第29章・転機

文字数 8,922文字

 宴が進み、子供達がオルトの言葉で下がると、乳母と思しき女がロルフの腕からハラルドを受け取り、退出した。
 いよいよ、断罪の時だ。
 ティナは覚悟した。だが、ティナの所には食事が運ばれ、杯まであった。罪人の最後の食事なのだろうかと思いつつ、ティナは意外にも自分が空腹であることに気付いた。焼きたての麵麭は良い匂いがしている。
 傍らではロルフが食事をしながら下の男達との話に興じているようであった。ティナは麵麭を半分に割った。祝いの席らしく、雑穀の入ってはいない小麦粉だけのものであった。それが、この北海ではどれほど贅沢なものであるかを、ティナは既に知っていた。だが、自分が臥せっていた時の食事も粥でなければやはり、小麦粉だけで作った麵麭だった。
 オルトや女療法師が気を利かせてくれたのだろうか、ふんわりとした麵麭は蜂蜜の風味がしており美味しかった。まだ、自分は食べ物をそのように感じる事ができるのだと愕いた。スールの死からずっと、何を口にしても味を感じなかったせいもあるのかもしれない。
「如何されましたか、お口に合いませんか」
 気遣わしげな声にはっとする。ヴァドルだ。
「いいえ、人前に出るのは久し振りなものですから」
 ティナはそう言い、更に小さく麵麭を分けた。ヴァドルは神妙な顔で頷き、再び他の男達との会話に戻った。
 スールの死の後、納屋に放り込まれた自分を助けてくれたのは、ヴァドルだった。
 そのことに思い当たり、ティナは顔が赤くなるのを感じた。みっともない姿を晒した。如何に流産しそうになっていたからと言って、見付けてくれたヴァドルに命乞いをし、宥めすかせるその腕の中で気を失ってしまった。その事をロルフに知られたら、どうなるだろう。
 いや、どうにもなるまい、とティナは思った。もう、ロルフからはこれ以上はないというほどに軽蔑されている。今更、ロルフがどう思おうと、気にしたところで何ともなるものではない。自分達の関係は、修復が不可能なまでに壊れてしまっているのだ。
 麵麭を口に入れ、杯の酒で飲み下そうとした。だが、酒を口に含む前に、それがいつもの蜜酒ではないことに気付いた。葡萄酒だ。その懐かしい香りを嗅ぎ、麵麭を呑み込んで一口、含んだ。芳醇な味わいが口の中に広がった。余程のことがなければ、葡萄酒は高価なので北海での宴席に出ることはない。中つ海では毎日、当たり前のように食卓に上がっていたものが、ここではそうではないと気付いた時のことが甦った。そして、時の流れに涙しそうになった。
 中つ海の領主の娘として産まれ育ち、愛する人と結婚をして幸せな日々を送っていたはずだった。今頃は、同じように子供にも恵まれ、毎日を愛に溢れた生活をしていたかもしれない。
 実際にはどうだろう。結婚を目前にして北海に連れて来られ、望みもしない結婚をした。確かに、子供達には恵まれ、愛している。だが、良人には何の関心も持たれていないどころか、憎悪を向けられている。
「奥方は疲れているようだ」
 ロルフの声がティナの耳を打った。「もう下がると良い」
 自分はこの場で裁かれるのではなかったのか。
 ティナは混乱した頭でロルフを見た。だが、自分を見る良人の目からは何も読み取れなかった。軽くティナに頷くと、ロルフは再び男達に向かった。
 女奴隷が近付いて来たのでティナは立ち上がり、軽くロルフに膝を折って退出の礼をした。ロルフと話していた男達が杯を掲げてそれに応えた。
 訳の分からぬままにティナは族長室に帰った。そこでは既に就寝の準備が為されており、ティナは促されるままに着替え、毛布と毛皮の間に身を滑り込ませた。久し振りに人前に出た緊張から解き放たれて、ティナはすぐに眠りに落ちた。

 次の日も、ティナは生きていた。それどころか、部屋の外に出ることを許された。オルトやハラルドの乳母がいる中庭で、子供達の様子を見ることさえもが許された。ハラルドの乳母は、先頃赤子を亡くしたばかりの集落の自由民だった。
 エリスは随分とはかどった刺繍をティナに見せた。ロロとオラヴは剣の稽古の上達具合を見て貰いたがり、アズルは裳裾に縋って抱っこをせがんだ。
 どの子も、自分を忘れていなかったことが嬉しかった。それが、エリスとオルトのお陰であるとしてもだ。特に、アズルは半年も会わぬ母親の存在を忘れても仕方のない年齢であった。
