第36章・決断

文字数 9,017文字

 翌日、ロルフはヴァドルからの報告を受けた
 知りたい事は、それで大体が分かった。ヴァドルもエリスの求婚の件を心配しており、得たい情報が一致していたのも幸いであった。
 三人の人となりや評判、噂などは、推薦人よりも船に乗り組んでいる者の方が正直に話す。三人共に、持ち船ではなかったが、如何にしてその船を借り、乗り組む者を集めたのかも重要であった。
 アスヴァルドは人望があった。
 ケネヴは人気があった。
 そして、サムルには忠義を尽くす者達がいた。
 その点では、いずれも甲乙つけ難かった。だが、決めねばならない。
「サムル殿に関しては、生まれが生まれなだけに、そもそも戦士である事を認めぬ者達もいるそうです」
 ヴァドルは僅かに顔をしかめて言った。「母親が、解放もされぬ奴隷でありましたので、それも頷ける事ではありますが、生まれた時に父親や族長がその相続権を認めております以上は、充分に資格はございます。ただ、エリス様が嫁がれました場合に、不愉快な目に遭われる事もありましょう」
 サムルがエリスを望むのは、ロルフの後ろ盾を欲しているからだとも言えた。
「他のお二方について申し上げる事があるとすれば、ケネヴ殿は酒癖は悪くはないのですが、しばしば、過ごされる事が多いそうです。独り身の若い男はそういうものだと言えば、そうなのですが」
 結婚して、素行を改める男は多い。戦士の館を出て独立しなくてはならないという事情もあるだろう。酒癖が悪いのでなければ、大した事ではないように思われた。
「アスヴァルド殿は、至って真面目な方のようです。酒も賭け事も程々に、あのお歳でも、懇意にしている女もいないようですし、浮いた話の一つもありません」
「お前のような男、という事か」
 ロルフは揶揄い気味に言った。ヴァドルは少し、むっとしたようだった。しかし、咳ばらいを一つすると、平素の口調で続けた。
「女の話を致しますと、ケネヴ殿もその点では安心できるかと。サムル殿につきましては、乗り組んで来た者が全て忠義者である事を鑑みれば少し割り引いても構わぬかと思いますが、取り敢えず、女の影はございませんな」
「皆、品行方正、という事か」
「そうとも言い切れません」ヴァドルは言った。「ケネヴ殿は大抵は勝つとは言え喧嘩早いところがありますし、サムル殿にしたところで、見習い時代には相当、年上の者と殴り合っておりますね。まあ、サムル殿の暴力沙汰の原因は、生まれに関しての事であると言われておりますし、正戦士に任じられてからは己を律する術を心得ていらっしゃるようです」
「アスヴァルド殿は、何か気になるところはあるのか」
 ヴァドルは首を捻った。
「特にこれと言っては。大手柄を立てたという事もなければ、やらかした事もないようです。強いて言えば、とにかく、目立たないの一事に尽きます。恐らく、普通の戦士の家に生まれていれば、ごくごく平凡な男であったでしょう。いや、むしろ、学者になっていたのかもしれません」
 学者は、言わば世捨て人だ。頭は良いが、何を考えているのかは全く理解できない。学問所では世話になったが、過去の文書に埋もれ、世間から忘れられて生きる者達だ。
 エリスのような娘が、唯でさえ年上の、そんな男に我慢できるだろうか。
「学者のよう、とは申しましても、ここにいらっしゃるという事は、腕の方も相当なものでしょうし、あちらの族長としても、いつまでも独り身でいらっしゃる事をご心配しておられるのかもしれません。それに、軍略かけては右に出る者はおりますまい」
 それは、あちらへ行けば歓迎されるという意味か。
 ロルフの中でも、アスヴァルドの評価は高かった。英名が轟いている訳ではなかったが、族長である父親や兄から重宝されているのは、かねてから耳にしていた。
「問題は、問われれば答えるが、意見を求められるのでなければ、誰が間違っていようと口を挟まぬところでしょうか。少し、冷淡であるかと」
 ヴァドルは、その事が気にかかるようであった。感情に振り回されるよりはましだとロルフは思ったので、ここは意見が食い違った。
「だからと言って、ケネヴ殿は短絡でありますが」
「お前は誰が最も相応しいと思う」
 腕を組み、ヴァドルは首を傾げた。暫く考えているようであったが、やがて口を開いた。
「私は、サムル殿が宜しいかと存じますが」
 サムル。ヴァドルはサムルがエリスに相応しいと思うのか。
「確かに、母親が奴隷であったというのは、不利でしょう。そうでありながら、族長の信頼を得ております。私の見たところではありますが、緑目殿の御子息と較べますと、サムル殿の方が戦士としても人間としても上かと存じます。二十五であれば、エリス様とも年齢の釣り合いも取れますし、性格的にも問題はありますまい」
「他の二人ではない理由は」
「アスヴァルド殿は、エリス様のご気性を思えば最も相応しいお人だと言えましょう。あのお方ならば、エリス様を手の内で踊らせる事も出来るかと存じます。だが、他人に無関心でいらっしゃる。それは、ご自身の評判についてだけではなく、エリス様が島でどのように言われましょうとも気になさらないのでないかという懸念がございます。目に見えぬそのような脅威から守れぬ男には、貴方も任せたくはありますまい」
 ヴァドルは首を振った。
「ケネヴ殿は、二十三でありますれば、年齢に問題はございません。性格も良く、年下には慕われ、年上には可愛がられるお方です。しかし、エリス様には少々、物足らないのではないかと。(さか)しいお方ですので、ケネヴ殿を思いのままにされましょうが、それだけでは、エリス様は満足されないと存じます。対等に渡り合えるお方が、エリス様には必要ではないでしょうか」
「それで、サムル殿か」
「はい」ヴァドルは頷いた。「貴方がお気に召さぬ事を承知で申し上げます」
 ロルフは腕を組んだ。ヴァドルがそこまでサムルに肩入れする理由が分からなかった。エリスの将来を思えば、族長が戦士と認めたにも関わらず、部族内に認めぬ者がまだいるような男に嫁がせたくはなかった。
 サムルを婿とするのならば、ロルフが後ろ盾であると明言する事になる。代が変わってもロロはエリスの弟だ。緑目の息子達とサムルが不仲である事はヴァドルから聞いていた。自島以外の族長が信任する男に仇なそうという者はそうそうおるまいが、万が一を考えれば、出来れば避けたい選択であった。エリスの安全を犠牲にしてまで得たい相手ではなかった。
 それを言うならば、後の二人とて同じであった。
 北海の均衡は保たれており、強固な結び付きを必要としてた時代は過去の事だ。族長の息子だからといって選ぶ理由にはならない。
「いずれにしても、難しい選択です。エリス様の好悪もありましょうし」
 ヴァドルが唸るように言った。

