第51章・喧騒

文字数 12,451文字

 ロルフは人でごった返している大広間をゆっくりと眺め渡した。
 少し人数は減ったが、船を失う事がなかったので今年の遠征は成功と言って良かった。新米も軽傷は負った者はいるものの、深刻な怪我人はでなかった。風は強く波も高かったが、帰りに嵐に遭わずに済んだのは僥倖であった。まずますの成果もあり、占い師の言葉通りに事が運んだ。
 しかし、見知った顔がなくなっているのを認めるのは、寂しいものであった。腕や脚を失ったり以前と同じように動かせなくなった者もいる。遺された家族や、戦士を止めざるを得なくなった者の身の振り方を考えるのも、ロルフの役目であった。気の重い仕事ではあったが、それは族長としての責務である。立派に戦って死んだ者の家族を露頭に迷わせるような事態に曝してはならない。
 唯論、臆病者はその限りではない。
 今回も、そのような者を出さずに済んでロルフは安堵していた。死の恐怖に打ち勝てなかった者を吊るし、晒し物にするのは決して愉快な仕事ではなかった。幸いにも、長くそのような者は出てはいなかったが、大抵は初めて戦いに臨む新米である。若い、まだ子供とも言える年齢の若者を断罪しなくてはならないのは負担だった。だが、それを家族に伝えねばならないヴァドルの心情に較べれば、大した事ではないのかもしれない。いっそ、戦いの中で死んでくれていれば、と常に思うのだ。それならば、本人は大神の許へ迎えられる事なく不名誉な死に方をしたとして、永遠に生命を落とした場所に留まり続けるだけだ。ヴァドルがわざわざ家族に、死者は臆病者であったと知らせる必要もなく、噂は広がるだろうが、表立って家族が恥をかいて周囲より蔑まれ、集落にいられなくなるような事態にもなるまい。それをロルフが気にする謂れもなくなる。
 だから――とロルフは忙しく立ち働いている見習いの中にロロを見付けて思った。だから、万が一、ロロの中を流れる中つ海の臆病で卑怯な血が戦場で勝る事があれば、敵を前に背を向けさせるくらいであるならば、父親である自分の手で始末をつけよう。そうしなければならない。弟達の為にも。だが、その弟達もまた――
 ロルフはその考えを振り払った。
 自分の父は、このような問題で心を煩わせる事はなかったのでないだろうか。そう思うと、ロルフは自分が怒りに任せて軽はずみな決定を下してしまった事を悔いるしかなかった。ロロが、誰であれ北海の女との間にできた子であれば、臆病者であるかもしれないという疑いを持つ事はなかったであろう。その意味では、ロロは不憫だと思わずにはいられなかった。
 肝心のロロは、そんなロルフの考えを知ってか知らずか、年少の見習い達に仕事の指示をしていた。
 今季、ロロは代表の候補者だ。集落の冬支度が落ち着けば、投票が行われるであろう。
 自らの時の事を思い出し、ロルフは顔をしかめた。
 結局、あの時、自分はヴァドルに勝ちを譲られたのだ。最終の決選投票をヴァドルは辞退したが、ロルフは常に、それが行われていれば、ヴァドルが代表に選ばれていたであろうと思っていた。当時の自分は感情的な部分が多く、人望では確実にヴァドルに劣っていた。最終投票にまで残ったのは、族長の跡取り、という将来の肩書によるものが大きかったのではないかと疑ってもいた。辞退を聞いた時、その不安と不満をヴァドルに思わず口走った。ヴァドルは、哀し気に少し笑んだ。そして首を振り、それは貴方の思い過ごしです、と言った。
 何を以てしても、ヴァドルには敵わない。
 幼い頃より、ヴァドルは体格も良く、頭も性格も良かった。それを羨ましい、妬ましいと思った事がないとは言わない。だが、ヴァドルはロルフにとっては公私共になくてはならない人間であった。
