第34章・選択肢

文字数 9,691文字

 オルトからソルハルの行いを聞いたロルフの怒りは、凄まじかった。
「直ぐにそいつを連れて来い」ロルフはヴァドルに命じた。「この私の娘に、手出しをする者がどうなるか、思い知らせてやろう」
 ヴァドルは黙って一礼し、大広間を出た。
 碌でもない奴らばかりだ。
 ロルフは思った。
 自分は運が悪いのか。愛娘の求婚者四人の内、二人は論外だ。
 今回のソルハルには、少しは期待もしていた。戦士としての評判も悪くはなく、熊髭も目を掛けている事をロルフからも隠さなかった。そのような男であれば、エリスの将来も安泰なのではないかと思っていた。
 それが、この体たらくだ。
 集落の自由民の男が、ソルハルに娘を傷物にされたと訴えて来た。多少のおふざけならば、目を瞑りもしよう。だが、この白鷹ロルフの一人娘の求婚に来て、自由民とは言え他の女を口説くなど、侮辱も甚だしい。ひっ捕まえて二度と自分の前に姿を見せるなと言ってやらなければ治まらなかった。世間知らずな若造を殴ってやりたかった。
 そして、もう一人、サムル。戦士長ヴェステインの息子で緑目の甥という肩書きは良かった。しかし、この若者は慣例である六人の使者を連れては来なかった。その随伴にウーリックがいたのは愕きであったが、「詩人(バルド)の言葉は三人分」という、使い古されてはいるが実際には余り行われない言葉を口にしたのはいただけなかった。自由民や裕福ではない戦士の家ではそれも通じよう。だが、族長家に対しては無礼である。しかも、のうのうと「自分では六人を集められなかった」と言った。部族内での立ち位置が分かるというものだ。如何に族長である緑目の了承の下に求婚して来ようとも、推薦人である六人を集められなかったのは問題だった。
 そうなれば、選択肢は二人のみとなる。
 アスヴァルドかケネヴか。この二人は甲乙つけ難かった。二人とも族長家に繋がり、人柄も悪くはない。戦士としての評判も、かねてから耳にしていた。この二人の中から選ぶならば、エリスのような気性の娘であれば、どちらでも簡単に意のままにするだろうと思われた。
 アスヴァルドはヴァドルに似て穏やかな性質をしているので、まだエリスを軽くいなせるだろう。才覚もある。全く、ヴァドルの若い頃を彷彿とさせる男であった。容貌の割には目立たず、口数も少ない。だが、信頼には足る男だ。三十だというのでエリスには少し年上かもしれないが、そのような男の方が気の強いあの娘のあしらいを知り、良い方向に導くのではないかと思われた。
 ケネヴは四男であれば末席の男であったが、英名は聞こえていた。愚直なまでに真っ直ぐな男で、色恋沙汰とは無縁の様子だった。そのような男が、エリスに夢中になるのも分からぬ事ではない。末子であっても、甘えたところはない、正真正銘の戦士であった。好ましい若者ではあったが、エリスの好みとは異なるかもしれない。周りに自然と人が集まってくるような人柄の良さはあったが、女好きのするような男ではなかった。エリスの言いなりになるのではないかという懸念はある。
 今のところは、アスヴァルドの方が優勢だろう。どちらにしても、エリスが多少生意気だからといって、暴力を振るう男ではない。そのような男には、エリスは任せられない。あの娘は、自分に対して暴力に訴える男を殺しかねないからだ。
「族長」ヴァドルの声に物思いから引き戻された。「族長、ご報告が」
 ロルフは高座の中で少し姿勢を正した。
「ソルハル殿ですが、尻尾を巻いて逃げ出したようです」
「今後、あの者がこの島に現れるような事があれば、即、追い出せ」
 ヴァドルは頷いた。その顔は厳めしく、事を重大に考えていると分かった。
「他の島であっても、あの男が貴方に合わせる顔はございませんでしょう。この事は、次の族長集会で熊髭殿に伝えられますか」
「ソルリに伝言を持たせろ。次の集会では、遅すぎる」
