第39章・思惑

文字数 11,270文字

 夕刻が近付き、部屋が薄暗くなってきても、普段のように族長室へ明かりを灯しに来る者はなかった。
 今日は、エリスの婚約が決まった。館はその祝いの支度で大わらわなのであろう。事前に準備をしていても、大変な物入りであった族長集会からそれほど日が経ってはいない。充分なもてなしをするのが客に対する礼儀とする北海では、酒も食事もふんだんに振舞われる。宴席の手伝いにも大勢が駆り出される。臨席しないティナの世話など、忘れられてしまっているのだろう。
 自ら鯨油蠟燭に灯をつけようかとティナが立ち上がった時であった。部屋の扉が唐突に開いた。
 ロルフか、と思い、ティナはぎくりとして動きを止めた。
「母上」
 明るい声が響いた。「母上、ただいま、帰りました」
 ロロであった。
「族長の部屋を暗くなるままに置くとは、けしからん事です」
 少し怒ったようにロロは言い、戸口から顔を突き出して人を呼ばわった。すぐに奴隷女がやって来て、部屋が明るくなった。北海で使われる鯨油蝋燭は、中つ海で使われる蜜蠟蝋燭よりもずっと、光が強かった。
「随分と、ご無沙汰しておりました」
 十六になったロロは、ティナよりも背が高くなり、声変わりもしていた。ロルフによく似た容貌の若者に育ち、弟のオラヴを泣かせていた小さな頃の面影は遠くなっていた。
「今日は、帰って来る日ではなかったと思うのですが」
 不思議に思いながらティナは言った。それに、族長室に来る事など、絶えてなかったというのに。
「内輪ではありますが、今宵は姉上のご婚約が調った祝いの席ですので、特別に許されました」ロロは答えた。「オラヴもアズルも、帰って来ております」
 皆に会いたかった。久し振りに帰って来たのだから、内容は理解できなくとも少しは話を聞きたい、声を聴きたいと思った。見習いは族長集会のもてなしの準備と世話をしなくてはならないというので、ここ数月は誰も帰ってはいなかった。
「父上と婚約者殿のご一行は、未だ話し合いの最中です。オルトがこちらに参ろうとしておりましたので、伝言を代わりました」ロロは少し首を傾げた。「母上はご体調がすぐれぬと集会の時より聞き及んでおりますが、忙しさにかまけて帰らずにいた事をお許しください。お加減は、如何でしょうか。今宵の宴には、無理をなさらずにお休みになっていらっしゃるように、との事でした」
 やはり、全てから自分は締め出されているのだ、とティナは哀しくなった。娘の婚約者になった男にさえ、会わせてはもらえない。
「お顔色がすぐれぬようですが、大丈夫ですか」
 ロロが少し眉根を寄せて言った。つい、顔に出てしまったらしい。年上の者達に叩きこまれたのであろう戦士としての話し方に他人行儀なものを感じずにはいられなかったが、心遣いは嬉しかった。
「大丈夫です。今日は、色々とありましたから」
 つい、こちらの方も、母親としてよりも族長の妻としての受け答えになってしまう。「姉上には、もう、会ったのですか」
「それは――」ロロは言い淀んだ。「それは、まだ、です。ずっと部屋に籠っておいでのようですし、この大事な日にご機嫌を損ねられても何ですから」
 ティナは笑みを浮かべた。ロロは、幼い頃からエリスには逆らえなかった。かつては負けん気が強く、すぐ下のオラヴとよく喧嘩になっていたロロも、気性が落ち着き、寛容にもなっていた。ロルフの跡継ぎとしての自覚もあるのだろう。
「あちらでは、皆、元気にしていましたか」
 ティナはロロに訊ねた。無性に子供達に会いたくなった。全ての子が揃い、談笑している姿を最後に見たのは、いつだっただろうかと思った。
「はい、少々の怪我はありましても、病気もなく、元気にしております」ロロは微笑んだ。「オラヴは相変わらずの

ですが、徐々に背も高くなってきております。アズルも、変わってはおりません。二年目ですので、子供です」