 ヴァドルは父親にそっくりだ、と父は言ったものであった。自分とその男とは良く似ており、間柄もそこそこ良かった、と。いつも控えめではあったが、安心して背中を守らせる事のできる男であり、惜しい事をした、とヴァドルに対しても言っていた。ヴァドルは容貌だけではなく、性質も父親から受け継いでいたようであった。
 産まれる前に父親を亡くしていたヴァドルを、父は可愛がった。ゆくゆくはお前の片腕になるだろうと何度も言われた。苛立つ事がなかったと言えば嘘になる。だが、かけがえのない存在である事を否定できもしない。ヴァドルを失くせば、自分は半身をもがれたようになってしまうだろうとロルフは感じていた。
 ロロは未だに片腕とするべき者には出会っていないように、ロルフの目には映った。(せわ)しなく指図している息子の傍らには、誰も立つ者はいないようだ。
 ふと、ロルフの目に壁際で居心地悪そうに佇むオルヴの姿が入った。立ち働いている者の中にも入らず、かと言って兄の側にいる訳でもない。中途半端なその姿に、ロルフは苦いものを感じた。
 五人の中で、オラヴはエリスやロロとは異なり容姿も人目を引かず 、アズル程に頭が良い訳でもなかった。ハラルドのような瞬発力と機転にも欠けている。姉弟(きょうだい)の中で、唯一人ロルフには似ず、ロルフの父に似た。がっしりとして、将来はヴァドルのようになるのではないかとの期待もあったが、武芸でも特に秀でているという話は聞いた事がなかった。
 実に平凡な少年だった。
 族長の息子であるからと言って、全てに於いて他人に秀でている必要はないにしても、とかく地味だった。ロロにはいずれ後継者として立つという自覚があるが、オラヴにはその必要もなく、骨太の身体はまだまだ大きくなるだろうが、武芸で頭角を現している訳でもない。将来的にはロロを支えて行かねばならない身であるという事も、オラヴの心にはまだ芽生えてはいないようでもある。
 そういった面に苛立ち、困ったものだと思いながらも、ロルフはオラヴを悪く思うものではなかった。まだ十五歳である事を考えれば、兄の補佐を担わねばならないという自覚はこれからの事なのかもしれない。平凡な戦士になったとしても、(まつりぎと)の場にしゃしゃり出て来るような性格でもなかった。これは、重要だ。()をわきまえる者は、信用される。
 アズルについては、何も心配する事はないだろう。ゆくゆくは学者や博学と呼ばれ、頭脳の面で兄の事をしっかりと支える存在になるのは、目に見えていた。大人しく、目立つ子ではないが、教師をしている戦士からの評判は文武共に(すこぶ)る良い。
 そして、ハラルドは――と、エリスと共に末席にいるまだ顔には幼さの残る子を見た。今宵は生きて戻った戦士の為の宴なので、女子供は族長の家族であろうと末席であった。
 この末子の事を思うと、溜息が出た。こんなに手こずらされる子は初めてだった。聞き分けのない悪戯者で、何度叱っても懲りない。天衣無縫なのか、唯の愚か者なのか、それとも将来大化けして一端(いっぱし)の者になるのか、全く先の見えない子で、エリスよりも手を焼いた。出産の場に居合わせた上に仮死状態であったからか、甘やかしすぎたのかもしれないとも思う。だが、性格は明るく、嫌われる子ではない。何事も深刻に受け取らないのか受け取れないのか、ロルフであっても分からない。見習いとなり、成人しても猶、この気性でいられるのであれば、兄達にとっても心強い存在となるだろう。
 見習いを待っているのが手荒い歓迎だというのは承知していた。ロルフの場合には族長の跡取りという立場もあってか、それほど酷い扱いを受けた訳ではなかった。ロロも恐らく、そうだろう。だが、オラフやアズルの場合はどうであっただろうか。