    ※    ※    ※

 明日にはエリスの婚約者が決まるというのに、ティナは相変わらず蚊帳の外にいた。
 エリスは食事中も静かであった。自分の物思いに沈んでいるのであろうが、何も話さぬ娘にティナから話しかける事が出来なかった。
 自分が娘にどう思われていたのかを知った。力のない、情けない母親である事を哀しく思っていたが、最も身近にいて長い時を過ごした娘に、面と向かって言われるとは想像もしなかった。そういう遠慮のなさを正せなかったのは、自分の責でもあった。
 それに、エリスは母親が父親を愛してはいない事を知ってしまった。ロルフは子供達の前であっても、平気でティナを無視した。声も掛けなかった。ロルフの心がティナには一切向けられていない事をエリスは察してしたのだろうか。他の子供達も、いずれは気付くのかもしれないが、女子と男子とでは、また感じ方も変わるだろう。
 ロルフが優しさを見せたのは、ハラルド出産後の床上げの数日だけだった。それも、優しさと言えたのか明言する事は出来なかった。あの時、ロルフの様子はおかしかった。たった一度ではあったが、ティナに、蔑み憎んでいるであろう自分に、縋ってきた。
 それだけで、ロルフへの感情が変わるものではなかった。スールを失い、ロルフの感じた哀しみと絶望の一端を身をもって知った。だが、理解はしても、それが愛情に変じるというものではない。同情でもない。恨みも怒りも、遠くなってしまった。最早、ロルフに感じるのは最初に教え込まれた恐怖のみになっていた。
 エリスはティナへ目を向けようともしなかった。それが、失望からものであったとしても、ティナは娘を責める事は出来なかった。
 夫に対して敬意を払う、従順な母親に見えればそれで良いと思っていた。だが、エリスは、部族の者がティナに如何なる感情を(いだ)き、どのような態度を取っているのかも、しっかりと見ていた。それが、エリスに自分の中を流れる血について気付かせる端緒となったのかもしれない。
 無視され、侮られる事にも慣れた。ティナを人間として扱ってくれるのは、オルトとヴァドル、そしてウーリックのみであった。
 慣れてはいけなかったのだ、と今になって知った。何があろうとも、昂然と顔を上げ、誇りを持って生きなくてはならなかったのだ。ロルフの反応のなさに挫けてはいけなかったのだ。そのような母親であれば、エリスも失望する事はなかっただろう。
 不可能だ、とティナは思った。
 夜ごと繰り返される凌辱は、心を折るのに充分であった。痛みに声を上げ、泣いても平手で打たれ、一切の反応を許されなかった。人として扱われているのではない事を思い知らされた。
 奴隷は、北海の人々にとっては財産である。城砦でも似たようなものだった。だが、ティナは、ロルフにとっては財産ですらなかった。
 子か妻かを選ぶような場面になれば、ロルフは子を選び、自分の方は見向きもしないであろう。親が子を優先するのに異はなかったが、ロルフにはティナの為に流す涙もなければ、思い出す事すらないだろうと思うと、虚しかった。自分の存在は、例えどのくらい長く夫婦でいようと、ロルフの心には何も残さないのだ。
 今更、とは思う。それは、ずっと前から分かっていた事だった。ロルフが死んだとて、自分は安堵するだけで、決して懐かしく思ったりはしないであろうというのも、真実であった。それをロルフが哀しむとは思えない。
 そのような両親の(もと)で育って、子供達は異性に愛情を持つ事ができるのであろうか。
