第55章・責任

文字数 10,295文字

 ロロの為の宴は無事に済み、全てが上手くいったようにロルフには思えた。ヴァドルの言葉を容れながらも、オルトを休養させる(みち)を何とか探らなくてはならなかった。
 しかし、ロロが翌日の務めを理由に夜半に辞去すると、その日の緊張と心労のせいか、いつの間にか、うとうととしてしまった。気付いた時には夜明け前ではあったが、大広間には多くの者がいぎたなく眠っていた。その中にはヴァドルの姿もあった。
 冬の宴の最後は、大体、このようなものだ。折角、酒で温まった身体を冷やしたい者はいない。
 朝の粥を出す時分になれば、自然と皆、目を醒ますだろう。ヴァドルも、他の者に較べて特に勤勉ということもないので、このまま寝かしておいていたとしても、それなりの時間に起きるだろう。ロルフなどよりも、ずっと心を痛めて気を張り詰めていたであろうし、酒に逃げる気持ちも分かった。自然に起きなければ、酔いつぶれたこの男の目を醒まさせる事はほぼ、不可能である。
 男達の寝息や鼾で満ちた大広間を、朝になって再び腹を空かせたのか、犬が床に落ちた食物を漁り始めた。宴の最中には落ちた食べ物を拾おうとしても邪魔っけに蹴られたりしていたが、男達が眠りこけている今は、自由に堪能している。
 冬の間、大広間で過ごさせる事にしている白鷹が、高座の上の梁で身体を震わせた。猛禽の、柔らかな羽毛が一枚、二枚、落ちてきた。縄張りを持つこの鳥は雌同士であっても、寒さに身を寄せ合う小鳥とは異なり、互いにある程度の距離を取っていた。馴れ合わぬところも、猛禽の良いところであるとロルフは思っていた。
 穏やかな朝だ、とロルフは思った。雪は夜じゅう降っていたのだろうか。積もっていても、仕事がないとは限らない。貧しい自由民の家の屋根が抜けたり、老人しかいない家の除雪の手伝いの配置など、それなりにやるべき事は多かった。族長家は気前良く朝食も振舞うが、そのまま仕事に駆り立てる事もある。自分の家の仕事はそれからだ。その事を快く思わぬ女房達がいる事も知っていたが、これは父の代よりももっと古い時代からの習わしであった。人が集まった際には、まず、共同体としての仕事を優先しなくてはならない。
 それでも、天気は悪くはないようだ。風の音はしない。今日にどのような仕事が待ち受けていようと、それは幸いであった。(みぞれ)まじりの雪の中を出掛けるものほど大儀な事はない。そういう時に限って、ややこしく面倒な戸外での問題が発生するのだ。家畜の脱走、狼、前日に出掛けたまま帰らぬ者――極貧の民や奴隷が屋内で凍死していたとしても、捜索に人を出す事を思えば、それは決して手間ではなかった。
 再びの微睡(まどろ)みの中で、ロルフは切れ切れに思いを巡らせた。
 疫病(えやみ)の神は、この冬は訪れずに済むであろうか。誰の何が悪いというのではない。神鎮めの犠牲(いけにえ)を捧げたとて、聞き入れられるかどうかは、神の心ひとつである。スールを、それで失った。疫病は死と共に、大神の生命を狩る姿の一つである。狩りは、気紛れに行われる。人間は、それに対して早く行き過ぎるようにと祈る事しかできない。生命は、神々のもの。人間が如何に人間を殺そうとも、それも神々の決められた事なのだ。
 では、自分があの女を消してしまえないのも、神々が生かす事を決められたからなのか。
 その考えに、はっとしてロルフは目醒めた。
 エリシフやヴェリフ、エリタスの生命を召し、スールをも自分から取り上げた神々。何故(なにゆえ)に、愛する者達を自分から奪いながら、神々はあの女が生き続ける事を選ばれたのか。その理由を、たかが人間が考えても無理なのだろうが、ロルフは知りたいと思った。生と死を()けるものは何であるのかを、神々に訊ねたくもあった。
 神々の意図を疑うものではない。
 しかし、何故に、自分にはかように苛酷な人生が用意されていたのかを、知りたくはあった。
 これまでにも、何度も思った事であった。この世に生命を受けた瞬間から、自分の人生は死に付きまとわれていた。戦士として生きる以上は、手が血に染まるのを厭いはしなかったが、戦いとは別の場所で生命が失われて行く――殊に愛する者の生命が消えて行くのは、身を切られるよりも辛く苦しい事であった。身体の痛みや傷は、いずれ癒えよう。だが、心の傷はそうは簡単にはいかない。身体の内部で知らぬ内に進む病のように、じわじわと、時間と共に消える事なく、ますますその存在を大きくして行く。
 厨房の方から、何やら良い匂いがしてきた。そろそろ、大広間の男達も目を醒ます時間だ。昨夜の饗宴の跡に、オルトはいつも通りにひと渡り目をやり、男達に朝食を振る舞い、追い立てるようにして家へ帰すか、この館の仕事――雪かきなどを頼むだろう。誰も、それに異を唱える事はできず、面倒だなという顔をしながらも、食事を振舞われた手前、大人しくその言葉に従うだろう。
 そうして、一日が始まる。