 同じ事が、ヴァドルにも言えた。ヴァドルは乳兄弟であり、誰もが将来的にロルフの片腕になるであろう事は見越していたはずである。そうであっても、かなりの心理的な圧力は受けたようだった。庇護する父親のいないヴァドルを追い落とそうという意図があったのかもしれないと、後から思ったものであった。
 自分の息子達がそのような目に遭ってはいないかが気掛かりであったが、そればかりは他人からの訴えもないのに族長の出る幕ではなかった。父親として如何に感じようと、族長としての立場を崩す訳にはいかない。
 ヴァドルはその試練を、ロルフにも誰にも打ち明けずに乗り越えた。他の見習いも、恐らく、同じであろう。ならば、自分の子供達の中にある力や強さを信じる他はなかった。姉弟(きょうだい)の中での争いや勝負とは異なり、容赦ない世界への一歩でもあるのだ。
 そして、眼前にいる戦士達は皆、それをくぐり抜けてきた者達だ。
 毎年、誰かが引退年齢に達して姿を消し、見習いから昇格した若者が新たに加わる。次の次の遠征には、ロロと共に船出をするはずである。
 本来ならば、エリタスとヴェリフは既に正戦士として宴に出ていたはずであった。二人は誇らしい笑顔で皆と談笑し、杯を交わしていただろう。大人になった証に髭もはやし、エリタスなどはもう、子供を膝の上に乗せていたかもしれない。
 そして、幼いスールも、兄達に混じって見習いとして饗宴の手伝いに駆り出されていただろう。
 亡くした子供達の事を考えればきりがなかった。
 かつての約束を守り、あの城砦の領域と思われる場所には決して近寄らず、遠征帰りに寄る交易島でも、用事は全てヴァドルに任せて上陸する事がなかった。
 我ながら、律儀なものだと思った。
 どれほど子を得ようとも心の痛みは和らがず、哀しみは増すばかりであると気付いた時に、さっさとあの女を始末し、再びあの港へ船を着けて完膚なきまでに蹂躙してやる事も可能であったはずだ。その復讐の戦いの中で生命を落とそうとも、自分は町や城砦が燃えるのを見れば満足して死んでいったはずであった。後の事は知らない。生まれた子はヴァドルやオルトが面倒を見ようが、誰が族長位に就こうが知った事でなかった。
 それをしなかったのは、自分の中の弱さである。
 絶好の機会を逃した自分の躊躇(ためら)いだった。
 思いは常に、ここに戻って来る。
 憐れな女だと思う事もあったが、エリシフが若くして儚くならなくてはいけなかったのと同じように、それは運命だ。中つ海の城主の娘として産まれ、この北海で誰に顧みられることなく生命を終えるのが、あの女に神々が用意した運命なのだ。神々には、誰も(あらが)う事はできない。白鷹と呼ばれる族長の自分であってさえも。
 苦い思いと共にロルフは銀の杯を(あお)り、蜜酒を飲み下した。
「ロロ殿は、やはり、最有力候補ですかね」
 いつの間に側に来ていたのか、ヴァドルが穏やかに言った。「ああして指示をするお姿などは、あの年頃の貴方にそっくりですよ」
 目を細めてロロを見る姿は、まるで保護者であった。いや、実際、父親であっても族長としての立場を崩せぬロルフよりも、ヴァドルの方が保護者という言葉に相応しいだろう。
「面映ゆい事を言う」ロルフは笑った。「私とて、お前が辞退しなければ代表にはなれなかったものを」
 冗談めかして言うのが、せいぜいであった。
「また、そのような事を仰言(おっしゃ)いますか」ヴァドルも笑った。「若すぎる者には、貴方のような(かた)よりも私の方が取っつきよく思うものですからね」
 そればかりではない事を、ロルフは知っていた。ヴァドルは子供の頃から性質も安定し、誰に対しても穏やかに友好的に接する。この男を嫌い続けるのは難しい。
 「しかし、正直な話、ロロ殿は立派に代表を務められましょう。見習いの(ほう)は存じませんが、戦士達の評判は(すこぶ)る宜しいです。そういった事は、投票に影響を及ぼしましょう」
