第48章・サムル

文字数 17,953文字

 ティナが一人で手仕事を続けていると、ハラルドがウナと共に帰って来た。一応は帰宅の挨拶をしたが、不満は露わだった。来夏には見習い戦士になるというのに養育係が迎えに来たのが、更に気に入らないらしかった。
 入船出船(いりぶねでぶね)のある時には、学問所は早じまいをする。子供達が浮き立って勉学どころではなくなってしまうからだ。教えるのは「学者」や「博識」と呼ばれる戦士や元戦士だと、かつてロロが年齢に達した際にオルトに教わった。職業としての教師がいない事と、神官がその役目を負うのでもなく、戦士が子供達の教育を担うのだという北海の習いにティナは絶句したものだった。読み書き計算だけではなく、詩や法についても教えるのが戦士とは、北海らしいと言えばそうなのであったが、城砦では読み書きも満足に出来ぬ騎士も多かった。詩など、詩人(バード)や女のものだとされていたのだ。
 館での宴の際に、詩人(バルド)と戦士が詩の掛け合いを行ったり、戦士達が自作と思しき詩を披露する光景を訳も分からずにそれまで目にしていた。複雑な比喩表現や婉曲に、予備知識のないティナはどう反応するのが正しいのかも分からなかった。ロルフが機嫌よく笑ったり、自らの銀の腕輪を与えたりする姿に、それが良い出来であるのだろうと推察するしかなかった。ロロが学び、エリスが話してくれる事により、多少は理解はできるようになったものの、可否を判断するまでに習熟するのは不可能であった。
 北海の戦士とは、北海人とは何者であるかを、ティナは未だに測りかねていた。斧の一撃で犠牲(いけにえ)の羊や馬の首を断ち切るような力と野蛮さを持ち、少々古いとはいえ同じ言葉を話し、書く。それなのに、詩の韻律や比喩は全く異なっている。神官は集落から集落へ移動して定まった神殿を持たず、夏至冬至の祭りを始めとする祭事や結婚などの神への儀式の殆どは族長が祈りを捧げる。
 この人々は、一体何者なのか。
 決して答えの得られる問いではなかった。学者や博識と呼ばれる者や詩人、神官であるならば、何かを知っているだろうが、縁がなかった。殊に、滅多に人前に姿を現さぬ神官は城砦とは異なり、漆黒の衣と頭巾を纏った無口な影のような存在で、不気味ですらあった。城砦の神官は異教徒は決して、認めなかった。魂を持たぬ、人の姿をした怪物であると語った。北海の神官もそのように考えている可能性を考えると、顔を合わせるのさえも恐ろしかった。
「正装をしなくてはなりませんわ」ウナが言った。「今日は、お姉さまの晴れの日ですから、大人しくしていらっしゃらなくてはなりませんよ」
「サムルどのと話してはならないのですか」
 それはティナに向けられた質問でもあった。だが、その回答を持たぬティナは戸惑った。何と答えればハラルドは納得するだろうか。
「失礼をいたします」
 突然、男の声が割って入った。誰にしても助かったとティナは思ったが、それがウーリックであると分かると緊張に固くなった。
「ハラルド様、早くお支度を始めませんと、直ぐにサムル殿と話せなくなりますぞ」
 詩人の言葉に、ハラルドは慌てたように軽く頭を下げて館の裏口に消えた。呆れた様子のウナも会釈をすると、その後を追った。
「お久し振りでございます」
 何の為にウーリックがここにやって来たのかは分かっていた。返答をせねばならなかった。これから言わねばならない事を思うと、ティナの身体は震えた。
「こちらでお目に掛かれるのではないかと思っておりました」
「あなたは、サムル殿の立会人としていらっしゃったのでしょう。そちらのご用向きは――」
 ティナの言葉は最後が不明瞭になった。北海ではどうであるのかは分からなかったが、それはとても不作法な事であると幼い頃より言い聞かされていたのに、情けないと思った。
「立会人としての仕事は終えて参りました。皆、今は歓談の最中でしょう。集落の者達も間もなく来るでしょうが、(わたくし)めがいなくとも、誰も気付きはしないでしょう」
 詩人の存在が、それほど軽いものだとは思わなかったが、ティナは頷いた。どのような結果になろうとも、返答をしなくてはならない。この件に関しては、逃げ道はなかった。
「先だって、あなたがおっしゃった件ですが」俯き、ティナは少し震える小さな声で言った。「今、お返事をしなくてはいけませんわね」
「――できれば、その方が宜しいかと」詩人の声は静かであった。「しかし、いつであっても構わないと申し上げましたのは、私です。ただ、奥方様のご様子が気掛かりでありましたので」
 ティナは顔を上げた。詩人は心配そうな顔をしていた。本当に人が良いのだ、と思わずにはいられなかった。
「いいえ、いずれは決断しなくてはならないことですもの」
 ティナがそう言うと、詩人は居住まいを正した。
「はじめに、あなたに感謝を申し上げます。四年の間、ロルフさまに仕えていらっしゃったとはいえ、わたくしとはあまり関りをお持ちではありませんでしたのに、お気遣いをいただいた上に骨折りまでしていただいたこと、決して忘れはいたしません」
「私は、自分の為にしたようなものです。母が東方地域からの奴隷であったことは、以前に申し上げました。母の望みは、私が他の虐げられて苦しんでいる人々を助けることでありましたが、言い訳ではありますが、これまでは北海という巨大な力の前に何もできずにおりました。貴女は、機会を与えて下さったのだと思っております」