 ソルリは、アスラクの後を継いだ商人だった。そろそろ交易島へと出発する時期である。
 ヴァドルは一礼した。この男は、結局、独り身のまま四十四を迎えた。父親から相続した農場があるので充分に暮らして行けるのにも関わらず、未だに戦士の館に起居しているのがロルフには解せなかった。だが、本人が面倒だと言うのだから仕方あるまいと思っていた。年を取ったオルトと共に暮らせば良いのにとも思ったが、オルトが去った後の事を考えると自分からは言い出せなかった。
「それにしても、エリス様がご無事で何よりでした」ヴァドルが言った。「母が、自分がついていながら咄嗟に動けず情けないと嘆いておりました」
「オルトが気に病む事はない。年を取れば、誰しも動きは鈍るものだ」
「有難いお言葉です」
 しかし、ヴァドルを悩ませているのはその事ばかりではないようだった。「女を、呼び出しますか」
 ソルハルに喋った尻軽女の事だ。あの男は、族長集会の際に複数の女に手を出してたらしい。結婚でもちらつかせたのだろう。ロルフは首を振った。
「その必要はないだろう。いずれは、知れる事だ」
 この島の誰もが、エリス達姉弟の母親の事を知っている。ロルフも隠し立てする気はなかった。だが、あの女は正妻である。その事については、誰も異議を差し挟めはしない。
「――二年後には、ロロ殿は正戦士に任じられましょう。それだけの力のある方です。族長集会へも伴って行かれるのでしたら、一度、お話になった方が宜しいかと」
 それは考えぬでもなかった。だが、どのように切り出せば良いのか、巧い手立てが思い付かずにいた。
 真実を知って、エリスはどれ程動揺したであろうか。族長の娘でありながら、身分のある家の出とは言え中つ海の、奴隷と同じ血を持っているとは、恐らく露にも思ってはいなかったであろうに。放置していたロルフの怠慢に責がある。いつかは耳に入ったかもしれないが、他人の口からなのか親の口からなのかでは、雲泥の差があろう。ロロ達には、そのような思いはさせてはならない。
「エリスを呼べ。まずは、エリスから話そう」

    ※    ※    ※

 ロルフからの使いが来た時、エリスは疲れ果てて部屋に引き取っていた。
 あれからすぐにサムルは辞去した。オルトは手仕事をさっさと片付けると、エリスに部屋にいて、今日はもう外へ出ないように言った。父のところへ起こった事を報告に行くのだろうと思ったが、何も言う気にはなれなかった。出来る事ならば、止めたかった。男に付け入る隙を与えたのは、自分だったからだ。
 だから、ロルフからの呼び出しにも愕かなかった。
 すぐに衣の皺を手で伸ばし、大広間へと向かった。そこではロルフとヴァドルがエリスを待っていた。
「私は、席を外しましょうか」
 居心地悪げにヴァドルが言い、ロルフは頷いた。何が話されるにせよ、エリスとしてはヴァドルがいてくれた方が有難かった。
 何も出来ずにヴァドルを見送ると、意を決してエリスは父を見た。
「お話とは、何でしょうか」
「知らぬふりをしても無駄だ」ロルフが穏やかに深い声で言った。「オルトから、全てを聞いている」
 エリスは黙った。叱られるのかと覚悟したが、父からの言葉は思いかけぬものであった。
「何事もなく、良かった」
 その口調にエリスは、自分がこの人に本当に愛されているのだと感じた。
「お前の勇姿は見たくもあったがな」その声は笑いを含んでいたが、嫌なものではなかった。「与えた刃物が役に立って何よりだ」
 オルトは、何もかもを話したのだろう。それならば、自分とサムルの会話も知っているのだろうか。忌憚なく二人で話した内容は、余り父には知られたくはなかった。
「それはともかく、ソルハルは、お前の母親の事を言ったそうだな」
「はい」
 素直に答えた。
「私から話すべき事柄であったな。愕いただろう」
「いいえ、大丈夫です」エリスは父の目を見て言った。「知っておりましたから」
 父の眉根が寄せられた。冷たい色の目が細められる。不快に思っているのだ。