 自分からすれば、ロロも子供だとティナは思った。後二年で正戦士に任ぜられて大人と認められるが、ロロ本人は、自分はもう、大人であるとの思いでいるようであった。
「これからは、なるべく帰参いたします」
 申し訳なさそうに言うロロに、ティナは少なからず違和感を(いだ)いた。今までは、そのような言葉は口にした事がなかった。
「母上は、既に、婚約者殿とお会いになられましたか」
 突然の話題の変化に、ティナは戸惑った。
「いいえ、まだ、お会いしておりません。あなたは、ご挨拶したのですか」
「はい」
 ロロの返答は簡潔であった。
「どのようなお方でしたか」
「優しそうでした。それに、随伴人の一人は、私が幼い頃にこの島にいた詩人(バルド)だそうですね」ロロにはウーリックの記憶はないようであった。「こういう巡り合わせも、あるのかと愕きました」
「あなたたちは、あの詩人の詩が一番のお気に入りだったのですよ」
 少し照れたようにロロは笑った。幼い時分の事を持ち出されると、恥かしいようであった。
 この子は、スールの事も憶えていないのかもしれないと思うと、ティナの胸は痛んだ。兄達に忘れられてしまった小さな子が不憫だった。だが、あのような辛い出来事は憶えていない方が良いのかもしれないと考え直した。
「余り長居をしても母上はお疲れでしょうから、これでお(いとま)いたします。明日は早くに戻らねばなりませんので、弟達はご挨拶には上がれません」
 ロロの言葉に、ティナは落胆した。オラヴとアズルに会えぬのは哀しかったが、どのみちロルフの許しがなくては会う事は叶わぬであろうと思った。ロロが、ここにいる事の方が変則的なのだ。オルトが伝言を代わってくれなければ、ロロにさえ会えなかった。
 一礼をして、ロロは部屋を辞去しようとした。だが、何事かを思い出したかのように、扉の前で足を止めた。
「母上」
 振り返ってロロが言った。その顔はどこか大人びており、ティナはどきりとした。そのような表情をロロが見せるのは、初めてであった。髪と目の色は異なれど、ロルフと同じ陰があった。何が、十六歳の子に憂いのある顔をさせたのだろうかと、ティナは不思議に思った。
 二人の視線が合った。先に目を逸らせたのは、ロロの方だった。
「いえ、何でもありません」
 そう言うと、ロロは静かに出て行った。
 ティナは不安になった。
 ロロは、何を言おうとしたのだろうか。深刻そうな表情であった。ティナに関する事なのか、エリスに、その婚約者に関する事なのか、見当が付かなかった。何であるにせよ、それはロロにとっては大事であっただろうに、結局は口を閉ざした。
 頼りがいのない母親だという事は分かっている。男子にとり、母親とは疎ましい存在である事も承知していた。
 それでも、心に何かを抱えているならば、話して欲しいと思った。役に立たない人間であっても、話を聞くくらいはできる。ロルフに言えぬ事ならば、猶更だ。秘密であるならば、あの世まで持って行くだけの覚悟はあった。自分を非難する言葉であったとしても、受け入れる覚悟はできていた。
 生まれてすぐに奪われて関りを制限された子ではあっても、ロロは我が子であった。オラヴもアズルも、ハラルドもそうだ。何もできなくとも、薄いながらも愛情ある事に変わりはない。どの子も、大切であった。
 子供は、それを知らなくても良い。ティナがどのような気持ちでいたのか、如何なる状況にあったのか、子供達が知る必要はない。ロルフはそれを認めないであろうし、子は子でいつの間にか、ロルフの存在がある時にはティナには近寄らなくなっていた。積極的に関わろうとしない母親よりも常に傍に控えているオルトや、可愛がる父親やヴァドルの方に懐こう。
 ロロが心情を自分に対して吐露しないのは、それなりに理由があるのだ。
 深刻な話であれば、甲斐のない母親より、オルトやヴァドルを相手に選んだ方がよかろう。有効な助言も受けられるかもしれない。