 そのアズルを膝の上に乗せ、ティナは笑みを浮かべてロロとオラヴの一方的な勝負を見た。ロロはまだ、自分から負けてやるということも、年下に対して手加減をするということも知らなかった。それでも、オラヴは負けず嫌いなのか、なかなか敗北を認めようとはしない。そういった強情な所はロルフに似ているのではないかと思われた。そう思うと、笑みが消え、ティナは慌ててアズルを見た。そこにはロルフと同じ色の目があった。まだ無垢な瞳であったが、強ばった笑みを向けてティナは目を閉じた。
 ああ、どの子供達にもロルフの面影が見える。
 エリスにしたところで、子供ながらに輝くような美しさはロルフの血によるものだ。男の子達はあっという間に育って、長身の北海の戦士になってしまうのだろう。そうなった時、自分は今と同じような気持ちでこの子達を愛することができるのだろうか。
「やあ、せいが出ますな」
 明るい声がティナの思いを破った。ヴァドルがロルフと共に中庭に姿を現した。ティナが慌てて立ち上がろうとするのを、ロルフは軽く手を振って止めた。
 ヴァドルは大きな笑いを浮かべてロロの相手をし始めた。ロルフは乳母に抱かれたハラルドの顔を覗き込んだ。
 それは理想的な一家に見えた。だが、自分は異物だとティナは感じていた。未だにその感覚が拭えなかった。
「お父さま、お母さまがお外に出て来られたのよ」
 エリスは二人の間にある冷たいものには気付かぬのか、嬉しげにロルフに言った。
 娘の言葉に、ロルフはティナを見た。そして、僅かに頷いた。ティナはアズルを膝に乗せたまま、上体を傾けて挨拶をした。だが、言葉は互いに発さない。ティナは話しかけられるまではロルフには自分から声を掛けなくなっていたが、エリスはそのようなことにも無頓着な様子で嬉しそうにしていた。自分も、あのくらいの年齢の時には、両親の間の儀礼的な空気には気付かなかったのだとティナは思った。それを知ったのは、もっと後になってからだった。
 この子達も、いずれは両親の間の不協和音に気付くのだろう。
 そう思うと、胸が締め付けられた。ティナがアーロンとの結婚を決められたのは、便宜上の事もあったが、二人の間に愛情があったからでもあった。自分のような立場の者がそういった恋愛による結婚をできるのは、非常に珍しい事だというのも分かっていた。いずれ、エリスはロルフの選んだ男の許へ嫁いで行くだろうし、男の子達も――特にロロは族長の後継者として結婚相手を選ばねばならないだろう。
 ロルフとは便宜上の結婚だった。
 それも、愛する人々の許から強制的に引き離されての掠奪婚だ。そこには愛情の介在する余地はない。ティナの両親よりも、ずっと冷めた関係だった。あの二人の間には、少なくとも互いを尊重する気持ちはあった。
 エリスにも誰にも、このような思いはして欲しくはなかった。ロルフは父親として子供達に愛情を注ぎながらも、結局は族長として縁談を決めるだろう。幸せなものであるかどうかよりも、政治的な意味合いを重視するだろう。それが、人の上に立つ者の務めだ。
 ロルフの短かった最初の結婚は幸せなものであっただろうに、と思った。だが、高圧的な族長でもあるロルフが愛情だけの結びつきを許すとは思えなかった。
 ティナの胸には暗澹たる思いが広がっていった。子供達は、自分とは違って幸せな人生を送って欲しかった。愛に溢れた人生を謳歌してもらいたかった。それも虚しい夢にしか過ぎない。
 ロルフは、そういった生き方を許すまい。

 その夜、ティナが寝支度をしていると、ロルフが族長室に入って来た。
 族長の部屋なのだからロルフが何の前触れもなく入って来るのは当然の事であったが、ティナはうろたえた。最後に二人きりであった時の状況が思い出された。あの時、確かにロルフはティナの死を願っていた。今もそうなのだろうか。昼間に見たロルフからはそのような気配は一切、感じられなかった。
 ティナは身体が震えるのを止める事が出来なかった。
「寝ないのか」
 低いロルフの声にびくりとした。
「今、休もうかと――」
 ロルフは頷き、ティナから興味をなくしたように剣帯を外した。そして、いつもそうしていたように抜き身の長剣を枕頭に置いた。鯨油蝋燭の灯りに黒い文様の入った刃が光り、ティナはぞっとした。ロルフの習慣とは言え、決して慣れることはない。それに、ロルフは今日、ここで眠る気だ。