「それは、お前の母親から聞いたのか」
「お母さまは、何もおっしゃいません」父の怒りが母に向かう事があるのだろうか、と不安に思いながら答えた。「わたしが、自分で考えました」
「お前は、聡い子だ」ロルフは言った。「どのように考えた」
 話したところで、理解してもらえるだろうか、とエリスは思った。余りにも、ぼんやりしすぎているのではないだろうか。
「お母さまは、わたしたちに較べて小柄でいらっしゃいます。別に、それは珍しいことではないかもしれません。でも、体つきなどを見ていますと、わたしたちよりも中つ海から来た者に近いと思いました。集落のどんなに貧しい自由民の女でも携帯している、片刃の小太刀もお持ちではありません。それに、言葉です。お母さまの言葉は、発音も抑揚も、言葉遣いまで、他の人とは異なっていらっしゃいます。わたしに、文字と簡単な計算を教えてくださいましたが、そんな娘はわたしより他には知りません」
「あれは、お前に読み書きを教えたのか」
 これも不快気な口調であった。島の女性は読み書きを習わない。それは、男だけのものであった。学問は、女には閉じられている。唯一の例外が療法師であった。
「わたしは、お母さまに感謝しております」エリスは、はっきりと言った。「わたしにも、弟達と同じ価値があると認めてくださったのですもの」
「私はそうではないと言いたいのか」
 ロルフの目が、更に細められた。
「お父さまは、わたしを可愛がってはくださいますが、ロロ達と同じ価値は認めてくださってはいません」ここで、黙る訳にはいかなかった。自分が父に反論できる機会など、そう多くはない。特に、今の時間は貴重であった。「女だから、とおっしゃりたいのは分かっております。でも、わたしにも心があります。言葉も持ちます。理解していらっしゃるかどうかは別にして、お母さまは少なくとも、わたしの言葉を聞いてくださいます」
 溜息をついて、ロルフはエリスを見た。
「求婚者については、お前の意見も聞くつもりではある」
 サムルの言葉は本当だった。今までの父を思えば、信じられない事ではあった。
「浅慮な男は去った。選べるのは、三人からだ」
「どうしても、その三人でなくてはならないのですか」
「求婚者を皆、遠ざけるというのか。お前は十七だ。結婚を決める年齢だ。誰も来なくなってから後悔しても遅い」
 一度で諦めてしまうような男ならば、それだけの事だ。そうエリスは思った。自分に対する想いもたかが知れているだろう。だが、何度やって来ても好意を持つとは限らないのも、確かだ。
「まだ若ければ、私が決めてやろうと言うのだ」
 それが余計な事であると、どうすれば父に理解してもらえるのだろうか。
「お母さまが中つ海の人であることは、すぐに他の求婚者にも知れましょう。それで、求婚を止める人もいるのではないでしょうか」
 少なくとも一人はそうではない事は分かっていた。だが、父が、随伴人を集める事ができなかったサムルを選ぶとは思えなかった。それで全てが解決するかもしれない。
「皆、それぞれの族長に選ばれた者達だ、そのような事は起らぬであろう。それに、お前は正妻の子だ」
 エリスは衣を握りしめた。まるで母を他人のように言う父に違和感を感じたが、その事については後で考える時間があるだろうと思った。
「心にもない求婚を受ける気は、ありません」
「生意気な事を言う」ロルフは笑んだが、それが表情のみである事は目を見れば分かった。「愛だ恋だに振り回される事のないようにと思うのが、分からないか」
「分かりません」
 恋も愛も知らぬままに嫁がされる者の気持ちは、父には理解できまいと思った。今は想いは冷めてはいても、父は母を選んだのではなかったか。母は、父を選ばざるを得なかったのではないか。
「三日後に、目当てを付けろ」エリスの言葉を無視して、ロルフは言った。「それで決められなければ、私が決めよう。お前が幸福になれる相手を選んでやろう」