 ロロばかりではない、オラヴもアズルもハラルドも、結局は母親であるティナよりもオルトやヴァドルを相談相手に選ぶであろう。
 エリスの苦悩には、自分もオルトも役に立たなかった。焦燥を感じ、ロルフに生命懸けの進言をした。それを聞き入れてくれたのか、ロルフはエリスの選択を考慮してくれたのだ。
 自分の行為が正しかったのか間違っていたのか、今でも分からない。エリスの選択は非常に浅慮なものだと思ったが、娘の精一杯の考えによるものであった。事前の相談がなかったのは、自分に信用がないからだ。ロルフの怒りに触れぬようにと、目立たず陰で生きて来たのが裏目に出たのか。
 できる範囲ではあったが、誠実に接してきたつもりであった。
 エリスは手許で育てる事を許されたので、薄い愛情ではあっても、それを感じてくれてはいるのだろう。離婚をして、共にロルフを離れて暮らすとは、そういう意味であろう。子としての義務だけではないと思う。エリスの気持ちは有り難かったが、この婚約は、娘を幸せにするものではないと感じた。
 ロロは、エリスの婚約者の男を優しそうだと言った。まだ会ったばかりであれば、その感想も致し方ないものもある。果たして、見た目の通りの男なのかどうか、自分で確かめてみたかった。だが、この大事な日ですら臨席を許されなかった。ロルフの考えは明らかである。
 相手の男の母親は奴隷であり、結婚はしなかったとエリスは言った。それでも、父親に嫡男として認知され、今日は族長の娘の婚約者となった。
 エリス達姉弟も、中つ海の人間であるティナを母としながらも、ロルフの正妻の子である為に嫡子として認められている。十八歳になれば、ロロは後継者として立つ事になる。
 これも、巡り合わせなのか。
 ロルフにとっては、最早、財産ですらないティナの娘と、北海の奴隷の息子が(めあわ)せられる。共に北海の貴人に認知された子であれば、ロルフに隠された意図はないと思えた。女子とはいえ、エリスは最もロルフに気に入られた子であった。ティナの娘だからと、捨てられるように嫁に出されるのではないだろう。相手の男も、ロルフの目に適う何かがあったに違いない。それでなければ、問題を抱えているような男をロルフが選ぶはずがなかった。そのような男を推薦する詩人ではないと思いたかった。
 ロルフが慧眼である事と、エリスの幸運とを願う外はない。
 相続についての詳しい事は、ティナには分からなかった。エリスやロルフがそれで良いと思うのならば、間違いはないのだろう。短慮をしてしまった娘の事を、くよくよと考えても何も変わらないのだ。
 嘆くくらいならば、これからエリスに何を教えるかの方が、大事であった。

    ※    ※    ※

 自分は、何か間違った事を言ってしまったのだろうか。
 エリスはオルトが宴の準備の為に呼びに来た時にも、まだその事を考えていた。族長室から追立てられるように出され、年頃の娘として与えられた部屋に下がった後は、ずっと寝台に横たわって思いを巡らせていた。
 母が、あのように激しい感情を見せたのは、初めてだった。怒りと哀しみとがない交ぜになった、複雑な表情であった。
「お母さまは」
 エリスは横になったまま、オルトに訊ねた。
「お部屋で休んでおられます」
 オルトは静かに答えた。
「宴には、いらっしゃらないの」
「族長が、そのようにせよと仰せです」
 また、母は埒外に置かれるのだ。父は、いつでもそうだった。弟達を学問所に行かせる時も、戦士見習いになる時も、オルトとは相談しても、その場に母の姿はなかった。全ての事から、母は締め出されていた。その事に、ようやく気付いた。自分のものにしても、弟達に対しても、母はきちんと季節と年齢に相応しい用意を整えてくれていた。オルトの指示の(もと)にあったとしても、決して手を抜いたり等閑(なおざり)なものではなかった。