 自分の息子の評判が良いと聞いて嬉しくならぬ父親はいないだろう。ロルフの心は少し皮肉になった。決選投票まで持ち込まれた――圧倒的な数で勝てなかった事に、ロルフの父は眉をひそめた。族長の跡取りである以上は、誰よりも何に於いても秀でていなくてはならない、というのが口癖の人であった。自分はそうはなるまいと思っていたのだが、いざ、息子を持つとやはり期待をしてしまうものらしい。人の心とは、一筋縄ではいかぬものだと思った。
「ロロ殿は押しが弱いのが気掛かりではありましたが、あのように指示を仰ぐ者が多いのは、年下の者の信任の証であると存じます」
 ロルフは黙って頷いた。息子を、指導者として判断した事はなかった。十六歳なのだから、これからは、そのような面にも目を向けて行くべきなのだろう。ヴァドルの慧眼には及ばぬ自分の浅慮をロルフは恥じた。だが、それを表情に出す事はなかった。
「エリス様も随分と大人しくなられたようで、後はハラルド殿ですか」
 長兄が代表に選ばれたとしても、ハラルドが大人しくしていられるのかどうか、ロルフには確信が持てなかった。だが、それはヴァドルも同じようであった。ロロが代表に選ばれれば、その関係性は兄と弟ではなくなる。ロルフが父親ではなく族長であるのと同じ立場に、ロロは立たねばならない。それをやってのけられるかどうかで、ロロの族長としての評価も変わる。
 ハラルドの性質を見るに、上の者に愛がられるか徹底的に潰しにかかられるかの、両極端の可能性があった。同じ年代や下の者を、良い方にも悪い方にも引っ張ってゆく少年だが、それが吉と出るか凶と出るかは、ロルフでさえも見定める事ができなかった。
「まあ、私も気を付けて見るようには致しますが」ロルフの渋い表情に気付いたか、ヴァドルが言った。「あのご気性ですから、大抵の事は流しておしまいになるとは存じますが、何しろ、多感なお歳ですから」
 ヴァドルの顔が曇った。自分の受けた新人いじめを思い出しているのかもしれないと、ロルフは思った。それがどのようなものであったとしても、ヴァドルが話さない事を聞き出すのは不可能であった。
 この男は、自分からどれ程の事を隠しているのだろうか。ロルフは疑問に思った。ヴァドルは、エリシフへの思慕もそうだが、オルトへの気持ちや、母親を独り占めにしていたとも言えるロルフへの感情も、決して表には見せない。どれほど多くの事を耐え忍んできたのか、ロルフに知る術はなかった。
 父はヴァドルを高く買っていた。親しくしていた遠縁の、自分によく似た容貌であったという男の一粒種であるというだけではなく、人間として、戦士として父はヴァドルを評価していた。当時は自分が認められぬ事を悔しく思ったものだが、今では、父の言葉も良く分かった。
「ああ、こらこら、無体をしてはいかん」
 詩人(バルド)のヒャルティに無理やり杯を勧める若者達に向かって、ヴァドルが声を上げた。そして、失礼、と一言ロルフに声を掛けると、若者達の方に向かって行った。細やかな気配りができるのも、ヴァドルの長所であった。そういうところもロルフは及ばない。
 竪琴を奏したり吟じたりしていない時の詩人は、いつでも誰かの格好の

の的だった。だが、何を言われてもヒャルティは嫌な顔こそすれ、反論はしない。自分の言葉の力を知っているからだとロルフは取っていた。それでも、この男は片刃の小太刀(スクラマサクス)を扱わせれば一流の戦士に匹敵した。常にロルフの近くにいる為に、その腕前は族長船の者以外には余り知られてはいないようである。あのような若者達など簡単に黙らせる事ができるが、それをしないのもヒャルティという詩人であった。
