第24章・孤独

文字数 4,743文字

 ロルフは苛立っていた。
 どれほど拒絶しようと、エリスは諦めずにあの女に会わせて欲しいと言う。夏になり、ようやく島を覆っていた死の翼がたたまれたというのに、頑固な娘に悩まされるとは思ってもみなかった。いや、頑ななのは自分譲りなのかもしれない。
 そこに加えて、今日はロロまでがその事を持ち出した。ひと冬、あの女に会わなければその存在を忘れてしまうと思ったのに、そうは事が運ばなかった。ようやく子供部屋から解放された子供達は、楽しげに大広間で遊び、はしゃいだ。だが、その中でもエリスとロロはそれを見やるロルフの許にやって来て、あの女の事を訊ねた。思わず眉をひそめてしまったロルフにも気付かぬ風に、まだ具合は悪いのかと聞いてきた。
 エリスもロロも、年齢の割に聡い。ロルフ以外の者の偽りなど、すぐに見抜くだろう。あの女がどのようにして子供達を手なずけたのかは謎であったが、母親という立場を、ロルフが父親であるという事を利用しているのと同じように使ったのかもしれない。
 不機嫌にロルフは蜜酒を飲んだ。
 女の腹は確実に大きくなって来ている。その子が産まれたならば、女を始末するのも良いかもしれない。潮時なのだろう。スールが失われた時にすべきだった事を、新たな子が世に出でてから為すまでの事だ。
 今まで、女を手に掛けた事はなかった。だが、今回はそうはゆくまい。出産で疲れた女に、薬湯だと偽って毒を盛れば良いだけの話だ。出産で生命を落とすのは、よくある事だ。
 それだけの事だ。
 なのに、心にはさざ波が立つ。
 如何にスールを死なせたとは言っても、他の子供達にとっては母親である事には違いはない。どのようにして懐かせたかは置いておいても、エリスとロロは哀しむだろう。そのような顔は見たくはなかった。子供達に対して罪悪感は抱きたくはなかった。
 そして、ヴァドル。
 あの男は、何も言わなくとも真相に気付くだろう。そのような弱味は曝したくはない。
 例の一件以来、二人きりで会う事はなかった。それは、常に行動を共にして来たロルフとヴァドルの間には、今までなかった事だ。小さな意見の食い違いはあったとしても、それは問題ではなかった。冬の間は誰も気付かなかったようだが、これからはそうは行くまい。目ざとい者はいる。ヴァドルに良い感情を持ってはいない者も。二人で行動しなくなったとなれば、誰もがヴァドルがロルフの寵を失ったと見るだろう。
 そうではない。ロルフはヴァドルを信用したかった。信頼を置きたかった。あの女の味方をせずに自分の方に帰って来るならば、諸手を挙げて歓迎するつもりである。
 その機会は冬の間に幾らでもあった。しかし、ヴァドルは来なかった。オルトも、ヴァドルの動静については何も言わなかった。
 あの女は、ロルフからスールだけではなく、ヴァドルまでも奪った。それも許し難い罪だ。
 無害な大人しい女だと思っていた。交易島に運命を狂わされた憐れな女だとも思っていた。だが、どうにかして、あの女はヴァドルを籠絡したのだ。堅物で生真面目な男が、族長である乳兄弟に反抗してまでもあの女を庇った。ウーリックとの事も勘違いだろうと思っていたが、二人の間には何かがあったのかもしれない。
 だとすれば、ロルフは何を、誰を信じれば良いのだろうか。子供達の出自をまで、疑わねばならないのか。エリスは確かに、ロルフの子だ。女は生娘であったし、懐妊が分かるまで族長室に監禁状態であった。だが、ロロはどうだろう。オラヴは。アズルは。スールもそうだ。疑い始めると、きりがなかった。どの子供にも、ロルフは自分を見る事が出来た。それは、思い込みに過ぎなかったのだろうか。スールの死に女が取り乱したのは、ロルフではない誰かの子だからだろうか。