 自分達姉弟は、愛情をかけて育ててもらった。そう、思った。父は、いつでも自分達の上に君臨する存在であった。母は、その陰で支えてくれていた。愛の示し方は父ほどに分かりやすいものではなかったが、子供であった自分達が泣きに行くのは母の許であった。父ではない。 両親の間にある距離に気付いたのは、いつ頃のことだったのだろうか。父の、母を見る目の冷たい事に感付いたのは、いつだったのだろうか。
 気付けば、父の存在のある時には母には近寄らなくなっていた。父といると楽しかった。だが、同時に、父の傍にいなくてはならないのだ、と思ってもいた。母の傍にいては父の機嫌を――自分達にではなく、母に対して、損ねてしまうのだと理解していたように思う。
 父は、決して声を荒げたり手を上げたりはしなかった。それでも、父の母への態度にはどこか恐ろしい、闇めいたものを感じた。
「今宵は、わたしにとっても大事な日なのに」エリスはオルトに言った。「どうして、お父さまはいつも、お母さまを外されるの。お祝いであるのなら、両親揃っての方がよいのではないの。ロロ達も、明日は早くに戻ってしまうわ。お母さまは、皆にお会いにはなれないの」
「ロロさまは奥方さまのところへいらっしゃいました」
 別にロロが自分には一言もなく、母に挨拶に行った事は良かった。姉より母を優先するのは当然だ。だが、ロロが族長室に赴くのは、初めてではないだろうか。十五で急に背が伸びて自分を追い越した弟は、戦士の館に入って一、二年は両親、殊に母への態度は良くなかった。 今ではそれは改まっているが、男子とはそういうものなのか、好んで母の傍に行く事はなかった。ゆくゆくは戦士となって身辺近くにあり、いずれロロが族長になる事を思えば、男子は父親と近いのかもしれない。
「奥方さまは、少しお休みになる必要がございますし」
 オルトの言葉に、エリスは唇を噛んだ。自分が、何か動揺するような事を口にしてしまい、具合を悪くしたのだろうかと思った。
 一張羅で横になっていた事を嘆くオルトをよそに、ゆっくりと起き上がり、服の皺を伸ばした。
 弱い人なのだ。心も体も。だから、この北海では生きて行くのが難しいのだ。強い者が弱い者を支配するのが当たり前の世界では、母のように優しく、心弱い人は強い庇護者がいないと生きては行けまい。
 父が、その庇護者である。そもそもの最初は、名実ともに母を庇護していたのだろう。だが、それも、愛ある間だけの事だ。それほどに不確かなものが男女の愛であるならば、生涯それを知らずにいるからと言って、不幸な訳でもないだろう。むしろ、振り回される方が、不幸なのかもしれない。
「まあまあ、ぼさぼさですよ」
 呆れたようなオルトの言葉に、エリスは髪をほどき、(くしけず)った。三つ編みを編み直すと、オルトは満足そうに頷いた。
「正装でなくてもよいの」
「内輪の集まりですし、少し皺にはなりましたけど、一張羅ですから。男の事ですから、そのくらいならば気付かないでしょう」
 オルトは微笑んだ。母の具合が良くない時には、オルトが母の代わりに全てを仕切ってくれた。母は中つ海の人だからか、館の事にも口や手を出さず、オルトに任せきっていた。それ故に家政については、エリスはオルトに学んだ。
「ハラルドは、参加するのかしら」
「そのように伺っております」
 子供が大人の席に連なるのを許されるのは、遠征の前後と祭りだけであった。養育係から離れたハラルドがはしゃぎすぎないように見張るのは、エリスの役目だった。だが、今日はそうはいくまい。ロロにできるだろうか。
「ロロさまも随分と大人になられました。それに、ハラルドさまは来年には戦士の館へお入りになるのですもの、そろそろ、落ち着いていただかなくては」
 エリスの心中を察したかのようにオルトは言った。
 無言で頷き、エリスは片刃の小太刀を据えると、オルトに導かれて大広間に向かった。
 そこでは既に人々が食事と酒を楽しんでいた。口々に喋っていたものが、エリスの姿を認めると徐々に静かになっていった。サムルの随伴人と、話し合いに同席した部族の者達だ。ヴァドルとウーリックの姿もあった。