「何をしている。さっさと休め」
 ティナの方を見ずにロルフが言った。その中に苛立ちはなかった。
 ゆっくりと、ロルフの視界に入らぬようにと祈りながら、ティナは毛皮の下に潜り込んだ。ロルフが服を脱ぐ衣擦れの音がした。ここは族長室なのだから、ティナの回復した今ではロルフがここで眠るのは当然のことだ。だが、ティナは落ち着かなかった。スールがこの部屋に運ばれて来てからというもの、二人で夜を共にした事はない。
 寝台の隅で小さくなった。ロルフは、まだ、もうティナには子は望めないことを知らないのだろうか。そうだとすれば、それを伝えるのは自分の役目なのだろうか。不思議な事に、ロルフから死を賜るのは恐ろしくはなかったが、その機嫌を損じるのは避けたかった。死よりも、ロルフの不機嫌と怒りの方が恐ろしかった。
 いつものように無遠慮にロルフは寝床に入って来た。どうすれば良いのかとティナが迷っていると、いきなり背後から腕が伸びてきた。
 ティナは息を詰めた。
「何もしない、じっとしていろ」
 ロルフの口から出たとは到底思えない言葉であった。だが、剥き出しの腕がティナの身体をぐいと引き寄せた。有無を言わせぬ力強い腕だった。そして、ティナは自分がロルフの身体に密着していることに気付いた。改めて、この男の大きさを思い知らされた。北海の男としては細身であっても、ティナにはやはり、大きな男であった。蜜酒の匂いがティナを包んだ。
「ロルフさま、お話が――」
 ティナは漸くのことで言葉を絞り出した。


 ロルフは言った。
 知っていたのだ。
 ロルフは、ティナには最早子が出来ぬことを既に知っていたのだ。良人であるならば、それも当然の事なのかもしれないが、では、何故、ロルフは役立たずとなった自分を生かし続けるのか。
 やがて、規則正しい呼吸音と共に柔らかな鼾が聞えて来た。ロルフは眠ったらしい。それでも、ティナは身体を硬くしていた。
 ロルフは何を考えているのか分からない。
 北海人の心を読めた試しはないが、それにしても、ロルフはティナにとっては不可解であった。
 真冬に羊がいなくなったというだけで自ら(みぞれ)の中へ出て行くし、供も連れずに他の集落へ出掛ける。鷹の調教も、冬越しの為の家畜の選別も自ら行う。その仕事を全て族長の務めだと思っているようだ。
 領主はそのような些事には関わらないものだ。だが、ロルフはそういった細々としたことに加えて、領主としての仕事もこなしている。ロルフは一日の大半を戸外におり、滅多に城砦から出なかったティナの父とは大違いだった。
 そう、ここは中つ海ではなく、北海だ。
 自分の身体に腕を巻き付けている男も、アーロンではなくロルフだ。
 人々の生き方も考え方も違う。
 しかし、幸福を求める心は同じはずだ。
 ティナはその考えに、身体を強ばらせた。それに気付いたかのように、ロルフが低く唸り、ティナの首に顔を擦り付けてきた。髭が、少し痛かった。
 ロルフはたまに深酒をした時に、エリシフの名を寝言で口にすることがあった。若い夫婦は幸せであったに違いない。だが、それは失われ、ロルフは一人でそれに耐えて来たのだろう。そのエリシフの後釜に座ったのは、愛してもいない女だった。自ら望んではいない女だった。心の空虚を満たす存在ではなかった。
 今のロルフは、孤独に苛まれているようにも見える。
 そうでなければ、寒くもないのにティナの身を、ただ抱き締めて眠る理由にはならないだろう。
 ティナにはそんなロルフに差し伸べる手がなかった。いつでもロルフは君臨する者であり、恐怖で支配する者だった。そのような者が弱味を見せたからと言って、手を差し出すことができるだろうか。ただ一度の気まぐれであり、明日になれば全てをなかったことにするのかもしれない。そんな人を信用できるだろうか。
 自分達の間には、余りにも大きな隔たりがある。
 それに、ロルフは助力を求めて来たわけでもない。
 ティナは震えながら、この夜が明けるまで待たねばならないのだ。

    ※    ※    ※

 自分としたことが、何という醜態を曝してしまったのか。
 ロルフは苦々しい思いで朝餉の粥を食べ、凝乳を少し飲んだ。