 ロルフが愛情深い人間である事は、ティナにも分かっていた。先の奥方を、その子供達を愛していた。未だに愛しているだろう。そして、ティナとの子供達の事も愛している。そのくらいは、ティナにも見えていた。例え、それが愛する者とそれ以外とでは大きな差をつける激しい感情であったとしても、ロルフは情に厚い人間だ。
 だが、自分はどうだろうか。愛したはずの男の事は忘れてしまった。最早、名前しか思い出す事はできない。どのような男であったのか、どのように愛されたのか、ずっと前に消えてしまった。それを(よすが)に生きて行く事も出来たのに、ロルフとその子達との生活の為に思い出の全てを捨ててしまった。
 そのような事が出来たのは、自分が薄情な人間であった為だ。本当には愛していなかった証拠だ。
 エリスに起っている出来事にしたところで、自分はどこか冷静な目で見てはいないだろうか。何事も進言せず、明言もしない母親の中に、エリスは情の薄い本質を見て、絶望をしているのではないだろうか。
 子供達の誰かが、そのような部分を持っていたとしてもおかしくはない。家族の中では見えなかったものも、世間に出れば明らかになるのかもしれない。
 その事を、ティナは恐れた。
 自分の子が、本当には人を愛せないのではないか、というのは、ある意味恐怖であった。ロルフのように愛するにも憎むのにも激しい者に育つ方が、自分のようになるよりもずっと良かった。誰かに憎悪を(いだ)くというのは、恐ろしく哀しい感情であったが、それでも、愛も憎しみもないよりはましだった。その分、人を愛する力も強いだろう。
 エリスは、既にロルフの性質を継いでいるところを見せている。あの娘が結婚を嫌がるのは、唯論、勝手に相手を決められる事に納得できないというのもあるだろうが、愛せもしない男に嫁ぐのを良しとしないからである。それだけ、愛情に拘泥っているのだ。
 それでも、今日の内にエリスは心を決めなくてはならないのだ。そうでなければ、全ての決断をロルフに委ねる事になる。
 ロルフは自らの、男の基準で相手を選ぶだろう。地位、財産を重視し、そこに人柄が付け足されるのではないか。エリスの将来を思えば、相手の地位や財産は大きな理由になるだろう。ロルフは決して贅沢をする男ではなかったが、娘が暮らしに不自由するような相手は選びはしまい。それはまた、ロルフのエリスに対する愛でもある。
 ティナのエリスへの愛は、ロルフを説得する事であった。それが為った今は、ただ、待つしかなかった。全てが調えられれば、エリスの嫁入りの準備を抜かりなく行うばかりだ。
 北海の習いでは、女は自らの財産として、夫も手をつけられない持参財を持つ事が出来ると言う。その為に、父親が三分の二を、母親が自分の財から残りを出すのだとオルトは言った。ティナの持参した品々はロルフの管理下にあり、それがどこにあってどうなったのかを知らなかったが、今まで見て来たロルフの性分を鑑みれば、手を触れてはいないであろう。
 どれほど子供達を愛しているとは言っても、自分の愛はたかが知れている。その分、子供達の為には、財を惜しむものではなかった。城砦の長子であるならば、相当な量が用意されていたはずだ。
 ロルフとて、ただ一人の娘であるエリスの為ならば、物惜しみはしないであろう。他の子達が結婚する時も、援助を躊躇わぬだろう。
 出来る事は限られていた。ただ、今は、祈る他はなかった。