 この男を気に入っているのか、と問われれば、ロルフは当然だと答えただろう。詩人としても、人間としても気に入っている。自分に初めて仕える詩人だというだけではない。ヒャルティは詩人にありがちな、揶揄や悪態に辛辣な詩で返して相手をぐうの音も出ぬほどにやり込めるような事はしない。戦士としての腕も誇らず、未熟な詩しか作れぬ若者や見習いを見下す事なく、それとなく指導する姿も目にしていた。集落の女を巡って争いごとを起こさず、結婚も、相手の父親や親戚に首に縄を付けられて引き摺られてしたのでもない。
 難を言えば、酒には強くないという事くらいであった。杯に三杯も蜜酒を飲めば、ぐでんぐでんに酔ってしまう。それでは詩人としての役目を果たせぬので、一杯をちびりちびりと舐めるように飲むのである。浴びるように飲む者達は、それを面白がって酔わせようとするのだ。
 ヴァドルやウーリックと言った者達に通ずるものを、この詩人は有していた。そして、ロルフはそのような者を好ましく思っている。
 ロロやアズルは、将来、このような男になるのではないか、という片鱗を見せていた。常に先頭に立たねばならぬ族長の素質としては如何なものかと思うが、何を考えているのか分からぬ部分があったとしても、かつての自分のように、熱量はあっても感情に振り回されるよりはずっと良いと考えていた。
 ヴァドルが若者達と飲み較べを始めた。
 身のほど知らずが、とロルフは思った。島内であれ島外であれ、今まで、誰一人としてヴァドルを潰せた者はいない。大樽を一人で干せるのかと思うくらいに飲んでもけろりとしている。それでいて、一旦、眠り込んでしまうと揺さぶっても叩いても無駄だ。得物の音でなら起きるというところが戦士らしくもあり、面倒でもある。この大広間や戦士の館では武器を抜くのは御法度なので、放置する他はない。
「やれやれ、ヴァドル殿には助けられました」
 ヒャルティが高座の下に来てロルフに言った。竪琴を手に、逃げてきたようだ。
「ヴァドルが相手では、相手が可哀想だがな」
 肩を竦めて詩人は勝負の様子に目をやった。
「自業自得というものですよ。あの者達から、ヴァドル殿に申し出たのですから」
 勝負をしている周りでは、既に賭けが始まっていた。だが、どうやらヴァドルの一人勝ちのようで、成立しないようだ。
「もう、帰るが良い」ロルフは詩人に言った。「詩も音楽も充分、堪能させて貰った。奴らはもう聞いてはいないだろうし、お前も早く家に帰りたいだろう」
「有難いお言葉です」ヒャルティは一礼をした。「しかし、まだ時間も早うございますし、族長を差し置いて(わたくし)めが先に失礼させて頂く訳には参りません」
 律儀なところも、この詩人の長所であった。
 確かに、まだエリスとハラルドも下がる挨拶には来ていない。陽の高い内から始まった宴席であるのと無事に戻った安堵からか、皆が酔うのも早いようだ。
「構わぬ。長居をすればする程、絡まれるだろう。面倒を起こしたくないのはお互い様だ」
 ロルフは手を振って、辞去するよう勧めた。それに対して詩人は深々と頭を下げた。
 詩人が去ると、エリスとハラルドが近くに来た。
「そろそろ、座も乱れて来たようですし、わたしたちも下がろうと思います」
 エリスの言葉に、ロルフは頷いた。引き時を知っているのは、良い事である。
「明日の分配を見に行ってもよろしいでしょうか」
 ハラルドが言った。例年ならば、このような事は訊ねてはこなかった。許可をしなくとも、どのみちいつものように来るのだろうが、少しは成長したか、エリスかロロに諭されたのかであろう。思わず浮かべそうになった笑みを引っ込め、ロルフは厳めしく頷いて見せた。ぱっと末の息子の顔が明るくなった。どうやら諭されたのではなく、脅されたようであった。だとすればエリスだ。ロロは、余程の事がなければ年少者を怯えさせるような言葉は使わぬと、ロルフには信じられた。