 居心地が悪かった。
 高座の下には卓子が据えられており、父の他に左手に弟達が、右手にサムルが座していた。その横の席が、自分のであろうとエリスは思った。
 末席のハラルドの隣で良かったのに、とひとりごちた。
 弟達は自分の事に気付いたようであったが、父とサムルは何事かを話していた。そう悪い雰囲気ではないのが救いであった。今日の話し合いは、巧くいったようだった。
 ロロが父親の注意を引き、エリスが現れた事を知らせた。青い目がエリスに向けられたが、そこからは何の感情も読み取れなかった。父は鷹揚に頷き、杯を手にした。
 サムルは笑みを浮かべていた。望む通りの結果になったのだから、当然であろう。手に持っているのは、父と同じ金で縁を飾った銀の杯だ。弟達や他の者達は錫である事を思えば、賓客の扱いである。昨夜までは船で寝泊まりをしていたものを、今夜からは館に滞在する事を許されるのだ。
 でも、まだよ。そう、エリスは思った。サムルは、まだ、交渉の権利を得ただけだわ。決裂すれば、婚約は調わない。
 族長家に連なる戦士長が、結納財を払えぬという事態にはならないだろうし、例えそうであっても、サムルはエリスを妻に迎える必要があるので、借金をしてでもこの話をまとめようとするだろう。だが、足掻いていたかった。万が一の幸運に賭けたかった。
 サムルの事をソルハルほどに嫌っている訳ではなかった。誰もが同じようなものであれば、自分に利点のある取り引きを持ちかけて来た相手を選ぶのは、自然な事だろう。それでも、結婚をしたくはない、という気持ちに変わりはなかった。
 両親のような関係を目の前にして育ち、結婚に理想が持てるだろうか。男は結婚して一人前と扱われるので、どのような思いを抱いていようが、結婚する利点は多い。むしろ、ヴァドルのような独り身を貫く男の方が珍しい。半人前どころか、男らしくないとも言われる。その言葉は、北海の男に対する最大の侮辱だ。ヴァドルがなぜ、独身でいるのかはエリスには分からなかったが、少なくとも、結婚に対して負の感情を持っているとは思えなかった。
 その、ヴァドルと目が合った。そこからも、感情は読めなかった。父の副官でもあるのだ、そう簡単に感情を表わさないだろう。
 ウーリックは、五年前に父に生涯の忠誠を誓った詩人ヒャルティと共にいた。二人の年の頃は同じくらいであったが、父の詩人は既に集落の戦士の娘と結婚し、子もいる。放浪を止めるというウーリックも、故郷である北の涯の島へ帰れば、そうやって落ち着くのだろうか。
 エリスは、気を取り直して家族とサムルの待つ卓子に向かった。父の前で一礼をすると、席に就け、と言うように再び頷かれた。族長としての、厳めしい顔だった。サムルは軽く杯を上げた。こちらは相変わらず笑みを浮かべている。
「母君は、体調が思わしくないとお伺いしましたが」
 椅子に座るや、サムルが囁くように言った。父に聞かれはしなかったかと様子を窺ったが、既にロロに注意を向けていた。オルトは厨房へ下がった。
「いつものことよ、気にしないで」
 エリスも小声で答えた。その事は余り話したくはなかった。弟達とでさえも、しない話題であった。また、両親の事を殊更、喧伝するものでもない。いつかはサムルも知るようになるだろうが、それは今でなくとも良かった。
 エリスの許にも杯が運ばれて来た。愕いた事に、金の縁取りこそなかったが、これも銀であった。弟達の使っているのは錫なので、これは特別な計らいだった。父の指示なのであろうとエリスは思った。
 食欲はなかったが、それでも、少しは皿に取った。食べないでいて、サムルに何か言われない為でもあった。そういう事には目ざとそうな男であった。
「そう言えば、ここにはあなたの随伴人しかいないわ。他の人はどうしたの」
「ああ」サムルは破顔した。「浜で貴女の父君の振る舞いを、皆、受けておりますので、充分にもてなして頂いておりますよ」