    ※    ※    ※

 誰かが呼んでいる声で、エリスは目を開けた。
 ウナだ。朝っぱらから、何の用があるのだろう。そして、なぜ、慌てたような調子に聞こえるのだろう。
 エリスは、幾重にも重ねた毛布の上に掛けていた毛皮を身体に巻き付け、瞼を擦りながら扉を開けた。
「エリスさま」
 ウナの顔と声は切迫しており、落ち着きがなかった。これでは、父はオルトの後釜にウナを据える事はないだろうとエリスは感じた。
「オルトさまが――オルトさまが、起きてはこられません」
 最悪の事態を想像して、エリスに残っていた眠気は消し飛んだ。
「様子は、誰か見に行ったの」寒さからではない震える声でエリスは訊ねた。「それとも、指示を待っているの」
「今、見に行っております。ああ、どうしましょう――」
「服を着るわ。少し、待っていて」
 エリスは部屋に引っ込み、急いで昨夜脱いだ服を身に着けた。何が起こっているにせよ、ウナは役に立たない。それは、昨日に分かっていた。自分が決断しなくてはならない事が増えるのかもしれない、と思うと眩暈がしそうだった。
 部屋を出ると、奴隷の娘がウナと共にエリスを待っていた。廊下は冷え切り、壁の窪みに据えられた灯りが心許なく揺らめいていた。
「エリスさま、オルトさまの様子を窺いに行っていた者が戻りましたわ。わたし一人では聞くのが怖くて」
 北海の女としては、ウナは弱い。なぜ、父やオルトが気性の強い女をハラルドに付けなかったのか、エリスは不思議であった。愛情を持って幼子を育てるにはそのような女で充分であろうが、乳母の手を離れる五歳からは、男子には戦士を引退したり続けられなくなった学問の出来る男であったり強い女を養育係にするものだ。オルトがそれを気に入らなかったのか、父がオルトと誰かが衝突する事を避けたのか、エリスには分からなかった。どちらにしても、それは大人の都合であり、ハラルドの事を考えてではないと思った。
「どうだったの」
「オルトさまは起きていらっしゃいました。でも――」娘はおどおどしたように言った。「でも、起き上がることがおできにならないようでした」
 大きな安堵の溜め息がウナから漏れた。
 エリスは、だが、ウナのように楽観はしていなかった。
「身体は起こせないけど、話すことはできるのかしら」
「はい」
 娘の口からそれ以上のことは引き出せなかった。エリスは娘に頷いて用件が終わったことを伝えると、ウナを無視してオルトの部屋へ行った。
 一声かけて中に入ると、部屋の中は昨夜の温もりは既に失せていた。灯りはともしてあったが、頼りなかった。
「オルト、調子はどう」エリスはそっと訊ねた。「起き上がれない、と聞いたのだけど」
 エリスと同じく、毛皮の下に何枚もの毛布を重ねてオルトは寝台に横たわっていた。顔色は薄暗くて窺えなかったが、影が濃いせいか普段よりもずっと老けて見えた。
「エリスさま」オルトは仰向けの姿勢のまま、顔だけを向けて言った。「申し訳ございません。わたしも齢ですわね。ロロさまのことで気が抜けてしまって、身体の方も力が入りません」
「療法師を呼ぶわ」
「いいえ、それには及びません」
 オルトの声は厳しかった。少なくとも、そこは変わりはないようであった。
「でも、あなたの状態を知れば、結局は同じよ。黙っている訳にはいかないことは、分かってくれるでしょう。今、この時は誤魔化せても、一日そうするのは無理よ」
 オルトは溜息をついた。自分自身に対する苛立ちが抑えられないようであった。そのようなオルトを見るのは初めてであり、エリスは如何なる事態であろうとも、オルトが自分の感情を見せずに対応してきたことに思い至った。自制心の塊のような人であった。
「昨日の今日ですもの、ゆっくりと休んだ方がいいわ。毎日、あなたは働きすぎていたのよ、ちょうどよい機会だわ」
 オルトは不満そうであった。だが、エリスはエリスで自分の役目を果たさねばならなかった。その事をオルトは理解しているであろう。当然、父とヴァドルの性分も。
「本当に、情けなく惨めなことですわねえ、齢をとるということは」オルトがしみじみとしたように言った。「どなたのお役にも立てず、かえって迷惑をかけてしまうなんて」
「そんな風に思わないで」エリスは言い、無理にではあったが、微笑んだ。「あなたは、今までずっと頑張ってきたのですもの。誰もそんなことを考えはしないわ」
 働き手として用を為さなくなった者が、如何なる扱いを受けるかを知らぬエリスではなかった。それでも、女はまだ良い。子守りや糸紡ぎなど、家族の役に立つ仕事ができる。男は、本当に駄目だった。家督を譲らなくとも、実際の権限の全ては若い者に移り、隅に追いやられてしまう。飢饉の年などには、殊に中央から離れた集落では子殺しと共に老人殺しも増えるという事をエリスは聞いた。ここでも、男の方が先に選ばれる。
 だから、男達は遠征で華々しく若くで死ぬ事を欲するのだろうか。如何に勇名を馳せ、財産を築こうとも、働き手として役に立たず、日を追う毎に手間のかかるようになる萎びた老人になるよりは、人生の頂点で死ぬ方が