    ※    ※    ※

 ロルフがエリスを大広間に呼んだのは、その日の正午を過ぎてからだった。
 ヴァドルと共にエリスの結婚についてのあれこれを協議し、一応の意見の一致を見た。最終的な決断はロルフにあったが、ヴァドルの意見とそれほど差があった訳でもなかった。ヴァドルには妻子はない。それでも、事前に調べでもしたのか、持参財や結納財の相場を良く知っていた。
 子供達の相手をするヴァドルを見ていて、子供が好きである事も分かっていた。それなのに、この男は遂に家族を持たなかった。その理由は分からない。オルトも首を振るばかりであった。エリスもヴァドルに対して、父の副官というよりは伯父のように接している。それは、悪い事ではなかった。ロルフにとり、ヴァドルは乳兄弟であるという事を抜きにしても、欠かせぬ存在であった。
 この、父親と娘の場にも、立ち会うように言った。エリスを宥め、説得する役目としても、ヴァドルは最適であった。同じ女とはいえ、オルトではあの気性を抑える事はできまいと思われた。
 大広間に入ってきたエリスの顔は蒼白で、歩む姿もどこか硬かった。緊張しているのだろう、とロルフは思った。それも仕方がない。父親に任せず、自ら選ぶ事を望んだのだから、その決断は重かろう。
 エリスは高座の前に立った。両手を胸の前で交差し、膝を折った。女性としての最敬礼だった。
「決心したのか」
 ロルフは訊ねた。蒼ざめた顔をしていてさえ、この娘は美しかった。手放すのが惜しいと思うほどであった。
「はい」
 声は震えていた。
 ロルフは頷き、エリスの言葉を待った。だが、娘は沈黙したままであった。
「申せ」
 短く、ロルフは命じた。いつになく無口な娘に、微かに眉をひそめた。何か、企んでいるようにも見える。エリスに限って、そのような事はないとは思いながらも、自分の娘ならば、嫌な事を避けるには何でもしでかすのではないか、というのもあった。
 エリスは真っ直ぐにロルフを見た。
「お父さま、正直に申し上げます」その声はしっかりしていた。「わたしは、どなたも選びたくはありません」
「エリス様――」
 ヴァドルがたしなめるように言葉を発したが、ロルフは軽く手を挙げ、それを押し(とど)めた。
「わたしは、自分の義務を果たさないのではありません」エリスは続けた。「選ばなくてはならないことを、承知しております。でも、まずは、本当の気持ちを知っていただきたいのです」
 この娘が、普通の戦士や自由民の家に生まれていれば、父親が求婚者を三人断れば自らの意思で選ぶ事が出来たであろう。だが、族長家の娘にその道はない。殊に集会で適齢である事を公にされたのであるから、最初に集まった者達が、最良の選択なのである。
「では、お前は、誰かを選んだのか」
 ロルフは言った。「誰が、より

相手であるかを、選んだのだな」
 無言でエリスは頷いた。悲壮な顔だとロルフは思った。
「お前の選択は、考慮する、と言ったな。それに従わぬ場合もあるのを忘れるな」
 エリスは(こうべ)を垂れた。少し考える風であったが、直ぐに顔を上げた。
「承知しております」
「お前は、誰を選んだ」
 静かにロルフは言った。ヴァドルが心配そうにエリスを見ていたが、無視した。今はまだ、ヴァドルの出番ではない。
「わたしは――」エリスが硬い声で言った。「わたしは、サムルどのを選びました」