「兄達も手伝いに来る。その邪魔にならぬようにはせよ」
 神妙な顔でハラルドは一礼をした。ロルフが留守にしていた間に、少しは礼儀を仕込まれたようだ。それがロロであろうとエリスであろうと気にはならなかった。この手の付けられない野生児に、人間らしく振舞うよう教えられるのであれば、誰であっても構わなかった。オルトや養育係の女では、甘やかしすぎて駄目だった。
 厨房の方からは、きびきびと命令を下しているオルトの声が聞こえるようであった。随分と齢を取ったが、物静かに、それでも誇りと喜びを満面に湛えてロルフを迎えてくれる事に変わりはない。
 ヴァドルには、自分に対するよりも熱は低いようなのが、ロルフには不思議でならなかった。決して、それはオルトがヴァドルを愛していないという事ではない。だが、二人は互いに母子の情を示し合わない。幼い頃よりそうであった。
 ヴァドルはこの夏、亡き父親が残した家を建て直し、再び住めるようにしていた。自分の今後の為ばかりではなく、少しでも母親に楽をさせようというヴァドルの心の表れであったが、それを拒否されても肩を竦めるだけで特に落胆する様子もない。エリス様がご結婚なさり、ハラルド殿が見習いになられるまでは自分の仕事と思っているのでしょう、と心配になったロルフに返して来たくらいであった。
「エリス、お前は明日はオルトと共にヴァドルが交易島で仕入れてきた品物を女達に分けろ」ロルフは言った。「館の娘達は、明日には身内と共に元の集落に戻る。女達が来る前に、土産に持たせるものを選ばせると良い」
 エリスの表情は冴えなかった。夏の間、館に出仕している娘達の一人と親しくしていた事は知っていた。折角の友人と別れるのは辛いだろうが、女の人生とはそういうものだ。新しい土地で、新しい友を作れば良い。エリスであるならば、直ぐに新天地に慣れるはずだ。
 この娘がいなくなるのは、やはり寂しかった。いつかは手放す日が来るのだと自分に言い聞かせてきたが、娘というものが、これほどまでに愛おしい存在であるとは思わなかった。確かに、嫁に出す時の財産上の負担は大きい。持参財に匹敵するだけの稼ぎを、娘が生涯で得る事が出来るのかといえば、正直、釣り合わぬ。それは、結納財を支払って嫁に貰う方にしても同じだ。だが、利益以上のものをエリスは自分に与えてくれたとロルフは思っていた。荒涼とした不毛な心に再び灯りを点し、愛することを取り戻してくれた。赤子の頃の無邪気で美しい笑顔に、どれほど慰められたか分からない。できる事ならばあの女の手から奪い、自らの側で育てたかった。男では女子を育てるのは難しゅうございますよ、というオルトの言葉がなければ、そうしていただろう。
「ハラルドは分配に来るのだから、ウナにも手伝わせよ」
 ロルフは、オルトの後任としてウナを考えていた。来夏にハラルドが見習いになれば、この女は生活の術(たつき)がなくなる。夫も子も亡くし、帰るべき実家も持たず、再婚の話もない女を、役目が済んだからと追い出す訳にはいかなかった。生涯にわたって面倒を見るのが筋であろう。自由民の女を族長家の生活面での統率者に据えるのは異例の事であろうが、生まれてすぐの頼りない息子を立派に育て上げたウナへの感謝の気持ちを表すには妥当であると、ロルフは思った。補佐という形で外堀から埋めてオルトの荷を軽くし、ヴァドルと共に暮らせるように整える意味もある。
 何かを言いたげなエリスを無視し、下がるよう手を振った。これ以上の会話は不要だと思った。エリスが考えている事くらいは分かる。
 不満げながらも、エリスは大人しく指示に従い、ハラルドと共に一礼をして下がった。
 娘が納得していないのは承知の上であった。だが、無事に帰ったこの日に、不愉快な話題は避けたかった。