 動機はどうあれ、ティナに生き直す事ができるかもしれないという希望を与えてくれた。暴力に怯える日々から逃れるられる可能性を示してくれた。
「あなたのお気持ちを、ありがたく思います」
 ティナは言った。徐々に落ち着き、心は穏やかになっていった。
「それでも、もうしわけございません、わたくしは、この島を離れることはないと思います」
「理由を、お訊ねしても宜しいですか」
 まるで、その答えを知っていたかのように、機嫌を損じた様子もなく、詩人は言った。
「わたくしは、エリスを心配しております。あの子の、いつでも帰れる場所でありたいと思います」
「ご尤もな理由です」詩人は頷いた。「しかし、そう思っていらっしゃるという事は、サムル殿ではエリス様を幸福にはできないとお考えなのでしょうか」
「わたくしはサムルどののことは、何一つ存じ上げてはおりません。でも、娘のことは存じております」
 信用していないとは、推薦人でもあるこの男には言えなかった。取り引きの話も、同じだ。自分を救い出そうとしてくれた者であったとしても、秘密を分かち合う必要はない。
「ご自分の人生の全てを、それで諦めてしまえるのでしょうか。子は、いつか手を離れるものです。ハラルド様が成人なさって独立されたとしても、その先も貴女は、不確かな未来の為に辛い思いも我慢しようと仰言るのですか」
 男子を産めば、サムルにとりエリスは無価値な存在となるだろうとは、詩人には言えなかった。それは、ハラルドの成人の前であるのか後であるのかは分からなかったが、いずれであったとしても、島にエリスが戻って来た時には長期にわたって自分の存在が必要になると、ティナは思っていた。
 無言のティナを詩人がどう思ったのか知る術はなかった。その顔は変わらず真剣であった。暫く、二人はそのまま見つめ合った。やがて、先に口を開いたのはティナであった。
「わたくしが急に姿を消したなら、あなたの仰言るように死を装うのであれば、子供たちは――エリスは、ロルフさまを疑うかもしれません」
「お子達が、御存知であると仰言るのですか」
 詩人の顔が曇った。
「そうかもしれない、と思えば、簡単に全てを終わらせることなどできません」
「貴女は、白鷹殿の事を心配されているのですか。お子達の愛情が、あの方から失われる事を危惧しておいでなのですか」
 その問いに、ティナは(かぶり)を振った。詩人は深い溜息をついた。まるで、安堵したかのようであった。この男は、自分がいつしかロルフに愛情を感じるようになっていたのではないかと疑ったのか、と少し皮肉に思い、ティナは微かに笑みを浮かべた。
「わたくしは、何があろうとも、エリスを悲しませたくはありません。男の子達はいずれはロルフさまの後に続き、中つ海の母親のことなど忘れるでしょう。でも、エリスは違います。あの子には、父親を疑って欲しくはないのです。あの子はロルフさまを慕っております」
 誰に対してでもあっても、エリスに失望を味合わせたくはなかった。それは、自分一人で充分だ。
「分かりました。貴女の事情は、良く分かりました。しかし、このままでは、貴女は幸福ではないでしょう。エリス様が順調な人生を送られるかどうかを見極められるのであれば、ハラルド様が成人なさるまでであっても充分だと存じますが」
 エリスがどのような人生を歩むことになるのかを、ティナは予想できなかった。嫌々ながらも産まれた子供の為にサムルの許に留まり続ける事になるのか、無用としてサムルに追われて傷心のままに戻って来るのかを、見通せはしなかった。自分に占いや先見ができれば、どれほど良いだろうかとこれほど思った事もない。
「どこかで、貴女がそのような決断を下されるのは、分かっていたように思います」詩人は静かに言った。「それを受け入れます。但し、事情はいつでも流動的なものです。七年の後、私は今度は北の涯の族長の詩人としてこの島に参るかもしれません。その時にも、その後にも、同じ質問をする事をお許し頂けますか」
「わたくしは、生命のある限り、あなたを歓迎いたしますわ」
 ティナは言った。折角の親切心を断った自分を変わらず心にかけてくれるという言葉に、詩人の温かな人間性を感じた。
「お母さま、ウーリック」
 エリスの声に、ティナはびくりとした。かつてこの島に滞在していた詩人であるとはいえ、男と二人きりでいるところを見られるのは、誰であっても良い事ではなかった。ロルフに知られれば、やましい事は何もなくとも曲解され、不名誉を(こうむ)ったとして断罪されるかもしれない。
「ご挨拶に、伺っておりました」詩人はエリスに向き直って言った。動揺はない。「明日には出立しなければなりませんし、これがお目に掛かる最後の機会になるかもしれませんので」
「そうね、故郷の島に帰ってしまうのですものね」
 エリスは二人に近寄り、しみじみとしたように言った。その後ろに、サムルが控えている事にティナは気付いた。
「貴女が輿入れなさる時には、私は立会人の一人としております。交易島へ緑目殿が船を出される際に、渡るつもりです」
「しばらくでも、知った人がいるのはありがたいわ」
 サムルが、そう言ったエリスの背後からティナに向かって軽く頭を下げた。礼儀正しいが、何を考えているのか判然としない男である事に変わりはない。ティナの中で警戒心が、つのった。この男は、濫入者であった。
「ご挨拶にお見えになったのですか」
「ええ、まあ」
 詩人の言葉に、エリスは言い淀んだ。普段の娘らしくはない姿に、ティナは不審に思わずにはいられなかった。何かを隠しているようであった。