 それは、同時にこの会見の終わりの合図であった。横暴だと思ったが、父は最早エリスの言葉を聞く気はなさそうだった。
 いつでも、そうだった。
 父はエリスの言葉を重くは取ってはくれない。たかだか女の言う言葉と軽く見られていると気付いたのは、いつの頃であったのかは思い出せない、だが、ロロ達とは真剣な話もする事があるというのに、自分はその中には入れてはもらえなかった。遊戯盤で遊ぶ時も、父は弟達には容赦のないところを見せる事があったが、エリスには常に手加減をしてくる。それが分からぬ自分だと思われるのも嫌だった。
「お父さまに、わたしの幸せの何がお分かりになるのでしょうか」
 声を絞り出した。親に反抗するのは良くない、と人は言う。だが、エリスは黙ってはいられなかった。脇に控えていた奴隷に杯を持ってくるように言いつけていたロルフが、不快を露わにしてエリスを見た。
「何だと」
 その青い目は冷たかった。怒っているのだとエリスは感じた。ついぞエリスに向けられた事のない感情であった。目に宿る冷たさに、ややたじろぎながらもエリスは勇気を集めた。
「お父さまのお考えになるわたしの幸福と、わたしの考えるわたしの幸福とでは、違っております」
「私は、お前の意向を聞かずに全てを決める事ができるところを、聞いてやろうというのだ。それが不満であるならば、二度とこの件に関して口出しは許さん」
「わたしの言葉をお聞きになっても、結局お決めになるのは、お父さまよ。わたしではないわ」
「いつから、そのような生意気な口を親に向かってきくようになった。下がれ」
 最後の言葉は、吐き捨てるような言い方であった。
 エリスは涙を堪えながら、これ以上は何を言っても聞き入れては貰えまいと悟り、小さく一礼をすると部屋へ下がった。
 納得をした訳ではない。できるはずがなかった。
 どれ程父が自分を可愛がってくれていたのかは、分かっていた。多少の我儘も自由も許してくれた。それでも、肝心な時には威圧的な家長である事を父は選んだ。父の思うエリスの幸福とは、衣食住に不自由せず、夫から信頼され、子供を育むことであろう。他の娘であれば、それで良しとして言われるがままに嫁ぐのかもしれない。仕方のない事として諦めるのかもしれない。
 一人の人間として、認めて欲しい。
 それは、過ぎた望みなのだろうか。

    ※    ※    ※

 夕食の席に現れたエリスには、普段の生気がなかった。
 ティナは、娘が求婚者の事で思い悩んでいるのだろうと感じた。
 ハラルドは姉の異変にも気付かぬのか、今日学問所で学んだ「法」について喋っている。ティナは結局、その「法」を理解できずに過ごしてきた。明文化されない「法」に如何なる拘束力があり、異なる部族で齟齬がないものかも分からなかった。どのみち、女はそういったものの埒外に置かれているのだろう。
 ハラルドは、すっかり北海人として育っていた。男の子の養育には、ティナは関わらせてもらえなかったので、それは仕方のない事だった。だが、エリスは手元で育てる事を許された娘だった。身分のある女性として恥かしくないようにと文字や計算を教えた。できる限りの詩を思い出し、教えた。その口から出る辛辣で強い言葉とは異なり、心優しい娘ではあったが、中つ海の女性ではなかった。
 楽し気に、また自慢げにハラルドは話し続けたが、今までであったならば、喋ってばかりいないで食べろ、と言うエリスの言葉はなかった。それだけ、自分の物思いに沈んでいるのだろうとティナは思った。だが、差し伸べる手を持たなかった。
 自分にできる事はやり切ってしまった。これ以上は、何もできない。二度目の懇願を、ロルフは許すまい。
 ハラルドが食事を終え、乳母に促されて下がった。その語る内容をティナは殆ど理解できなかったが、きちんと耳を傾けるべきであったと自分を恥じた。一年後には、ハラルドはこの館にはいないのだ。それまでの時間を大切にしなければならない。