 ロルフは額に手をやり、髪を掻き上げた。疑ってはいけない。子供達は全て、自分の子だ。そうでない道理がない。オルトや集落の者の目を盗んで、あの女が誰かと関係を結ぶ事は不可能だ。ロルフが集落の女と関係を持つのとは違う。
 だが、愛してもいない男の子供を、あれ程までに悲痛な声で嘆く事ができるのだろうか。身分のある中つ海の女は、子供は産みっぱなしではないのか。少なくとも、ロルフが交易島で聞いた話ではそうだった。あれは、無責任な噂話にすぎなかったのだろうか。
 分からない。
 真実はロルフには見えなかった。

    ※    ※    ※

 赤ん坊を迎える準備は着々と進んでいた。何しろ、時間ならたっぷりとあった。時折、外衣を取りにロルフが入って来る事はあったが、それすらも気にはならなかった。二人が会話を交わさないのは、いつもの事だった。ティナは話しかけられれば答えたであろうが、ロルフは一言もティナには言葉を掛けなかった。表面上は、日常が戻って来ていた。それも自分の出産までだという事を、ティナは承知していた。
 ロルフの事は憎くはない。ロルフには、ティナを憎むだけの理由があるのだから。自分を死に至らしめるだけの憎悪を持たれている事を哀しいとは思いこそすれ、恨む気持ちはなかった。
 だが、子供達に会えないのは苦しかった。子供達に忘れられてしまう事を願ったが、それでも、少しは姿を見たいと思った。元気でいる事を、この目で確かめたいと思った。オルトは訊ねれば、子供達の事を話してはくれる。それでは足りなかった。小さな身体を抱き締めたいというのは、スールを死なせた自分には過ぎた望みだという事も分かっていたのだが。
 エリスやロロは、自分に会いたがっているだろうか。オルトからは、先日、子供達が大広間へ出る事を許されたと聞いた。それでは、死の病は治まりつつあるのだ。長い冬を経て、ようやく脅威に曝される事がなくなったのだ。外で遊べるようになれば、子供達はあっと言う間にティナの事を忘れてしまうだろう。それまでは、ロルフが何とか誤魔化すであろう。
 それで良いのだ。
 いずれは去ってしまう者の事を、幼い者達が長く気にする必要はない。
 哀しい、寂しい。
 だが、それはティナ自身が招いた事だ。スールを一人で逝かせてしまった償いは、しなくてはならない。それが、この北海の論理なのだから。血は血で贖うのであれば、死は死を以て贖う他はないのだ。今は、その為の猶予期間にすぎない。
 ティナは膨らんだ腹に手を当てた。
 この子の顔を見る事は適わないかもしれない。それでも、この子の血の中には、自分のものが半分、流れている。それはロルフでも否定しようのない事実だ。エリスもロロも、オラヴもアズルも、ティナの血を半分受け継いでいる。自分の血は、この北海の地で薄まりながらも長く、広く存在し続けるであろう。それで、良い。確かに自分は、この地に生きていたという証だ。
 その事を、ロルフはどう思うのだろうか。
 どう思おうと、最早関係はないのかもしれない。ロルフは、選んだのだから。
 だが、ティナは選ばなかった、選べなかった。選択肢はあったのだ。あの瞬間に、弟が殺められるのを止められなければ。あの時、足が動かなければ。
 それを言っても詮ない事ではあった。ロルフの良き妻となろうと努力をした事もあった。しかし、何をしようともロルフの態度は軟化しなかった。頑なにティナには心を閉ざし続けた。そして、ティナも諦めた。
 従順である事。
 ロルフがティナに強いたのは、その事のみだった。ロルフの意に沿う限り、手を上げられる事はなかった。怒鳴りもせず、いきなり平手が飛んでくるのがロルフの恐ろしさだった。
 しかし、それももうすぐ終わる。
 間もなく、子が産まれる。そうすれば、自分はもう、ロルフにとって用なしだ。
 ティナは溜息をついて、刺繍を施していた布を膝に置いた。結局、ロルフはティナがこの部屋を出ることを許さなかった。まるで、ティナが子供達に害なす存在であるかのように、接触を持たせなかった。この部屋を訪れるのは、ロルフとオルト、そして奴隷の女のみ。一日中、口を開くことのない日もあった。