だと思うのであろうか。
 自分の弟達には、そのように考えては欲しくなかった。また、そんな扱いを受けて欲しくもなかった。
 それが、自分が恵まれた生活を送っているからであるという事も、エリスには分かっている。余裕がなければ、負担になる誰かが去らねばならない。それが、この北海での慣らいであった。
 オルトひとり、養っていけぬ族長家ではなかった。差し迫った時には、貧しい者達に食糧を分ける事も厭わない――部族民を守るのが族長家であれば、それは当然である。どこの島であっても、それは変わらない。飢えで子や老人が死なぬようにするのも、そうだ。だが、雪や嵐、荒れた海に行き来の叶わぬ孤立した農場や集落では、その手も届かないのだ。
 エリスが生まれてよりこの方、スールを亡くした疫病以上の差し迫った危機が、この中央集落を襲った事はなかった。あの時には、集落の半数近くの者が犠牲になったのだとオルトから何度も聞いていた。それでも、何かが起こっても雪に阻まれて助けを求められずに消滅した農場の話は毎年何件か耳にする。どうする事もできなかったもどかしさにか、暖かくなってからの報告に苦い顔をする父とヴァドルの様子に、その責任の重さを知ったものであった。
「今まで館を繰り回して来たあなたのことを、どうこう言える者はいないわ。安心して休んでいて。そうすれば、きっとよくなるわ」
 この冬に、何が起ろうとも父とヴァドルはオルトを守る。それは、断言できた。神々より他に、この二人に対抗できる者はいない。オルト自身がどう思おうと、二人にとり、母親であるのだから守るのは当然の事だろう。
 母親に較べ、父親は余り大事にされない事に、そこでエリスは気付いた。自分達もそうであるが、結局は母親を選んでしまう。どれほど慕おうと、父親は自分達を支配する者であった。大人になるにつれ、その事を実感する事になった。父は族長であるのでまた事情は異なるが、他の家では、子が父親の支配の及ばぬ年齢に達した時に親がその事に気付かぬと疎まれ、排除される事になるのかもしれない。
 父と異なり、母は自分達にとっての最後の砦のようなものであった。泣き言であれ愚痴であれ、果ては怒りであっても受け止めてくれる人だった。母にならば、どんなに無条件に受け入れられるという確信もあった。父とヴァドルにとり、それはオルトだ。例え胎内で産まれる前から結ばれてはいなくとも、父にとっては実母以上の存在であろう。
「厨房の方は、わたしとウナで何とかするわ。昨日の宴の後始末も」
 そう、エリスはオルトに言って部屋を出た。
 扉を閉めると、心臓がばくばくと走った。ほっとしたのも事実であるが、不安の全てが拭えた訳ではなかった。
 やはり、自分が責任者とならなくてはいけないらしい。奥の事は、父やヴァドルの埒外である。管理者を任命するのは確かに族長であったが、今回のような緊急の場合には、取り敢えず奥にいる者だけで決めなくてはならないのだ。
「エリスさま、いかがでしたか」
 ウナが訪ねてきた。
「大丈夫、疲れが出ただけのようよ。数日はゆっくりとしてもらいましょう。療法師を呼んでちょうだい。それと、オルトが臥せっているあいだは、わたしとあなたとで取り仕切らなくてはならないわよ」
「――はい」
 相変わらず頼りない返事であったが、ないよりはましだとエリスは思った。
 自分にとっては、長い一日になりそうな予感がした。