「話し合いは、順調のようね」
 機嫌の良さそうな様子に、皮肉を込めて言った。
「そうですね。今のところは、順調です」
 他意のなさそうな、にこやかな顔にエリスは、自分は(ねじ)けているのかもしれないと思った。生まれについて様々に言われ、族長も認めた相続権に口を挟まれながらも、この男の心根は悪くはないのだろう。
「へぼ詩人(バルド)、何か歌え」
 誰かが言った。部族の詩人ヒャルティはあからさまに嫌な顔をしたが、渋々ながらも立ち上がった。放浪している間こそ、身分は自由民と戦士の中間にあるが、部族の詩人ともなれば、戦士である。遠征に於いては、父の近くにあるものだ。それでも、望まれれば歌わねばならない。ヒャルティは手に竪琴を持っていた。
 族長家の卓子の傍まで来ると、ヒャルティはロルフに向かって一礼をした。杯を上げてロルフがそれに応えると、詩人は一同に向き直った。竪琴の音が、大広間に満ちた。
 これで暫くはサムルと話さずに済む、とエリスは思った。無言でいるのは客に失礼にあたるし、気持ちの良いものではなかった。だが、詩人が歌うとなれば、最初のひとくさりはそれに耳を澄ませるのが客人の礼でもあった。
 話し合いが全て合意に達していない以上は、まだ祝いの詩は早く、詩人は当たり障りのないものを歌わざるを得ない。果たして、ヒャルティが選んだのは、神々の詩であった。
 聞くともなしにエリスは詩人の声を聞いていた。良い声ではあったが、好みよりも僅かばかり高い。それでも、この頌歌には合っていた。詩人は少しであるならば、詩に合わせて声音を変える。ヒャルティは普段は過去の英雄詩を得意としていた。だが、それはこの席には相応しくない。男達は好もうが、場を読む力も詩人には必要であった。
 第一節が終わると、皆が一応の礼儀として卓を手や杯で叩いた。ロルフは機嫌よさげに杯を先程よりも高く上げた。続けろ、という合図でもあった。詩人は続きを歌い始めた。大広間に、再び喧騒が戻った。
 考えをまとめるには、短い詩であった。だが、ロルフがサムルに話しかけていた。エリスはその隙に、と麺麭をちぎって口に入れた。少しは減っていないと、何を言われるか分からない。
 麺麭は客人をもてなす今日の為に特別に作られたのだろう、ほの温かく、小麦ばかりで作られていた。結婚すれば、食料の管理も自分が行わなくてはならない。既にオルトに付いて様々な事を教わっていたが、来年に結婚するのであれば、もっと真剣に聞かなくてはならないだろう。客人を充分にもてなさない事と、冬の途中で物――食料であれ何であれ――が足りなくなる事ほど、女として恥かしいものはないのだと、しょっちゅう言われていた。
 来年には、自分が家の全てを管理しなくてはならなくなるのだが、実感はなかった。サムルと出会って数日でしかなかったし、その父親ともなれば、名を知るのみであった。今更、集会ではどのような様子であったのか、ロロやオラヴを捕まえて聞き出す訳にもいかなかった。
 こういう事は、やはり、ヴァドルに訊くのが良いだろう。父の副官として、様々な情報に通じているだろうから。
 件のヴァドルは、普段のように静かにしている。機嫌の良し悪しも、そこからは窺い知る事はできなかった。周囲の喧騒には関心がないようにも見えるが、実際には揉め事が起こった際には真っ先に仲裁に入れるのだというのも、分かっていた。
 ヴァドルは、父の副官であると同時に乳兄弟でもあった。子供の頃からお互いを知っており、絶対的な信頼関係がそこには見えた。父に関する事ならば、ヴァドルは恐らく、何でも知っているだろう。この婚約に至った経緯(いきさつ)ばかりではなく、その他の様々を。
 しかし、ヴァドルは問うても話す事はないだろうというのもまた、分かっている。軽々しく言葉を発する人ではなかった。だからこそ、信頼もされる。オルトが喋らぬものを、ヴァドルが話すとは思えなかったし、口にするのも憚られる問いばかりがエリスの心を占めていた。