(わたくし)は直ぐにお(いとま)申し上げますので、少々、お待ちを」
 何事にも気付かぬ様子で詩人はエリスに向かって言った。だが、ティナに対して、どこか共犯者めいた笑みを向けた。その意味を判じかねていると、詩人はエリスに聞こえぬようにか声を潜めた。
「邪魔なのは、私共の方かもしれませぬね」
 世に認められた婚約者となった二人であれば、付添人は必要ない。エリスはどう考えているのかは分からなかったが、恐らく、サムルとの秘密の取り引きの話をしに来たのであろう。サムルの魂胆は、相変わらず見えない。
 そっと、若い男の様子を窺った。華やかさに欠ける男であったが、容姿は悪くはない。ロルフのような秀麗な男を身近に見て育ったエリスにとっては何ほどの事もないだろう。だが、頭は回る。狡猾さにかけては、エリスは既に正戦士であるこの男には遠く及ぶまい。ましてや、ロルフやヴァドルまで手玉に取れるのであれば、若い娘を甘い言葉で誑かすのは易かろう。奴隷の子として部族内では辛酸を嘗めてきたであろうに、その性根が真っ直ぐなものであるとは信じられなかった。
 しかし、今、ティナが目にしている男の風体から荒んだ様子は一切、感じられないのは、どういう訳なのだろうか。城砦に騎士や臣下の庶子が出仕する事もあったので、ティナもそういう者達の扱われ方も知っていた。決して嫡子と同等には扱われず、常に日陰の存在であらねばならない者達であった。騎士や臣下の列には決して加われず、良い所、従者にまでしか地位は望めない。それでも、蔑みしか受けない。
 奴隷の子であっても、サムルは他におもねる事なく生きてきたらしい。それが、サムルを歪ませはしなかったのか。それとも、人当たりの良い風体で全てを欺いてきたのか。
 エリスから一歩引いた姿は、地味であったので、悪く言えば従者のようにも見える。その顔には微かな笑みが浮かび、緑色の目は穏やかであった。静かに佇み、まるで自分の気配を消そうとしているかのようにも思えた。控え目に、目立たぬようにと生きて来たのかもしれない。
 だが、その顔に無意識にあらわれてしまっているのであろう表情に、ティナは胸を打たれた。そして、これが詩人がサムルを信用する所以なのだと知った。
 穏やかではあったが、その目は決してエリスの背から離れる事はない。大人しく詩人とティナの話が終わるのを待っているエリスに、声を掛けるでもなく、ただただその姿を眺めているばかりであった。
 ティナは、遠くなってしまった城砦での日々を思い出さずにはいられなかった。

    ※    ※    ※

 詩人と母が互いに礼儀正しく別れの言葉を交わし合うのを、エリスは不思議に思いながら見ていた。決して、族長の妻と詩人という立場を崩さないこの二人は、何か特別な感情を共有しているのだろうか。全てが儀礼的であっても、内心を語らなくとも二人が理解しあっているように、エリスの目には見えた。そこに愛情が介在しているのかどうかは分からない。例えそうであっても愕く事ではないと思う自分がそこにはいた。不義を犯しているのではない。二人の間にあるのは、そのような言葉では語りえないとエリスは感じた。
 一時(いっとき)であれ、立会人が席を離れるのは珍しい事ではないだろうか。それほどに重要な役目である。四年の間父に仕えていたとはいえ、母と詩人には大して接点のあった記憶はない。
「間もなく、結納財の披露目が始まりましょう。私は先に大広間に参ります」
 ウーリックの言葉に、エリスは頷いた。余り時間はない、と言いたいのだろう。軽くエリスとサムルに頭を下げ、詩人は去った。
 詩人の姿が建物の角を曲がり、見えなくなるとサムルが母に挨拶をした。それを聞いた母は、膝の上に広げていた手仕事を片付けた。
「あなたがたが節度を持っていらっしゃると、信用いたしております」
 そうサムルに向かって言うとエリスに頷き、母も去った。
 信用している、とは言われたが、エリスには「節度」というものは分からなかった。守らねばならない「節度」からは、自分達はとうに逸脱していると思った。
「父と話し合いました」サムルは辺りに誰もいない事を確認すると言った。「貴女がいらっしゃる際には、複数人の付き添いの女性を付けて頂くという事になりました。その者達を家に置く事を父は(がん)じませんでしたが、白鷹殿には黙っている事については理解を得ました。そして、貴女が不自由なさるようでしたら、農場から自由人の娘を雇い入れる事には賛成をしてもらいました」
「父は、納得したの」
 サムルがここにいるというのは、父がサムル側の条件を呑んだからに他ならないのだが、エリスは確認せずにはいられなかった。
「白鷹殿には、貴女の付添人を返す事は承諾を頂いております」
 しかし、農場の娘は奴隷を使う事に慣れている。同様の仕事を、例え対価があったとしても引き受けるだろうか。恐らくは、サムルの言う農場とは父親の所有であろうし、ならば貧しくはないはずだ。
「農場の娘よりも、他所の集落の食い詰め者の方が良くはないか、考えてみてもらえないかしら」
 ただ飯ぐらいの上に結婚の際には結納財を必要とする娘など何の役に立つのか、と公言して憚らぬ男達もいる。確かに、目に見える労働力としては男に劣るかもしれない。だが、稼ぎは手技さえ持っていれば馬鹿にはならない事をエリスは知っていた。ヴァドルがこの島では得られない色とりどりの糸を交易島で大量に購入してくるのは、頼まれ物ばかりではない。そのような事を口にする男達も、結局は女から産まれ、母や妻としての女に生涯世話を受けるというのだから、皮肉なものだ。