 ようやく遠征から戻ったかと思えば、浜ではエリスやオルト、ハラルドと共にいるあの女の陰気な姿を目にしなくてはならなかった。ロルフはただ、頷いただけでその顔を見もしなかった。それも毎年の事だ。すぐに荷揚げと運搬が始まったので、それ以上共にいる事はなかったが、自分の帰る場所にあの女がいるというだけで、軽くなっていた気分が損なわれた。仕事を終えて一人で湯につかっていてさえ、憂鬱な気分は晴れなかった。
 姿を目にすれば、気配を感じれば、思い出さずにはいられない。辛さ、哀しみ、苦しみといった負の感情が甦ってくるのを、止める事ができなかった。これからは再び、毎日、エリタスやヴェリフ、スールの記憶に心を痛めねばならないのだ。如何に神々に望まれて勇敢な死を二人が賜り、愛でられたからと言って幼いスールの死の記憶がロルフの中で消える事はない。
 血に汚れた二人の幼いながらも美しい顔や、腕に抱いた時のスールの力のないぐにゃりとした感覚を、どうして忘れる事ができるだろうか。
 神々を呪うものではない。だが、エリシフの死からようやく立ち直ろうとしていたところへ以ての二人の死。二人の不在から、新たな子供達との生活に慣れ始めたところでのスールの死。
 子を亡くす親も、子を死に至らしめる親も多い。
 それは分かる。
 しかし、エリタスもヴェリフもスールも、ロルフにとってはかけがえのない宝であった。年若い者に三人も先立たれるとは、族長としては白鷹の名を与えられ、遠征でも成果を上げて良き指導者と認められても、家庭的には不幸であると言えよう。此度(こたび)、エリスが輿入れして平和で幸福な家庭を築くのならば、少しはその心も慰められるかもしれない。ロロの結婚が上手く運べば、更に心安くなれるだろう。
 それでも、ロルフがあの時に手を下すのを断念したが為に、自分はあの女をその生命が尽きるまで生かしておかなくてはならなくなった。毎日顔を合わせなくてはならないのは、うんざりとした。だが、それが自分の選んだ道だ。いっそ、他の女に興味を惹かれてしまえば、その女の許に通うか女を追い出すかできるであろうに、ロルフにはエリシフより他に心魅かれる女はいなかった。
 物思いに耽りかけたロルフの耳に、歓声が届いた。
 何事かと声のした方に目をやると、ヴァドルの飲み較べであった。人垣で良くは見えなかったが、勝負がついたらしい。拍手と、杯を卓子に打ち付ける音、勝者への咆哮が大広間に響き渡った。誰もが興奮していた。その大音声の中を、のっそりと人影が現れた。
 ヴァドルだ。
 その後ろに、情けなくも卓子に突っ伏した若者の姿が垣間見えた。
「他愛もない」
 平然と、ヴァドルはロルフに言ってのけた。不満そうなその顔を見て、ロルフは苦笑した。この男には、敵わない。
「お前に挑むとは、相手が悪かったな」
 ヴァドルは破顔した。
「ハラルド殿とエリス様は下がられたようですな。ついでに、詩人もお返しになりましたか」
「これだけの騒ぎになれば、子供と女の時間は終わりだ。下戸の詩人もな」
「なるほど」
「だが、そろそろ、所帯持ちは帰るべき頃合いだな」ロルフは大広間を見渡して眉をひそめた。「残っている女共に、襟首摑んでも亭主を連れて帰れと言ってやった方が良いだろう。独り者や別集落から来た者は放っておいても構わんが、細君の来ていない者で足元のおぼつかない奴らは見習いに送って行かせろ」
「承知致しました」
 ヴァドルは一礼し、皆に向き直るとそこらに放ったらかしになっていた杯を手にして卓子に打ち付けた。その大きな音に、一同は静まり、ヴァドルの方を注視した。
「さあさあ、女房殿にどやされたくなければ、そろそろお開きだ。帰り支度をしろ」
 男達の間からは不満の声が漏れた。
「余り酔っぱらって帰ると、家に入れてもらえんぞ。この集落の者で、今夜の寝床に事欠くような奴の面倒は見られんからな」