 目の前に鉢がどんと置かれ、エリスは我に返った。
「麺麭ばかりを、召し上がるおつもりですか」
 笑みを浮かべてサムルが言った。鉢には肉を煮込んだものが盛られていた。「そのくらいは、大丈夫でしょう」
 一人分にしては多すぎる量に、エリスは思わずサムルを睨んだ。大食いだと言いたいのか。
 いつの間にかヒャルティの詩は終わっており、ウーリックが代わって竪琴を奏でていた。男達は、それに聞き入る様子もなく、賑やかにしていた。父とロロは話に夢中なようで、弟達は食事に向かっていた。誰も、自分達には注目していないようであった。
 (やに)下がったような笑みを浮かべた顔に腹が立った。自分に求婚した事を後悔させてやりたくなり、サムルの向う脛を卓子の下で蹴とばした。
 瞬間、サムルの顔が歪んだが、直ぐにまた、例の笑みを浮かべた。
「つれない方だ」
 その言い方も気に入らなかった。揶揄われているのは明白であった。
 機嫌を損ねる事を言うくらいならば、求婚などしてこなくても良いものを、この男は何を考えているのかと思った。結納財、持参財の交渉に入っているからといって、安心しているのならば大間違いだと言ってやりたかった。父の考えは変わらないかもしれないが、自分はここで杯の中身をサムルの顔に空けて恥をかかせる事もできるのだ。
 行動をしないのは、ただ、最後の手段として取っておきたいからであった。今、そのような事をしでかせば、如何に甘い父とはいえ、部屋に閉じ込めようとするかもしれない。それは避けたかった。
 反応しないエリスに飽きたのか、サムルは注意をロルフに向けた。
 それで、良い。放ってもらえる方が有り難いとエリスは思った。自分達は、互いの利益の為に一緒になるのだ。遊び相手ではない。
 そう、遊び相手ではないのだ。発言の自由をサムルは保証してくれたが、心の中を全て見せる訳にはいかなかった。夫ではあっても、親友ではない。飽くまでも契約の相手であれば、誠実ではあっても正直であるとは限らない。お互い様の事だ。それを承知の上で、サムルは取り引きを持ちかけ、エリスはそれに乗ったのだ。
 何も知らない弟達は、義兄(あに)ができることを無邪気に喜んでいるようであった。殊に、ハラルドにとっては十四も年上の大人の男である。興味はある様子だったが、さすがのこの悪戯者も、年齢の差に気後れしているように見えた。
 これが、自分の好きな男であったならば、どれほど嬉しく、誇らしいだろうかとエリスは思わずにはいられなかった。母にあのような顔をさせる事もなく、堂々としていられたであろう。愛想よくもしていられただろう。
 婚約が決まった時には、晴れ晴れとした気分だった。
 発言、行動だけではなく、条件付きではあったが離婚の自由も得る事になった。これほどの条件の良い相手は、いないであろう。
 確かに、子供を産むのは大変かもしれない。だが、それは神々の領域だ。子のない夫婦もいるのだから、その時にはサムルの言うように話し合えば良いだけだ。どちらかが泥を被らねばならないのだとしても、躊躇うものではなかった。
 自分一人で考えて決めた結婚であった。
 母に何も相談しなかったのは、良い事ではなかったのかもしれない。(はか)らずに決断した事は、少々、後悔していた。母からの、有益な言葉や忠告は求めてはいなかった。それでも、話を聞いてもらう事さえもしなかったのは、さすがにやりすぎであったと思った。その事が、母を動揺させたのかもしれない。
 自分と母とでは、心の強さが違う。そう、エリスは思った。自分は、あれほどまでに弱くはない。この結婚を、必ず無事に乗り切ってみせる。
 そうして、後は母を父との結婚から救い出し、共に静かに、誰に遠慮もなく生きて行くのだ。
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