「それならば、直ぐにでも働き手は見つかるでしょう」サムルは微笑んだ。「娘の方としても、家で役立たずの何のと言われ続けるよりは、報酬を得て将来に希望の持てる方を選ぶでしょう」
 詳しく説明しなくても意図を読み取ってくれた事に、エリスは安堵した。サムルは頭の回転が速いのだ、と改めて思った。
 全くもって、悪い男ではない。悪い男ではないだけに始末に負えないところもあるが、嫌悪も(いだ)く事ができなかった。
「貴女の方から、何か聞いておきたい事や不安な事はありませんか」
 そう聞いてくるところも小憎たらしい。特に自分を懐柔しようという意図が見えないだけに、エリスは時にこの男への対応に困った。
 このような男は、今まで身近にはいなかった。父は常に上から見る者であり、ヴァドルは優しくはあったが女に対して気の回らぬところも多かった。その他の戦士達も、その点では似たりであった。ロロやアズルが近いかもしれないが、まだ年少である。
「いいえ、特に不安はないわ」
 真実を言えば、違う意味での不安が胸に巣食っていたが、それをサムルに話す訳にはいかなかった。これは、何があろうともサムルからは隠し通さねばならない。
「心の中にある事を正直に仰言って下さっても構わない、と前にも申し上げました。秘密にせねばならない事であるならば、墓場にまでも、あの世にまでも持って行くだけの覚悟があっての言葉です」
 口調も言葉も優しかった。エリスの久しく飢えていた心に、それは染み通った。ほだされてはいけないと、心を引き締めた。
「あなたの母君のことを、話して」
 知りたいと思ったのは、その事だった。サムルを傷付け、機嫌を損じるかもしれない問いであったが、秘密を打ち明けても構わないと相手が言うのならば、その秘密――恐らくは余り語りたくはないであろう事を、思う事を訊いておきたかった。話してもらえないのであれば、自分が心を開く必要は一切ない。
「母の――ですか」サムルは虚を突かれたような顔になった。「それは、意外な質問ですね」
「父君については、皆が知っているわ。人となりも、功績も。でも、あなたの母君のことは、きっと、最も身近であったあなたしか知らないと思うの」
 ヴェステインに対して、このような質問はできない。だが、結局は妻を娶る事なくサムルを嫡子と認めた男が、その女性とどのように暮らしていたのかが分かれば、向こうでの生活の一助になるだろうと思われた。
「母は――」サムルは言葉を選ぶようにゆっくりと言った。「母は、中原(ちゅうげん)の芸を生業(なりわい)としている人々の中にいたと奴隷商人から聞いたと、父は申しておりました」
 それは少し奇妙な話であった。唯論、エリスは中原というのが、中つ海の内陸部の呼び名である事は知っていた。更に言えば、中つ海は中原の沿岸部の事を示している。そこがどのような土地であるのかは分からない。北海人でその中心部まで到達した者はいないだろう。詩人が素晴らしい詩の褒美に族長から銀を受ける事を鑑みれば、何らかの芸で身を立てる者が存在していてもおかしくはない。
 しかし、サムルが母親から直接聞いたのではない事に、エリスは違和感を(いだ)いた。
「ああ、まあ――」
 エリスの疑問に気付いたのか、サムルは居心地が悪そうな顔になった。
「詳しく申しますと、母は、口がきけなかったのです。(くだん)の奴隷商人の言葉によりますと、本来は話す事ができていたのに急に喋れなくなったとか。何らかの声が出せなくなる処置をなされたのか、心的なものによるものかは分からぬと言われたそうです」
 北海では、恐らく、発声できなくなるような処置は知られてはいないだろう。発話できなくする事に、何らかの意味があるのかどうかも分からない。
「耳は聴こえておりましたので、日常的な事に不自由はなかったようです。意思を示す為に、父が文字を教えておりましたし」
 奴隷に意思を示す機会が、果たしてあるだろうか、とエリスは思わずにはいられなかった。それでもサムルの父親が文字を教えたという事は、一人の人間として認めていたという証ではないだろうか。
「ずっと母と共にいた私には、大抵の事は表情や仕種で理解できましたので、言葉は大して重要ではなかったと思います。父は無口でしたし、他に関りを持ったのは伯母くらいなものでしたから」
 そうではないだろう、とエリスは思ったが黙っていた。奴隷にせよ自由人にせよ、意地の悪い者はいる。奴隷の身分にありながら、族長家の一員から寵を受けたサムルやその母親が標的にならなかったとは思えない。
「独り子でありましたので、静かで単調な暮らしでしたよ。波風も立たず、淡々と日々を送っておりました」その頃を懐かしむような表情に、サムルは一瞬だけなった。「母は私に仕事を教えようとはしませんでした。生まれる前より父から嫡子であると認められておりましたので、母としては、戦士の息子として育って欲しかったのでしょう。だが、他に使う者を父は持ちませんでしたので、私は自然と母を手伝っておりました。だから、私は貴女が家事ができなくとも困りません。尤も、大抵の事は戦士の館で教え込まれるのですが」
「ロロも、皆、戦士の館ではそうなのかしら」
「恐らくは。北海であれば、どこでもそれは変わらないでしょう。遠征では食事の支度は交替で、服の修繕は自分で行わなくてはならないのですから」