 夕べは、どうにかしていた。それほど酒を過ごした訳でもないのに、無性に人の温もりが恋しかった。集落の女も奴隷も、ものの役には立ちそうになかった。ロルフは行為を求めているのではなかったからだ。ただ、エリシフを亡くして以来ずっと心に存在する虚無を見つめていたくはなかっただけだ。
 女は、エリシフと同じ石鹸と香油を使っているが、その香りはエリシフのものとは異なっていた。記憶に残るエリシフの香りではなかった。
 髪の質感も違う。エリシフの髪は、まるで絹糸のように細く滑らかだった。あの女の髪はもっとしっかりとしていて鬱陶しくなるほどに豊かだ。
 そして抱き締めた時の質感はまるで違う。細く、力を加えれば簡単に砕けてしまいそうだったエリシフ。小柄でありながら肉付きもよく、女らしい体型のあの女。
 エリシフは実際に抱き締め、かぐわしい香りを味わうことはできないが、あの女は温かかった。
 ロルフが抱き締め、寝入るまでずっと、身体を強ばらせていた。それもそのはずだ、ロルフは女を丁寧に扱ったことなどなかった。常に粗雑に、身体を重ねる為だけに扱ってきた。相手が怯えようが嫌がろうが、関係はなかった。
 それが、どれほどあの女にとっては恐ろしく、耐えがたかったのか、硬い身体にようやく知った。それまでは、あの女が何を感じようとも自分には関わりがなかった。
 自分は、あの女に縋った。
 それが誰であろうと、エリシフ以外の女に縋るのは醜態だった。
 集落の女にそのような姿を晒すことはできなかった。だが、黒々とした何もない空間が自分を呑み込もうとしている時に、ロルフが弱味を見せられる相手はいなかった。
 あの女しか。
 あの女ならば、ロルフの弱味を誰かに吹聴することもないだろう。ロルフを恐れているから。いや、それ以前に、誰も相手がいないから。
 自分が生殺与奪権を握っている以上は、女は決して口外すまい。
 そういう計算高いところがあったことは否定しない。果たして、あの女はロルフの存在を身近にして恐怖していた。
 ロルフが望んだのは恐怖ではなかった。今ではそれが分かる。
 ロルフが望んだのは、エリシフのような優しい手だった。それは、絶対に得られないものだ。あの女はエリシフではないのだし、エリシフはこの世を去って久しい。
 朝には、自分を呑み込みそうだった虚無は霧散していた。そして、あの女は静かに眠っていた。ロルフと向き合って、寄り添って。
 苛立ちを抑えようと、ロルフは杯をあおった。そして、立ち上がった。子供達が起きるまでは、まだ時間があるだろう。妻であるあの女も。その間に、鷹の様子を見に行かねばならない。
 美しい三羽の白鷹も、今朝はロルフの慰めとはならなかった。心に浮かぶのは、自分の失態ばかりだった。
 昔から、短慮による過ちを多く犯してきた。同じ轍を二度は踏まないということだけは言えたが、誇れるほどのものではない。父にはよく、ヴァドルと比較もされた。あの男は癇癪を起こすこともなければ、ロルフのように考えが足りないということはない。
 もし、ヴァドルと立場が逆であったら、互いにどのような人間になっていたであろうか。
 だが、そうであったならば、エリシフはヴァドルの妻となり、独り身を貫くのは自分になっていたはずであった。
 それだけは、耐えられなかった。
 ヴァドルが次期族長であったとしても、エリシフはロルフを選んだかもしれないが、エリシフを娶ることができるのは族長の座が約束されている者だった。それはロルフでなくてはならなかった。それほどに、ロルフは幼い頃からエリシフを想っていた。誰にもその権利を渡さぬほどに愛していた。そして、ヴァドルならば、無理にエリシフを娶ろうとはせずにロルフに譲ったであろう。
 屈辱だった。
 だが、ヴァドルを憎むことなどできるはずもなかった。何があろうとも、ヴァドルはロルフにとっては欠かせぬ存在であった。
 このような醜い心が明らかになれば、ロルフはヴァドルさえ失ってしまうに相違ない。それどころか、全てを。例え、ヴァドルが両手(もろて)を広げてくれても、ロルフ自身はそれに値しない。器の小さな人間だ。
 自分は卑怯者だとロルフは思った。あの女に為したように、自分よりも弱い者に対して力で支配することしかできない、愚かで卑怯な人間なのだ。
 ロルフは失意と自己嫌悪を抱えて館に戻った。大広間では子供達が朝餉を摂っている最中だった。そこにはあの女もおり、アズルの食事の世話をしていた。その光景を、ロルフは戸口に寄り掛かり、腕を組んで眺めた。
