第9章・夏の終わり

文字数 6,510文字

 北海の秋は早い、とティナは思った。自分がここに来て月はひと巡りした。中つ海での暦はここでは役に立たない。北海の人々は、そのような物を持たないからだ。いつしか、日にちを数えることも忘れていた。
 近々、「遠征」へ行くと言うので、集落は落ち着かなかった。誰もが興奮状態にあった。だが、ティナは複雑な気持ちで一杯だった。
「遠征」という名は耳に心地よく響くかもしれないが、結局は襲撃と掠奪だ。かつて北方地方の異教徒に行われた討伐戦争のようなものが、北海の海賊部族に対して行われる事はないのであろう。北海人が中つ海を荒らしまわり、人々が恐ろしい思いをしなくてはならない季節の到来であった。
 あの男――ロルフとの会話は相変わらずなかった。だが、遠征の準備をするのは妻の務めだとオルトに言われた。長櫃の中に全ての用意を入れて行くと言うので、オルトと共にその点検をした。
 服は帰りの気候を考えて冬物も入れなくてはならない。全ての衣服に、大神の加護の刺繍が入っている。だが、大神を信じてはいない自分がそれを刺しても、意味があるのだろうかとティナは思った。
「靴下はもう少し多めに入れましょう」
 オルトが言い、ティナはそれに従った。この編み方はまだ習得できていないので、オルトが作った。
 全てが新品だ。
 そんな贅沢は、領主と謂えどもしてはいないのではないかと思われた。
「正装の準備はいかがですか」
 オルトの言葉に、ティナは黙って寝台の上に広げてあった長い赤の胴着を取って来た。生地は他人が織ったものだが、仕立てはティナが行った。
「立派な物ですわ」オルトは感心したように言った。「これを着て船に乗られれば、きっと映える事でしょう」
 そうかもしれない。だが、ティナにはどうでもよかった。二人の関係は全く変わってはいなかった。ましてや、これから自分達の領地へ掠奪に行く男の服の世話をしなくてはならないのは、ティナにとっては苦痛ですらあった。
「来年には、赤の服で遠征に参加する者が増えそうですわね」
 オルトは褒めているつもりなのだろうか。ティナは不思議に思った。褒めて貰っても嬉しい事はない。そう言いたかった。褒められたくて作った物ではない。必要に迫られて、それが、妻の務めだから作ったに過ぎない。
 長櫃の中に、検めた物を入れてゆく。
「どうせ、全て駄目にして帰って来るのですけどね」オルトは言った。「せめて新しい物で送り出して差し上げましょう」
 そういうものなのだろうか。どうせ駄目にしてしまうのならば、古着でも構わないのではないだろうか。新しい物は、出発の時に着る物だけで充分ではないだろうか。殿方というものは着る物に大して注意を払わないものですよ、と乳母も言っていた。
 乳母の事を思い出して、ティナは泣きそうになった。それをこらえる為に、長櫃の中に衣服を入れる事に集中した。
 全ての準備が整うと、オルトは自分の息子の準備の為に出て行った。今ではティナもオルトの息子が船長であり、あの男と乳兄弟である事も知っていた。こちらから訊かなくとも、オルトが教えてくれたからだ。だが、ティナの事については何も訊きだそうとはしない。それが有り難くもあった。
 溜息をついて、ティナは大広間へと行った。そこでは奴隷達が今宵の宴に向けての準備をしていた。
 ここに来てひと月になるが、ティナはまだ、集落へ赴いた事はなかった。作法が分からぬ事もあったが、あの陰気な人々にどう接すれば良いのか分からなかった。城砦では、町の人々の中に入る事もなかった。肩書きこそは族長の奥方であったが、ティナはよそ者だった。果たして、受け入れられているかどうかも分からない。そんな所へ身を置く事は憚られた。
 だが、あの男が遠征に出て行ってしまえば、ティナがその権限を委譲される事になるらしい。その時、どう振る舞えばよいのであろうか。それまではオルトが代理を務めていたようだが、全てをオルトに丸投げしても良いものかどうかも分からなかった。