    ※    ※    ※

 言った、とエリスは大広間から下がりながら思った。
 意表を突かれたような父の顔を見るのは痛快だった。ヴァドルの反応は見えなかったが、さぞかし愕いた事だろう。
 そうだ、自分はサムルを選んだ。
 アスヴァルドでも良かったのかもしれない。
 ケネヴでも同様だ。
 だが、これは取り引きであり、契約である、と明言した男を、自分は選んだ。
 人は、それを殺伐とした関係だと言うかもしれない。相手の心が自分にあるかどうかではなく、利害を考えての決断であった。結婚とは、結局は家と家との契約であり、取り引きであるのではないだろうか。それを、個人で交わしたとて、何が異なっているというのか。
 アスヴァルドとは、恐らく、穏やかな日常と互いを尊重した人生を送れるだろう。
 ケネヴとであれば、何でもとはいかないにしても、家庭内に関しては自分の思い通りにで出来るだろう。自分が、少し我慢をすれば。
 そして、サムルは、家庭内での自由だけではなく、男子一人を儲ければ離婚の自由、までも保証してくれた。どちらに非があるとかではなく、正直に生きる事を認める、と言ったのだ。先の二人は、余程の事がない限り、離婚はないだろう。それは、エリスが族長の娘である為だ。しかし、最も族長の娘としてのエリスを必要としているであろうサムルは、事情や話し合いによっては許すと言う。これは、大きな利点だ。
 愕いた事に、オルトはサムルが取り引きを持ちかけてきた事を父にもヴァドルにも話してはいないようだった。もし、知っていたとすれば、あのように驚愕したような顔になっただろうか。むしろ、不快を露わにしたのではないだろうか。
 なぜ、オルトがこの島で絶対的な支配者である族長に隠し立てをするのか、エリスには分からなかった。耳ざとく、今までは何でも父に告げていたオルトからは考えられなかった。何らかの考えがあっての事であろうが、オルトという人物をずっと身近に見ていたエリスには理解の埒外であった。
 自分には、見えていない事が多いのかもしれない。エリスは思った。オルトだけではない。父や母に関しても、見えていない事が実際には多いのではないだろうか。
 大広間の戸口に築かれた塚が、スールのものの他に三つある理由を幼い頃、オルトに訊ねた事があった。その時、オルトは、あなたのお異母兄(にい)さまとそのお母さまの塚ですよ、と言った。それ以上は追及しなかった。して欲しくはない、という空気をオルトから感じた為だ。
 父には、母の前に奥方がいた。そして、その人には二人の子供がいた。既に亡き人々であれば、父の死に際して三人とスールとは、墓所に築かれる父の塚に改葬される。母が父に遅れれば、子であるロロの塚に共に眠る事になるであろうが、父よりも先に母がこの世を去るのならば、スールの横の葬られ、後に父の塚に改葬される、というのが慣例である。だが、既に情のなくなった母を、父は先の奥方や子供達と共に葬る事を許すであろうか。結局は一人、墓所に埋葬されるのではないだろうか。まだ先の事とはいえ、それはエリスの心にずっと引っかかっていた。
 どのようにして、その三人が亡くなったのかを訊くべきであったのかどうか、今でも分からない。それは、両親には決して訊ねる事は出来なかったし、オルトやヴァドルにすら憚られた。弟達はすんなりと、先の三人の事を受け入れたようであったが、エリスは誰もその話をしようとしないのを不思議に思い、心の底にわだかまるものをずっと抱えていた。
 母は、外に出られるようになってから、良い季節にはスールの塚に花を欠かさなかった。それと同時に、三人の塚にも花を手向ける。様々な事を問いたかったが、母の背は、何も言って欲しくない、何も訊いて欲しくないと言うようであった。
 亡くなった人達と、母との関係を知りたいとは思ったが、それも封じられた問いであった。
 この間は、思わず母をなじってしまったが、自分は母の何を知っているのだろうか。父との結婚の経緯(いきさつ)についても、あの時まで知らなかったというのに。母を責めるのは、ただの八つ当たりだった。
父にしたところで、なぜ、中つ海の人間である母に求婚したのだろうか。北海と中つ海の男女が知り合う機会など、あるのだろうか。
 やはり、自分は知らない事だらけだ。
 母に対して言った言葉は後悔している。大人しい人なのだから、見知らぬ土地で自ら動く事ができなかったのだろう。中つ海と北海では、言葉はそっくりだが、何もかもが違っていたに相違ない。そのような中で、一人で生きて来たのだ。誰も、その生き方を責める事はできない。
 自分の問題で精一杯で、母の事情も気持ちも考えられなかった。だからと言って、許される言葉ではない。
 取り敢えず、父には自分の選択を伝えた。それをどのくらい考慮してくれるのかは分からなかったが、後は沙汰を待つのみである。
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