 あの女には子供達と会うことは許したが、このような関わりは許可しなかった。
 だが、ロルフは叱責することなく見続けた。まだ匙使いのおぼつかないアズルを、あの女は辛抱強く見守っている。あれがエリスならば、匙を引ったくって食べさせているところだろう。だが、あの女は決してアズルを急かせることがなかった。
 この島に連れて来た時、あの女は確かまだ十七だったはずだ。ならば、今は二十代の半ばと言ったところだろう。その年齢の割には、複数の子供の母親らしく落ち着いている。エリシフは最後まで娘らしさを失わず、今のあの女の年齢よりも若くで儚くなった。子供達の世話を充分に出来ない自分の身を、嘆いていた。
 ロルフが愕いたことに、子供達は笑っていた。母親と会えなかった時には沈みがちであったのが嘘のようだ。そして、あの女はロルフには見せたことのない微笑みを浮かべている。それも当然かもしれない。ロルフはあの女にそのようなものは期待してはいなかった。
 それは、幸福な一家そのものであった。
 ロルフは衝撃を受けた。
 自分は、その中にあって邪魔者でしかない。
 確かに、子供達はロルフを慕ってはいる。だが、今、あの女に見せているような満面の笑みをロルフに向けただろうか。族長室に閉じ込めて会えないようにしてから今まで、子供達はあのように笑ったりはしなかった。
 中つ海の身分ある女は子供を使用人任せにしているという交易島での話は、偽りであったとは思わない。だが、そうではない女がいたとしてもおかしくはない。どこにでも、例外というものはある。アズルの汚れた口許を優しく拭うあの女の仕種を見ていると、そう思わざるを得なかった。
 ロルフは母親を知らなかった。いつでもオルトとヴァドルが側にいたので、そのことを寂しいとも思わなかった。しかし、自分の子供達にとり、オルトは歳を取り過ぎていると、ようやくロルフは気付いた。確かに経験は豊富だが、もはや一度に複数の子供を見るには無理があるようだ。
 あの女は子供達に愛情を持って接しているように見えた。否応もなく孕まされ、子供の顔など見たくはないのではないかとロルフは思っていたが、そうではないようだ。十月余りも自分の胎で育てた子だ、それなりの愛着はあるだろう。しかし、ロルフが見ているのはそれ以上の光景であった。
 では、スールの死はどうするのだ。
 赤子を一人で逝かせてしまった罪を、あの女にどう贖わせればよいのだろうか。
 その答えは出ていたはずだった。
 ロルフは、あの女を断罪できなかった。土壇場になって、怖気付いたのだ。あの女の目に、死に際したエリシフと同じものを見て。死を受け入れる姿を見て。
 全く似たところのない二人の女が、何故、こうも同じ目をするのかロルフには分からなかった。
 怒り狂うロルフにも臆せずに見返す力強い目。
 全てを悟ったような凪いだ海を思わせる目。
 そして今の、愛おしげに子供を見守る目。
 もし、子を失ったのがエリシフであったのなら、ロルフは全力でエリシフを守ったであろう。あの女だから、罪を問おうとしているのではないだろうか。あの時の状況を冷静に鑑みれば、全てがあの女の罪とは言い切れないということをロルフは気付かざるを得なかった。
 ロルフの心は掻き乱された。自分はここにはいてはいけない存在のように感じた。この幸福そうな母子には、きっと別の父親がいるのだろう。
「お早う御座います」
 背後からのヴァドルの声に、ロルフはびくりとした。そう、ヴァドルのような父親こそが、相応しいのではないか。
「どうかされましたか」
 ヴァドルは不思議そうにロルフを見た。午前中はこの男と、遠征について協議することになっていたことをロルフは思い出した。
「まだ、御子達は食事中ですか」
 中を覗き込んでヴァドルは言った。そして、問いたげにロルフを見た。普段ならば子供が食事中であろうと構わぬロルフだった。
「奥方様もすっかり宜しいようで、何よりです」
 ロルフはヴァドルの口調に含む物はないかと勘ぐらずにはいられなかった。あの女が子供の世話をする事をずっと禁じていたのを、ヴァドルは知っているはずだから。だが、その言葉には何の裏もないようだった。
 ロルフは無言で頷き、大広間に入った。
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