 サムルはにっこりと笑った。それほど悪い思い出ではないのだろうか。
「あなたは、新人いじめにはあわなかったの」
「ああ、あれですか」事でもないようにサムルは言った。「私はずっと、奴隷の子と呼ばれてきましたし、人よりも下に見られる事には慣れておりましたから、自分の事を言われる分には何とも思いませんでしたね」
 言外に、母親の事は違うと言っているようであった。「ああいう輩は、こちらが反応するのを面白がっているのです。見習い間でも年上への反抗は許されませんでしたから」
「あなたが黙っていたなんて、信じられないわ」
 思い切った皮肉であった。何とかして、この男の澄ましたところを剥がしてみたかった。
「まあ、殴り合いは何度かしましたが、結局は力では負ける事も学びましたよ。それ相応の時期を待つ事も必要だと知りましたから、無駄ではなかったと思います」
 それ相応の時期、という言葉にエリスは冷たいものを感じた。冷静に、綿密な計算の許に、この男は動くのだろう。自分もその対象なのだと思うと、エリスは初めて、この穏やかに笑む男を恐ろしいと思った。受けた屈辱を、この男は決して忘れまい。
「貴女がそのような事を御存知であったとは愕きですが――ああ、弟君達からお聞きになられましたか」
 弟達がまだまだ子供だと思われるのはエリスの本意ではなかったが、真実を述べる訳にもいかずに沈黙するしかなかった。サムルは一人で合点がいったかのように頷いた。
「弟だ見習いだとは申しましても、それなりに矜持を持っておりますので、あれこれお訊ねになるのはお勧めしませんが」
 さっとエリスの顔が赤くなった。何でも聞き出そうとする性分だと言われているようで、心外であった。
「それで、母君は優しい方だったの、厳しい方だったの」
 慌てて話を話を戻した。誤解されたままにするのは嫌だったが、これも話す事はできない。
「優しい人でした。ただ、私の、父に対する態度は気に入らなかったようです」
「あなたは反抗したの」
 エリスは愕いて訊ねた。印象でしかなかったが、サムルと父親との関係は、話を聞く限りでは悪いものではなかった。
「そのように見えますか」サムルは顎髭を撫でて笑った。「父は親として接する事を私に求めましたが、母は飽くまでも恩ある主人として見るよう欲しました。大人の事情など知らぬ幼い頃は、どちらの意味も良く分からずに混乱するばかりでしたよ。大丈夫、私は父から嫡男としての扱いを、きちんと受けておりましたので、反抗など思いもしませんでしたね」
 嫡子としての扱いを受けていなくては、学問所に行ったり見習いになったりはできなかったはずだ。
「それは、色々と父には思う所がありましたが、全ては過去の事です。今は、良好な――大人同士の関係でいると思います」
 親子で大人同士の関係というものが良いのか悪いのかの判断を、エリスはできなかった。自分がまだ、そこまで精神的に成長していない事と、両親からもオルトやヴァドルからも子供扱いをされているからだ。結婚年齢に達したというのは、大人としての扱いを受けるという意味であったが、地位と心情とは違うようだと痛感した。その点では、弟達に後れをとっていた。ロロ達は、周りの扱いはともかく、精神は既に大人であった。
「母は、最後の最後まで、父とは奴隷と主人の関係を崩しませんでした」そう言うサムルは、少し寂しそうだとエリスは思った。「何を思い、何を感じて日々を過ごしていたのか、本当には、私は理解をしていなかった」
 それは自分も同じだと、自らを責めるような口調のサムルに言いたかった。だが、既に大人であったサムルと、まだ大人になりきってはいない自分とでは重みが違うだろう。
「ご病気であったのでしょう」
「はい。ですが、何の病であったのかは分かりません。突然に倒れて、療法師も一度診て死病であると言ったきりでしたから」サムルの言葉の端々には苦しみがあった。「以前から具合が悪かったのだと思います。それに気付く事ができなかったのは、私の不明です。直ぐに身を起こす事もできなくなり、痛みがあるのか苦しげにしていても、薬と言えば、意識を朦朧とさせるような禁忌に近いものしか効かず――私は既に正戦士でありましたので時間の融通はききましたから、可能な限りは傍に付いている事はできましたが、それだけです。何も打つ手はありませんでした。例え、早くに分かっていたとしても、できる事はなかったのだと言われましたが、少なくとも、苦痛を忍んでまで働かなくともよかったでしょう」
 サムルは苦渋と哀しみとが混然となったような溜め息をついた。やり場のない感情を、言葉のひとつもなく、口調も変化させずに吐き出したようであった。いつでも、この男はこんな風にして全てを耐えて来たのだろうかとエリスは思わずにはいられなかった。そんな様子を見るくらいならば、意地悪な事を言われたり、揶揄われたりする方がずっと良かった。今のサムルには微笑みの片鱗さえも窺えなかった。まるで、別人がそこにはいるようであった。
「私の受けた痛みなど、大したものではないでしょう。自由を奪われ、言葉さえも失った母の苦しみに較べれば、何ほどの事でもありません。遂には死病に倒れ――その人生とは、いかようなものであったのかと思うと、私の受けてきた苦痛など、比に値するものではないでしょう」
 この男は、母親を愛していた。