 実際には、関わり合いになりたくなかった。
 あの男には唯論の事、この島に住む誰とも関わりたくはなかった。慣習は覚えると便利だから学ぶ。だが、人々と触れ合うのはまた別の話だ。オルトも北海人としては良い人だとは思うが、その人となりを深く知ろうとは思わなかった。ここの人々に深入りする気はなかった。
 北海人にしてもそうだろう。
 中つ海の者に、何を相談するというのだろうか。結局は分かり合えないで終わるのではないだろうか。
 ティナは大広間では何もする事がないのを見て取った。族長室に戻り、作りかけの靴下を手にした。これは自分の分だ。持参した物では薄すぎるとオルトに注意された為、新しく作っている。実に不格好な靴下だ。だが、必要だと言われれば仕方がなかった。編み方は中つ海の方法だ。野暮ったい厚い物になるだろうが、これは従う外はない。
 針を動かしていると、あの男が部屋に入って来た。ティナには一瞥もくれる事なく、外衣を取り出すと黙って出て行った。これが日常だった。それを寂しく思う事もない。放っておいて貰えて幸いだとしか思わなかった。
 政略結婚とはこういうものなのだろうかと、時には思う事があった。自分の両親が特別で、普通はこんな風に互いに関心もなく過ごすのだろうか。だが、自分には愛に満ちた生活が用意されていたはずだった。あの男が自分の人生に現われなければ、そうなっていただろう。
 ティナは知らず、手を止めていた。
 今宵は小さな宴席が設けられる事になっていた。ティナも同席しなくてはならない。気が進まなかったが、それも族長の妻としての務めだった。
 全てが「務め」であった。まるでそれ以外の動機は存在しないかのように、全てが「務め」の一言で動いていた。その方が気が楽でもあった。それ以上のものが必要だろうか。
 男との生活は静かだった。夜を除けば、男がティナに関心を寄せる事はない。言葉もなく、互いの存在をもないかのように過ごすのは、平和だった。今宵は結婚式以来の宴会で、ティナはどのように振る舞えば良いのか分からなかった。前は機嫌良くしていろと言われた。その通りにしていればよいのだろうか。
 愛想笑いを浮かべて座っているのは得意ではなかった。しかも、高座である。皆の注目も浴びやすい。
 ティナは溜息をついた。

    ※    ※    ※

 遠征の準備は着々と進んでいた。船の塗装も終わった。武器類の手入れも万全だ。
 ロルフはヴァドルと共に浜を歩きながら個々の船を見て回った。全部で五隻だった。他の集落から、まだ一隻が来る予定にはなってはいたが、そちらも準備を調えて来るはずだ。毎年の事ながら、遠征が近付くと心が躍るものがあった。今年のように見送る者がいなくても、だ。
「占いでは、今年の遠征は五日後の出発が良いそうだ」
 ロルフはヴァドルに言った。
「充分、間に合いますな」
「オルトがお前の準備に出て行ったぞ」
「はあ」
 ヴァルドは頭を掻いた。「また、母にはお説教を喰らう事になりそうです」
「早く結婚せんから、そうなるんだ」
 ロルフは笑った。「いい加減に覚悟を決めろ」
「私は不調法者ですから」
 実際には、ヴァドルは真面目すぎるのだとロルフは思っていた。軽々しく女に声を掛ける事もない。そんなヴァドルを憎からず思っている女がいたとしてもおかしくはないのだが、なにしろヴァドルは自分の容姿に自信がなさすぎる。
 赤っぽい茶色の髪と緑の目をしており、髭もなかなか立派なものだった。容姿もそれなりに良い方だとロルフは思っていた。ロルフの父の遠戚がその父親であり、少し似ている部分もあった。ただ、性格が穏やかなので、良くも悪くも女に気付かれ難いのだろう。
「出航の日が決まったのでしたら、触れを出さねばなりませんな」
 ヴァドルが話題を戻した。
「先程、早馬を送った。一両日中には来るだろう」
「戦士長によりますと、皆の仕上がり具合も宜しいようです」
 ロルフは無言で頷いた。
