとも可哀想とは思われぬものだと。わたしは不幸にして不名誉な形で夫を失いはしましたが、そういう男で幸運であったとも言われました。誰からも信頼され、あのような最期を迎えたにも関わらず、良い男であったと言われるのが、ビョルニでありました。この時より、館でもどこでも、酔った男を一人で帰途につかせるのは危険であるとされ、誰かに送らせることになったのです。ビョルニの死は、部族にとり、それだけ大きなものであったのです。では、わたしにとってはどうであったのでしょう」
 深くひとつ、オルトは息をついた。
 ロルフはヴァドルの様子が気になった。平静ではいられまい。だが、よく耐えている。
「ビョルニはわたしの夫ではありました。でも、抱擁ひとつ、愛の言葉ひとつなく、夜にはただ枕を並べて眠るだけの、夫婦という名の共同生活者でしかありませんでした。遠征や他島、交易島に出かけた際には何かしらをわたしの為に必ず購入してくれていたのですが、いつも無言で差し出すだけでしたので、妻としての責務を果たしていることへの報酬だと、わたしはずっと思っていたのです。でも、葬儀の後のもてなしで、戦士たちは思い出語りに申しておりました――ビョルニはいつも何を購入するかをあれこれと迷い、贈り物を値切れば

がつくと相手の言い値で買っていたそうです。律儀で愛情深い男であったと、皆は評しておりました。その時に、初めてわたしは、自分がビョルニのことを何も知らなかったのだ気付きました。あの人の好きなもの、苦手なもの、島外集会や遠征でどのように過ごしていたのか、そういったことを、わたしは何一つ、知らなかったのです。興味すら持ちませんでした。でも、ビョルニがわたしのことを知っていたのは、買って来てくれたものを見れば明らかでした。わたしの好きな色の玻璃玉、好きな文様や形の飾り留め。どれをとっても、あの人が吟味してくれたものに間違いはありませんでした」
 オルトは宙を見つめたままであった。ロルフの存在も忘れられて、今では自分自身に語っているようにも思えた。
「あの人は、わたしを決して計算ずくで妻にしたのではないと知ったのは、ビョルニの最後の夜の様子を聞いた時でした。あの人は、わたしに子ができたことを皆の前で公けにし、祝杯を上げるよう言ったそうです。そして、誰彼構わずに杯を交わし、生まれて来るのはきっと男だ、自分は沈黙と呼ばれた祖父にあやかって、その子にヴァドルの名を付けたい、と言っていたと」
 沈黙のヴァドルは今でも詩人の語る高名な戦士であった。滅多に喋らず、子供の頃には口がきけないのかとさえ思われていたという逸話のある人物であり、ヴァドルの血筋で最も有名な男であった。ヴァドル、という名前自体は珍しいものではないが、わざわざ誰から由来するものであるのかを示す場合には意味合いが異なる。名ある先祖の名前を受け継ぐのは名誉であり、親の期待と愛情の表れでもあった。
「わたしにはビョルニが分かりませんでした。自分の高名な祖父の名を不義の子に付けて、わたしを罰しようと思ったのでしょうか。そして、自らの死でわたしに対する復讐を完成させようとしたのでしょうか」
 涙が、オルトの目から次々とこぼれ、やがてそれは絶える事のない流れとなった。
「いいえ、ビョルニはそんな男ではありませんでした。あの人は、わたしの身籠った他人の子に、正当な相続権を授けてくれたのです。それは、自分の男としての誇りを守るものではあったでしょうが、結果的にはわたしと子の生命を助けてくれました。ビョルニはわたしの裏切りに傷つけられ、思案した末に、死を選んだのです。子を認めれば他人の子を育てることになり、認めなければ恥を晒さねばならなくなります。離婚をした上でわたしに子が宿ったことが父に知れましたならば、父は子をビョルニに渡したでしょう。ビョルニは、子殺しのできる人ではありません。他人の面影を探しながら子を育てることも、無理であったと思います。わたしの不貞を知れれば、父はわたしか子を、或いは双方を殺さねばならなかったでしょう。その全てを避けようとすれば、ビョルニは消えるしかなかったのです。それが、あの人のわたしへの愛情であったのです。わたしは、そのことに思いが至らなかった――浅はかで、残酷な女なのです」
 それはおかしい、とロルフは思った。
「お前の話を疑う訳ではない。だが、皆はヴァドルは父親の生まれ変わりであるかのように良く似ていると言うではないか」
 オルトが本当に不義を犯したしたのか。何かがあって、そう思い込んでいるだけではないだろうか。ロルフの心に、それとは違う黒いものが広がってはいたが、直視する事はできなかった。自分の中の深淵を覗くのは、非常に難しい。歳ふりて猶、厭な考えを無意識の内に避けようとする自分を、卑怯で情けないと思った。
「ええ、ヴァドルは、あらゆる点で、ビョルニを思わせます」オルトは言った。「あの優しさや穏やかさ、寛容であるところも無口で不愛想、女人に対して興味を示さぬところなどまで、そっくりです」
「ならば、お前は何かを感違いしているのかもしれない」
 恋人がいながらも好きでもない男に嫁がされた娘が、身籠った事実を認めたくはない為に錯乱してしまう事は時に起こる。大抵は気性の激しい娘であり、沈着冷静なオルトに同じ事が起こったとは思えぬが、何かを間違っているのではないかという違和感が拭えなかった。
「わたしは、今も昔も正気であります」
 ロルフの考えている事などお見通しだと言わんばかりの言葉であった。
「あなたを傷つけるのはわたしの本意ではありませんが、あなたは真実を知るべきでしょう」
 ほっと、一息つき、オルトは哀し気な目でロルフを見た。
「ヴァドルの本当の父親は、ラグンヴァルドルさま、あなたの父君なのです」
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