 それは、初めて母親の話題になった時に既に感じた事であった。その為に傷付き、今もまだ、苦しんでいる。だが、問うた事をエリスは後悔してはいなかった。本物のサムルという人間を、初めて目の当たりにしているのだと思った。
「父は、特段に感情を見せませんでした。私も、その事で父をなじったりはしませんでした。互いに大人でありましたし、個人的な感情には立ち入るべきではないと思いました。寵があったとしても、所詮は男主人と女奴隷の事。療法師に診せ、苦痛を和らげる薬を手に入れてくれた事だけでも充分すぎる待遇でしょうから」
 男であれ女であれ、寵愛を受けていた奴隷が、ある日突然に捨てられる光景を、エリスとて見た事がないとは言わない。自由人や戦士階級での色恋沙汰とは異なり、主人(あるじ)が全てを握っている支配関係だ。サムルの父親がどのような主人であったのかは知らないが、病に倒れた奴隷を家に(とど)めるだけではなく、療法師に診せたり薬を手に入れる、というのは滅多にない。自分を養育してくれた奴隷に対してさえも、それを行わない者もいるのだ。余程深い感情を持っていたのだろうと思った。
「しかし、私は所詮は考えの浅い未熟者に過ぎません。本当の事は、何も見えず知らずにおりました」
 サムルの言葉は、次第に独り言のようになっていった。その目はけぶり、空に向けられていた。エリスはただ、聞くしかできなかった。
「その事に気付いたのは、全てが終わった後でした。あっと言う間でしたよ。半月でした。どれ程の苦痛を、それまで耐えてきたのでしょうか、(いたつ)いて半月で、母は亡くなりました。その時の事は、今でもはっきりと憶えております。私は、母の傍におりました。寝付いて以来、殆ど意識もしっかりとしなかった母が、その時にははっきりとした目で、私を見ました。澄んだ鳶色をしており、そこには苦痛もありませんでした。私は、療法師の言った「死病」は、間違っていたのではないかと思いました。本当は、疲れが溜まっていただけで、病気ではなかったのだ、必要であったのは、休養であったのだ、と。それほどに明晰な意識でした」
 サムルは言葉を暫く切った。相変わらず、エリスとは目を合わさない。思い出は、今でもこの男を苛んでいるのだが、それを見せたくはないのだろうと思った。男とは弱味を見せぬものとして、父もヴァドルも弟達に指導してきたのであるから、サムルの父も同じであろう。
「母は、私が傍にいる事に気付かぬように見えました。それは、私にとっては胸を衝かれる事でありました。母は常に、私が嫡子として、戦士としての義務を果たす事を望んでいた人でしたので、成人してからというもの、私達の関係は母子(おやこ)と言うよりは主従に変化していました。それでも、私の方は近くにあろうとしたのですが、母の方がそれを望みませんでした――それが、病篤くなり存在さえも無視されたのかと、私は愛情を受けていたと思っていたのですが、果たして、母がどのように感じていたのかと疑いました」
 サムルの気持ちはエリスにも分かった。自分とサムル、二人の母親は地位こそ違えど立場は同じだ。拒否する事もできずに見知らぬ土地に連れて行かれ、子を産み育てた。この夏の間、エリスも、母が自分達に対して本当に愛情を感じていてくれているのか、何度も不安に襲われた。常に傍にいてさえそうなのだから、殆ど母親と過ごす時間を取れなくなる正戦士にとっては、確信が持てなくなるのも尤もであった。
 同じ気持ちになった事があったとしても、それを口にするのは憚られたし、サムルには底の浅い慰めの言葉としか聞こえないであろうと思い、エリスは黙ってその顔を見ていた。
「しかし、その目が部屋をぐるりと見た時に、母は父の姿を探しているのだと分かりました。何かを言いたげでありましたが、私には理解ができませんでした。複雑な事ではありません、ただ、母は、それまで一度も父の不在に対して何らかの感情を私に見せた事がありませんでしたので、なぜ、母が父の存在を気にするのかが分からなかったのです。貴女には衝撃的な事かもしれませんが、両親は私が物心つく頃には、普通の夫婦のように寝室を共にしておりました。それでも、主従の関係は、壁は、はっきりと存在していましたよ」サムルはエリスの方を見て、少し笑った。「遅かれ早かれ、死にゆく人でしたので、望みは何でも叶えたかった。会いたいのであれば来るかどうかは定かではなくとも、取り敢えず知らせようと思い、私の不在の間に母の世話をする為に伯母の家より寄こしてもらっていた女を使いに出したのです。何か口にしたいものはあるか、と訊ねましたが、母にはその言葉も届かぬようでありました」
 サムルは目を伏せた。「どのくらい待ったのかはわかりませんが、私が愕いた事に、父は戻りました。それに気付いて、枕から頭を上げる事もできなかった母が身を起こしたのです。縋るような、哀しそうな目で父が近寄る姿を見ておりました。私は一歩引いてその様子を眺めていました――何もかもが、理解の埒外だったのです。父が寝台の脇に膝をつくと、母はその首にかじりつきました。そして、言ったのです――ヴェステインさま、と。掠れた不明瞭な、それでいて万感の想いをこめた一言でした。父は大きな溜息をつき、母の身を抱き締めました」
 言葉を切って、サムルは暫く物思いに耽るような目をした。当時の光景を眼前に見ているのだろうとエリスは思った。
「それが、最後でした」
 拍子抜けするほどあっさりとサムルは言った。だが、その心が平静ではない事も見て取れた。
「母の身体から生命が失われたのは、私にも分かりました。父は深い溜息をつき、涙を一粒、こぼしました」