 遠征を率いるのは大変だ。だが、やり遂げなくては冬を無事に越す事が難しくなる。今年は交易島で穀物を仕入れる事が出来なかった。年々、中つ海の護りは堅くなっているが、それでも、綻びはあった。そこを突くのが重要だった。それには、手足となって従順に命令を実行する戦士が必要になる。しかも、勇敢でなくてはならない。
「船長を辞して、私の副官になる気は、まだないのか」
 そう、ロルフは訊ねた。
「私が貴方の副官になど、とんでもない」ヴァドルは足を止めた。「有り難いお話だとは思いますが、荷が勝ちすぎます」
「私はお前以外は考えてはいないのだがな」
「族長船の船長で充分、取り立てて頂いたと思っております」
「欲がないな」
「欲など」ヴァドルは笑った。「かけばかくほど、きりのないものですから」
「他に適任はいないというのが、皆の意見だが」
「狡いですぞ」ヴァドルは言った。「外堀から埋められるとは思いもしませんでしたよ」
「狡いものか」
 ロルフは笑った。「そうでもしなければ、お前は承知しないだろう」
 困った、という顔でヴァドルは溜息をついた。
「では、今回の遠征はお試しという事でお願い出来ませんか」
「お試しか」
 少し考えてロルフは答えた。「宜しい、では、そういう事にしよう。だが、この遠征で皆に見られる事を忘れるなよ。遠征から戻ったら、投票だ」
 ヴァドルは頷いた。
 どれ程固辞しようとも、副官にヴァドル以上の者がいないのは確かであった。船長を続けたいのであれば、兼任することを考えても良いとロルフは思っていた。それは珍しい事ではない。それに、投票ともなればヴァドルも逃げられまい。
 ロルフは海を見やった。早くこの島から出て行きたかった。塚の前を通る度に、幸せであった頃の思い出が甦る。全てのものが、子供達の記憶と結びついていた。そうしたものから遠く離れていたかった。逃げかもしれなかったが、毎日を思い出と結びついたものに囲まれて過ごすのは辛かった。
 それでも日々は続いて行くものだ。ロルフは思った。生きている限り、日々は続く。満たされぬ思いを(いだ)いたままに。

 遠征前日の宴会には、参加する全戦士が列席する事になっていた。夏の間にロルフの身に何があったにせよ、遠征に出るというのは部族にとっては一大事だった。無事に戻って来られるかどうかもわからない。それだけに、この時に羽目を外す者も多い。だが、そこは大目に見てやらねばならないだろう。遠征とは、過酷なものでもあるのだ。
 高座からロルフは部下達を見渡した。末席には、今回が初めての遠征となる十八歳の若者達がいる。その者達はまだ、遠征とはどういうものかを先達の話でしか知らない。大人の宴会にも殆ど出た事のない者達だ、どのような気持ちでいるか、ロルフにはよく分かった。自分にもそのような時があったし、高座に座するようになって、まだ、たかだか三年だ。初めて族長としてここに座った時の事は今でもはっきりと思い出せた。二人の子が、目を輝かせて自分を見ていたのが昨日の事のようだった。
 しかし、今回の遠征では誰もいない。自分を誇りを以って見る者達もいない。待つ者さえも、いないのだ。
 ロルフはちらりと隣の席の女に目を向けた。
 相変わらず陰気な顔だった。にこりともせずに座し、時折、杯に口をつける他はじっとしている。
 どうしてエリシフに似ていると思ったのだろうか。例え雰囲気だけであるにしても、今はその欠片もない。ロルフは自らの不明を恥じた。この女が似ていると感じた事が、エリシフに対する侮辱のようにも思えた。
 機嫌良くしていろ、とロルフは女に言おうかと思ったが、結局止めた。言ったところで、この女の陰気なところは変わるまい。笑った顔どころか、微笑む事すらもないのだ。如何に意に沿わぬ結婚とはいえ、良人に対してそのくらいはして見せるのが普通だろうに、とロルフは思わずにはいられなかった。