 どっと哄笑が起こった。別れに際しての乾杯が繰り返される。明朝には再び浜で顔を合わせるというのに、まるで冬の間中会えないかのような騒ぎだ。だが、これは毎年の事であったので、見習いも心得たもので、帰り支度を整え、酔い覚ましの水を与えてロルフに挨拶をさせ、ヴァドルと戸口で見送る。妻を伴っていない者は万が一の事を考えて年長の見習いが付き添う。妻子が既に眠っているところに大声を出されると、見習いも共にその家の奥方に叱られる事になるので、そう楽な仕事でもなかった。
 如何に酔っていようと、帰港したその夜から愛人の寝床に潜り込むようでは離婚沙汰だ。互いにどのように思っていようとも、自宅に帰る事だけは守らせねばならない。
 その事に思い至り、ロルフは心が沈んだ。
 エリシフは、常に自分を寝ずに待っていてくれた。若い後継者であったロルフは、妻帯していてもなかなか年長の戦士に放しては貰えなかったものだ。どれほど遅い時間になろうとも、だ。父は戦士達の振る舞いにロルフ以上に寛大であったので、ずっと遅い――夜半過ぎまで男達が騒いでいても平気であった。長く不在にしていた家に早く帰れとも言わなかった。危険と隣り合わせの遠征から戻った日くらいは、羽目を外させてやれば良いという考えであった。
 ロルフは違う。普段や祭りで夜明けまで騒ごうとも気にはしない。だが、遠征から帰った日は別だ。この日ばかりは家族持ちは早めに帰した方が良いと思っていた。それは、子供達となるべく共にいたいからでもあった。
 それが族長ロルフのやり方であると皆が周知したところでの、悲劇であった。
 新しく得た子供達と過ごす時間は何ものにも代え難かったが、今はハラルドが残るのみである。ハラルドが寝に行ってしまうと、後は族長室に戻るしかなかった。母親を亡くしたかつての子供達にしたように、同じ寝床に引き入れて眠り込むまで話をしてやる事もない。
 あの陰気な女は、恐らく、起きているだろう。
 愛情の欠片(かけら)も持ち合わせてはいないであろうに、律儀にロルフよりも早く寝床に就く事はない。それを妻としての義務だと考えているのかもしれぬが、正直、ロルフには負担であった。顔を合わせずに済むものならば、なるべくそうしたかった。相手も同じであろうから、さっさとロルフの方から切り出せばよいものの、つい億劫で放置していた。そして、このような時に思い出すのだ。
 辞去の挨拶を終えて館の戸口に向かう戦士の中には、妻の肩や胴を抱き、笑みを浮かべている者もいた。美しくもない髭面を女に寄せて、掌で押し返されたり軽く頬を叩かれたりする者すらいる始末だ。族長の前では真面目な顔をしていても相好を崩している姿は、微笑ましくもあろうが、孤独なロルフには痛みしかもたらさなかった。
 集落の者が全ていなくなり、残ったのは別集落と独り身だけになった。それでも、結構な人数であった。
「族長もお休みになりますか」ヴァドルが戸口から戻って言った。「後の奴らは酔い潰れるだけですぞ」
 ハラルドは、恐らくエリスが寝床に追いやったであろう。昨年もそうであった。それならば、早くに下がる意味もない。
「いや、もう少し、ここにいよう。オルトと女達は下がらせろ。何なら、お前も――」
 ヴァドルはしかし、両手を上げてロルフの言葉を制し、最後までは言わせなかった。
「私に一人きりの家に帰れとは仰言らないで下さい」
 共に、この館で育った間柄であった。戦士の館でも、必ず誰かが身近にいる。一人に慣れぬヴァドルには、それは酷な話であった。
「では、ここに来て共に飲め」
 ロルフは言った。遠征の日々と全く変わる事なく静かに二人で杯を傾けるのも、また良しとすべしであろう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み