 スールを亡くした直後のロルフを思うと、この状態は寛大なものだと言えた。唯論、それはティナの事を慮ってのものではない。飽くまで、ロルフは胎の子の事を考えているのだ。
 自分とロルフ――北海の者達とは、永遠に分かり合えないものなのかもしれない。オルトは確かに親切だが、ティナの味方という訳ではない。ここには、ティナの味方になってくれるような人は誰もいなかった。子供達ですら、北海の者としての教育を受けており、その内、その考えはティナのものとは乖離したものになって行くだろう。
 孤独だった。
 手許で育てる事の出来たエリスにしても、結局は北海の影響を受けずには育たなかった。ティナにとっても、エリスは見知らぬ人のような大人となってしまうのだろう。誰とも何も分かち合わない生活を、この北海に来てからは続けて来た。だが、今までそれがこんなにも孤独な事だとは思いもしなかった。
 この監禁生活で、自分の心を見つめる機会が出来たからだろう。
 これまでは、日々の忙しさに紛れて何かを深く考えるという事がなかった。
 生まれて初めて、自分の心の深淵を覗いた。
 そこは空虚で恐ろしかった。
 それも当然ではないだろうか。自分は一度も自分で人生を歩んでこなかった。そして、そのままに生命を終えるのだ。
 子供の頃は両親――主に父親の意向に沿うように生きてきた。この北海にやって来て、それがロルフに代わったに過ぎない。中つ海に留まったままであるならば、アーロンが父に代わっていただろう。それでも、愛のある生活の中では、自分の心のからっぽさには気付く事もなかったであろう。
 知らなかった方が、幸せだっただろう。
 自分の中に、ぽっかりと底知れぬ穴があいている。
 その事を認めるのは恐ろしかった。だが、事実である。本当の意味では自分は生きてはこなかった。誰かの言いなりになる事を、どこかで良しとしていた。
 それが、当たり前だった。
 それが、表面上は平穏な生活を送るためだった。
 どのように言い表そうとも、同じだ。
 自分では、中つ海の城砦ではずっと、自分の意志で動いてきたと思って来た。自由だと思っていた。だが、よくよく考えれば、それは親の規範の内を出ないものであった。
 乱暴な言い方をすれば、親がロルフに変わったに過ぎない。
 同じだとは認めたくはなかった。
 優しく愛に満ちた両親と、(けだもの)のようなロルフが同じだなどと。
 ティナが自分達の意に沿わぬ方向へ行こうとすると優しく、そうとは分からぬような巧妙な遣り方で操るのか、暴力で従わせるかの違いでしかなかった。
 その事実は、ティナを打ちのめした。
 貴婦人であれ。領主の娘として恥ずかしくなくあれ。
 中つ海の規範から外れぬようにと、皆はそのような言葉を使った。そして、ティナも、嫌われてはならない、他の人からはみ出てはならないという思いから、それに唯々として従ってきた。敬愛する両親や愛する乳母からの言葉というのも大きかっただろう。
 従順な妻であれ。族長の正妻として恥ずかしくなくあれ。
 ロルフは、暴力で以てそれを示したに過ぎない。
 そして、それに従ってきたのは自分だ。
 誰も責める事は出来ない。この今の孤独をもたらしたのも自分だった。それを時間を遡って変える事はできない。ただ耐え忍ぶしかないのだ。この孤独を。寂しさを。
 如何に子供達が近くにいようと、一度知ってしまった孤独は消えることはないであろう。それは、これから一生ティナに付きまとうだろう。
 自分の生命がもうすぐ終わりを告げるのだと思えば、耐えられない事もなかった。
 全ては出産後、ロルフの手に委ねられるのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み