 サムルの言葉は静かであった。エリスは、何も言えなかった。言うべき言葉を持たなかった。
「――貴女が、泣く事ではありませんよ」
 ややあって、サムルが言った。少し愕いたような響きがその口調にはあり、エリスは、初めて自分が涙を流している事に気付いた。
 哀しい話であった。残酷でもある。そして、美しいとエリスは思った。最後の最後であったとしても、二人は互いの間に愛情の存在する事を知ったのだ。それでサムルの母親の人生が幸せであったとか報われたとかは思わない。結局二人は、主従の関係を崩す事が出来なかったのであるし、愛のある事を表すのが遅すぎた。
 エリスが両手で顔を覆うより早くサムルが動き、胸にエリスを抱き寄せた。子供にするように頭を撫で、穏やかな声で話しかけてきた。
「貴女が泣くような事ではありません。優しい方だ。あなたを泣かせるつもりなど、なかったのですよ」
 そうかもしれない。サムルは、同情を買おうというような男ではないはずだ。だが、エリスは涙を止める事ができなかった。
 サムルは幸せだ、と思った。遅きに失したとはいえ、両親は互いに愛情を(いだ)き合い、少なくともサムルはその中で育ったのだから。主従の関係にあろうとも、いかなる事情があってヴェステインがサムルの母を解放して正式な妻と為さなかったのかという疑問はあったとしても、少なくとも二人の間に恐怖や憎悪はなかったと断言できる。それは、ある意味幸せではないだろうか。
 しかし、違う。
 サムルは傷付いている。
 最後にあたって、母親を疑ったからだ。両親が想い合っていたにしても、それを互いに見せる事がなかったのだから、気付き合えなかったのだから、サムルにその事が分かろうはずがない。サムルが責任を感じる事はないのだと、エリスは感じていた。だが、自分も母を疑った。それだけではない、なじるような事まで口にした。まだ謝罪を出来ていない事も含めて、それはいつもエリスの心の中にわだかまり、責め苛んだ。
 理解できる、と告げて、自分の置かれている状況を伝えたかった。全てを打ち明けて解決策を教えて欲しいと思った。サムルならば、何か良い考えを思い付く事ができるかもしれない。
 駄目だ。
 エリスは腕を突っ張ってサムルの胸から自分を引きはがした。思いがけず居心地の良い腕の中から離れるには、強力な意志が必要であった。
「大丈夫よ。服を濡らしてしまったわ、ごめんなさい」
 そう言って、エリスは袖で涙を拭った。サムルは穏やかな顔で微笑んだ。
「いいえ、私の服で宜しければ、貴女の涙や鼻水を拭うのに否やはありませんよ」
「鼻水なんて、出ていないわ」
 ふざけたようなサムルの言葉に顔を赤くしたエリスはつい、声を荒げた。その様子が余程おかしかったのか、サムルは声を上げて笑った。その急な変化に、エリスは戸惑わずにはいられなかった。この男は、ふざけた態度の奥に他に何を隠しているのだろうかと勘繰った。
「貴女が申し訳ないと思っていらっしゃるのでしたら、私の願いを一つ、叶えて下さいませんか」
 この上に、何を願うと言うのだろうか。正式な取り決めが終わった今となっては、自分にはもう、サムルに対してできる事などないというのに。
 不審に思いながらも、エリスは頷いた。サムルの笑みが大きくなり、エリスは自分が早合点をしてしまったのだろうかと少し後悔をした。だが、この男が理不尽であったり、エリスに著しく不利益な事柄を望むとは思えなかった。
「では、貴女の、唇を頂きたい」
 その言葉にエリスは怯んだ。更にサムルの笑みが広がった。
「いえ、何も、貴女のお顔から唇を引っ剥がそうというのではありませんよ」
 心を読まれてエリスは全身から火が出る思いだった。とっさの勘違いであるにしても、さぞや情緒のない人間だと思われた事であろう。
「私は貴女の婚約者として、未来の夫として、この部族に迎え入れられました。しかし、島へ戻れば直ぐに遠征へと出発しなくてはなりません。これが今生の別れとなるのかもしれないこの身を憐れと(おぼ)し召すならば、婚約者としての権利を少しばかり行使させては頂けませんか」
「明日をも知れない生命だから、と言うのは卑怯だわ」
 エリスはサムルを睨んだ。
「では、せめて、再び貴女にお会いする時までの思い出に」サムルは笑った。「その方がお好みですか」
 ふざけてばかりだ。
 エリスは黙って地面を見た。そろそろ、夏も終わる。父もヴァドルも、サムルが帰れば遠からず遠征に出て行くだろう。二人に対してそうであるように、この男が帰って来ないかもしれぬとは考えた事がなかった。だが、サムルの部族内での地位の上がるのを好まぬ者は、良からぬ事を考えてこの機会を良い事に亡き者にしようとするのかもしれない。
 例え、今生のであろうと、冬の間のことであろうと、白鷹の娘を屈服させた証としたいのならば、そうすれば良い。成功の褒賞であったとしても、エリスは気にしないだろう。男という生き物は、何かというと唇付けを要求してくるという女達の言葉も、胸の中にあった。
 それに、唇付けの一つや二つで何が変わるとも思えなかった。
「――いいわ。でも、一度だけよ」
 エリスの言葉に、サムルは大きく笑んだ。してやったり、と思うならば思えば良い。結婚した後でエリスがどのような人間であるかを知って後悔しても遅いのだ。