 エリスも、一年後にはここにいないのかもしれない。こちらの婚約や婚礼がどのような経緯で行われるのか、ティナはまだオルトにも訊いてはいなかった。四日後に、ロルフがエリスの婚約を決めるだろう。それまでに、知っておかなくてはならない事は多い。
「今日は、大変でございました」
 ハラルドの姿が消えると、オルトが言った。「本当に、あのような者がいるとは、思いもしませんでした」
 ぐるぐると深皿をかき回していた匙を、エリスが止めた。その顔が一瞬、険しくなった。
「何が、あったのですか」
 不穏なものを感じてティナは訊ねた。
「エリスさまに手を出そうとした者がいたのです」
 そのような大事な話を、どうして今頃になって言うのかとティナは少し苛立った。役には立たなくとも、自分はエリスの母親だ。オルトは忙しかろうが、その義務はあるだろうに。
「結局、何もなかったのだから、いいじゃない」
 エリスが俯いたまま言った。
「よくはありませんよ。あなたがとっさに刃物を取り出さなかったら、どのような――」
「起こらなかったことで、お母さまにご心配をおかけすることはないわ」
 憮然としてエリスはオルトを遮った。「お父さまには、もう、伝わっているのだから」
「わたしが、ご報告いたしましたから」
「それなら、何もお母さまに言うことではないわ」
 自分を煩わせたくはないという、エリスなりの気遣いであるのは分かっていたが、知らなくともよい類の話ではなかった。しかも、刃物を取り出すとは、余程の事が起こったに違いない。ロルフが知ったとなると、その男は生命が危うかろう。
「あなたに怪我はなかったのですか」
 ティナは平静を装って訊ねた。
「はい」
 エリスが短く答えた。まだ、顔は上げない。
「その人を、傷付けたのですか」
 女に傷つけられたと訴える男はいまいが、エリスが弱みをその男に握られるのは良くなかった。
「いいえ」
 今度は顔を上げ、ティナを見つめてエリスは答えた。「なまじ傷つけるくらいなら、殺しているわ」
 そうならなかったのは幸いであった。娘が殺人を犯したとなれば、ロルフも裁かぬ訳にはいくまい。例え相手に非があったとしても、その事を証明しなくてはならない。エリスが人々の前に、そのような形で曝されるのは耐えられなかった。
「エリスさまもこれに懲りて、物言いに気を付けてくださるとよろしいのですが」
 娘の言葉が相手を刺激したのだと聞いても、ティナは愕かなかった。幼い頃は下の妹に似ているのではないかと思った性格は、むしろロルフに似て恐れを知らぬ類のものであった。何か、相手に気に入らないところがあったのだろう。
「それが気に入らない人なら、こちらも願い下げよ」
「そういうところでございますよ」
 オルトの小言は尽きないようだった。普段からエリスの言動に様々な注意を与えていたが、全く聞く様子のない娘にこれを機会に改めるようにと強く出ていた。分からないではなかったが、エリスには効果はないだろうとティナは思った。
「偽りの自分を売り込んでも、いつか

が出るわ。そんなことをしてまで、わたしは結婚したいわけではないし」エリスは俯いて、再び匙を回し始めた。「ありのままのわたしを認めてほしいだけよ」
「男の(ほう)でも、あなたによい顔しか見せませんよ」
 オルトの言葉は珍しく辛辣であった。「若いあなたに、それを見抜くのは無理でしょう。それを、族長に定めていただくのです」
「お父さまでも、あの男のことを見破れなかったわ」
「まだ、日が浅いですからね。その内、分かることです」
 やはり、オルトはロルフの味方であった。「素行の悪い男であったようですし」
「そんな男を、お父さまは見逃したわ。他の人だって、分かるものですか」
 父親であるロルフを悪しざまに言うエリスは初めてだった。ティナは愕いた。この度の求婚の件がどれ程エリスを傷付けたのかが分かった。
「そのようにおっしゃるものではありません」オルトがたしなめた。「族長は、あなたのことを――」