 戦士達は、そのような事にも無頓着のようだった。もう既に、ロルフの新しい妻が中つ海の者である事は皆が知っているであろう。噂とはそういうものだ。だが、それを一々ロルフに確認するような馬鹿もまた、いない。族長船の乗組員にはそれとなく訊く者はあるかもしれぬが、詳しい事情を知るのは一握りだ。そして、ロルフの心を知る者は誰もいない。ヴァドルでさえも、なぜ、自分がこの女をエリシフの後釜に据えようと思ったのかを知らない。そもそも、話す事でもなかった。
 誰もが、新しい跡継ぎをロルフが必要としている事は分かっている。その為の妻である事も。それが、中つ海の者であるというに過ぎない。北海の者の子でなければ相続権はないという法もないのだ。唯論、来年の族長集会では、二人の子の死と再婚とを報告せねばならない。それまでには、哀しみも苦しみも、少しはましになっているだろうか。
 エリシフが亡くなった時には、二人の子がそれを癒してくれた。だが、その二人が失われた今、誰が、何がロルフを癒してくれるだろうか。自分の隣にいる女か。それともまだ産まれぬ子か。
 有り得ない。どのような子であったとしても、エリタスとヴェリフの代わりにはならない。あのように愛らしく聡明な子は、他にはいない。あれは、エリシフの子であったからだ。この陰気な女の子では、それは到底望めそうにもなかった。
 ならば、自分はどうしてこの女を連れ戻ったのか。
 あの時はエリシフに似ていると思った。何故、そう思ったのだろうかと今では思う。少しは似ているかもしれない。だが、あの輝く美貌はなかった。見ている方が思わず微笑み返したくなるような笑みもない。
 ロルフは後悔し始めていた。あの時、どうして子供を殺す手を止めてしまったのだろうか。どうして、もっと早くに始末をつけなかったのか。
 そうしていれば、今このように懊悩する事もなかったはずだ。領主の子供全てを始末できていたはずだ、あの女を含めて。
 一瞬の魔だった。まさに、魔が差したとしか言いようのない瞬間だった。それで、全てが決まってしまった。
 子供を殺し、領主の他の子供達を引き摺りだした時、やはり、自分はあの女に同じものを見ただろうか。
 まあ、良い。ロルフは思った。遠からずこの女は孕むだろう。その為だけに、毎日女を抱いた。
 過ぎ去った日々は戻らない。だが、少しでもそれに近い状態に戻す事はできるかもしれない。
 それには子が必要だ。女ではない。
 女には何も期待してはいなかった。もう少しましな女かと思っていたが、見込み違いのようであった。あの瞬間に見せた勇気は、船に乗ってから微塵も感じられなかった。
 男達の間では力較べが始まった。無謀にもヴァドルに挑戦しようという者もいる。ヴァドルはその者達を簡単に捩じ伏せるだろう。
 ロルフは杯を重ねた。座も乱れて行き、女が立ち上がった。だが、ロルフは止めなかった。女がいようがいまいが、変わりはなかった。それは居並ぶ男達にしたところで同じだ。族長の妻の列席は儀礼的なものに過ぎない。
「あまり、御酒(ごしゅ)を過ごされませんように」
 そっとオルトがロルフに言った。
 酒を過ごしたところでどうなるというのでもない。ロルフは思った。若造でもあるまいに、明日の出発に寝過ごすとでも言うのだろうか。二日酔いの痛む頭を抱えて船団を率いるとでも言うのだろうか。
 ロルフは口元に笑みを浮かべた。オルトのような女からすれば、ロルフは何時まで経っても子供なのだろう。ヴァドルにしても変わるまい。族長になろうとも、一家を構えようともそれは変わらないのかもしれない。煩くはあったが、悪い気はしなかった。早くに母を亡くしたロルフにとり、オルトは言葉通り母親代わりであった。
 オルトの進言を無視してロルフは呑んだ。気付けば、高座で眠っていた。大広間は酔い潰れた男達の鼾に満ちていた。ヴァドルもだらしなく卓に突っ伏している。
 ふらふらと、ロルフは立ち上がった。正体を無くすまで飲んだのは久し振りだった。はっきりとしない頭で、族長室に向かった。
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