 もとより、エリスはこの結婚を少なくとも表面上は、巧くいっているように見せる必要がある事くらいは知っていた。自分は納得ずくで全てを受け入れたのだと、皆に見せねばならない。調子に乗られるのは勘弁して欲しいが、サムルもエリスの考えは知っているはずであった。
 それとも、この夏の間にエリスの考えが変わったと、結婚を歓迎するようになったとでも思ったのか。
 ならば、それはとんでもない勘違いだと思い知らせなくてはならないだろう。
「では」
 サムルの手が、エリスの肩に置かれた。その顔に少し苦笑が浮かんだ。「ええと、そのように睨まないで頂きたいのですが。出来れば、目を閉じて頂けると有難いです」
 睨みつけてなんかいないわ。そう反論しようとしたが、止めた。そして、言われたように目を閉じた。

時には、男の言う事に従った方が良いと、館に上がってオルトの指導を受けている娘達からサムルの求婚後に忠告を受けていた。そう年齢は変わらないのに皆、当然のように経験しているのだと知って、少し動揺した。あなたは族長の娘だから、と言われたが、ここでも自分は置き去りの気分だった。
 エリスがそんな事を取り留めもなく思い出していると、唇に何かがそっと触れた。枯れ葉かと思う間もなく、ぐいと押し付けられた。乾いた唇だ、海を渡って来たから荒れているのかもしれないと、どこか冷静に考えている自分にエリスは気付いた。他の娘達が言うような、胸の高まりも感じなかった。
 所詮は、互いの利益の為に結婚する相手だもの。
 エリスはそう思った。だが、サムルはなかなか放してはくれない。男の欲望、という言葉がエリスの頭の中に浮かんだ。いつだって、男は何かと理由をつけては手を繋ぐ以上の事を要求しますからね、というオルトの忠告も思い出した。だから、男と二人きりになってはいけないのだと、教わった。
 正式な婚約者として二人きりになるのを許されるのは、周りもそれ以上の事が起こったとしても容認するという意味なのだ。その事に気付き、エリスは少しく慌てた。
 時間にしてみるとあっと言う間であったであろう、強引に唇を割って侵入してきたものに、エリスは思わず噛みついた。
 ぱっとサムルが手を離し、エリスが突き飛ばすより早く身を引いた。
 数歩離れた場所でサムルは口を押え、じっとこらえるかのように俯いた。暫くそのまま動かなかったが、やがて顔を上げると唾を吐いた。
 殴られるかもしれないと思い、エリスは身構えた。肌身離さずにいる片刃の小太刀の柄に手をかけた。
「酷いなあ」
 間の抜けた声でサムルは言った。「酒がしみそうだ」
「あなたが悪いのよ」
 硬い声でエリスは返した。
「貴女が一度だけと仰言るから、それを最大限に活かそうとしただけではないですか」
「子供ができたら、どうするのよ」
 怒るエリスに、サムルは瞬間、呆けたような表情をし、顔を背けると口を手で覆った。肩が震え、ぐふっと息を漏らした。
 エリスは顔に血が上るのが分かった。馬鹿にされていると思った。ますます怒りが増した。
 娘の一人が、男の身体の一部が女の身体に入ると子供ができるのだと、こっそりと教えてくれた。サムルがしようとしていた事は、それだ。結婚前に身重になるのは自由人では珍しい事ではないが、戦士の娘ではそれは非常に不名誉であり、子の父親と一族の男達との揉め事の種でもあった。年に一度や二度はそういう事件が起こり、父の許に裁定が持ち込まれる事は知っていた。
 ましてや、エリスはうんざりするほどに、オルトから、族長の娘には結婚まで純潔である事が求められるのだから、決して軽はずみな真似はするなと言われていた。この男の表面上は慇懃な態度を信用した自分が愚かであったと後悔した。
「笑いごとではないわ」
 まだ肩を震わせているサムルに、エリスは苛立った。男にとっては大した問題ではないかもしれないが、女には違う。この男ならば、女の名誉も気にかけているだろうと思っていた自分が馬鹿だった。
「いや、失敬」
 サムルが真面目な顔をして向き直った。だが、目はまだ笑っている。「その心配はないとだけ、申しておきましょう」
 その言葉を聞いても、エリスの怒りは収まらず、そっぽを向いた。欲望を(とど)めなかった相手に対しても、自分に対しても腹が立って仕方がなかった。
「そろそろ、戻った方が宜しいでしょう」サムルが言った。「一緒に戻りますか、それとも別に」
「あなたが先に戻って」
 素っ気なくエリスは答えた。あのような事があって、どうして一緒に大広間に戻って他の人々と顔を合わせる事ができるだろうか。知られたら、どうするつもりであるのか。
「貴女が島にいらっしゃるまでには、もう少し、大人になっていて下さると助かります」
 まだ笑いをこらえているような顔でサムルが言い、軽くお辞儀をした。それを目の隅に捉えながらも、エリスは無言でいた。更に苛立ちがつのった。
 子供扱いをされたのもさる事ながら、先程の出来事を全く意に介してはいないかのような態度が気に入らなかった。
 しかし――しかし、とエリスは気付いた。サムルは噛みつかれた時、自分を突き放したりはしなかった。咄嗟の際には、誰だって自分から離れるのではなく、相手を除けようとするのではないだろうか。少なくとも、エリスはサムルを突き飛ばそうとした。
 揶揄うようなふざけた調子のサムル。哀しみと苦しみとに苛まれるサムル。それでいて、冷静で揺らぎのないところと思わぬ気遣いを見せてくる。
 あの男には混乱するばかりだ、とエリスは溜め息をついた。
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