 大きな音を立ててエリスが匙を卓子に叩き付けた。ティナはびくりと身を震わせ、娘を見た。
「同じことを何度も繰り返さないで」
 苦し気にエリスが言った。「お父さまが選ぼうと、わたしが選ぼうと、結局、選択肢は限られているのよ」
「あなたが選ぶ、とは、どういうことなの」
 ティナは胸の動悸を抑えながら訊ねた。
「お父さまは、わたしの意向を聞く、とおっしゃったわ。でも、選べるのは三人の中からよ」
 ロルフが自分の意見を聞いてくれたのか。エリスの言葉に耳を傾けると言ったのか。
 ティナの鼓動が早まった。自分の言葉が、ロルフに届いたのだ。初めての事だった。エリスを大切に思っているという心の現れなのだ。例え、それが三人の中からであっても、エリスは選ぶ事ができるのだ。
「何を嫌がっておいでなのです」オルトが言った。「好いた人がいる訳でもありませんでしょうに。部族の娘たちの大勢は、そのようにして嫁いで行きますものを」
「では、オルトは幸せだったというの」エリスはオルトを睨みつけて言った。「好きでもない男と結婚して、ヴァドルを授かって、幸せだったの」
「わたしは三年で死に別れましたから、幸も不幸もありませんでした」
「お母さまは」急き込んでエリスは訊ねて来た。「お母さまは、十八年だわ。幸せなの、不幸なの」
 簡単に答えられる問いではなかった。
「わたしは、あなたたちがいてくれて、幸せだと思っています」
 当たり障りのない事しか言えなかった。もう、自分の幸福も不幸も考えるのを止めていた。考えでもどうにもならない。自分は、意思はどうあろうと、この北海で生きて行く他はないのだから。
「お父さまのことを、愛してはいらっしゃらないの」
 エリスの目はティナを見つめていた。(はしばみ)色ではあったが、その光の強さはロルフのものであった。
「そのようなことは――」
 愛してはいない。しかし、それを言うのは憚られた。エリスの幸せを願えども、これが、結婚の現実だ。自分の心はロルフにはない。どうして、愛する事ができるだろうか。暴力で自分を従わせている男を愛さなくてはいけないとは、誰も言う事はできまい。
「ごまかさないで」エリスは言った。「わたしは望まれて結婚するのかもしれないわ。でも、立場は、初めて会ったお父さまと結婚しなくてはならなかったお母さまと同じよ」
 真実を、この娘に教える訳にはいかなかった。黙り込む他はなかった。
 ごまかすのではない、とティナは思った。これは、自分の問題なのだから、まだ年若い娘に話すような事ではない。
 それに、自分は望まれた訳でもない。
 事の始まりを、自分とロルフの関係をこの娘に話そうとすれば、エリスがどのようにしてこの世に生を受けたのかに触れずにはいられない。それは、ロルフを慕うこの愛おしい娘の心を傷付け、破壊してしまうかもしれない。知られてはいけない事であった。
「いつだって、お母さまは黙ってしまわれるのね」
 エリスは遂に立ち上がった。その声は怒りを含んでおり、ティナはそこにロルフを感じて恐れた。
「お父さまの前では何もおっしゃらない。皆からいないかのように扱われても、平気な顔をしていらっしゃる。ただ、大人しく座っていらっしゃるだけじゃない。それが、お父さまのお考えになる良き妻なの。お母さま自身が、そうなることを選ばれたの」
 選ぶ、という問題ではなかった。
 これより他の道を知らなかった。城砦の教育では、良き妻とは、夫の意向に逆らわず、従順な女であった。この北海でも、そうして生きる他はなかった。従順であれば、ロルフも殴りはしない。その生き方しか知らなかったのは、ティナが悪いのか。もっと我を出せとエリスは言うのか。ロルフの機嫌を損ね、殴られるかもしれないというのに、何も知らない娘に、何故(なにゆえ)に非難されねばならないなのか。
 ティナの身体が、哀しみで震えた。
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