    ※    ※    ※

  オルトの具合が宜しくないという話は、ティナの許にも届いた。朝食の席でウナが迂闊にも口にしたのだ。それまで快活であったハラルドが、みるみる元気をなくすのに気付いてウナは慌てて話題を変えたが、既に遅かった。
「エリスは厨房にいるのですね」
 ハラルドが食事を終えて大広間へ向かったのを確認して、ティナはウナに訊ねた。
「はい。初めてだとは思えない采配ぶりでいらっしゃいました。居残りになっ皆さまにもきちんと朝粥をお出しになり、後始末の指示もなさっておりました」
 この養育係には悪気はないのだ。それはこれまでのこの女を見ていると分かる。ハラルドを亡くした自分の子のように愛し――溺愛し、守る為ならば生命を投げ出す事も厭わないだろう。だが、同時に、ウナはティナが今まで見てきた多くの北海の女と同じように、配慮に欠ける部分があった。それはウナのせいではなく、この北海に住む者に特異的な性分ではないかとティナは考えていた。
 荒々しい海と厳しい気候、飢えと隣り合わせの生活に、多少は野面皮(のめんぴ)な部分があっても仕方がないのだろうか。人の死に慣れ、容赦のない世界に対峙してゆくには、どこかで無神経にならざるを得ないだろう。
「でも、支度の方は、どうかしら、進んでいるのでしょうか」
「まだ、半ばといったところではないでしょうか。オルトさまが全てをご存じだとは思いますが、正直、わたしもこれほど大きな結婚のお手伝いをしたことはございませんので」
 島で最も大きな集落であるここであっても、族長家に匹敵する家はない。ロルフに遠縁はあったが、それも他の集落に居を構え、また館の規模もここには劣るとオルトから聞いた事を、ティナは思い出した。
「あの子に、二つの仕事をさせるのは酷だわ」
「はあ」
 事態の深刻さが分からないのか、ウナの返事ははかばかしくなかった。ハラルドの支度に加えて、エリスの支度にもウナが駆り出されている事はティナも承知している。そこに館の仕事も加われば、どれほど大変かも。
「ウナ、あなたは、ハラルドの世話に加えて今、二つの仕事をしてくれていますね」
 ティナの問いにウナは頷いた。何が言いたいのか、さっぱりと分からないという顔であった。
「大変であるのは、重々承知しています。責任も伴いますし」ティナは慎重に話し始めた。「でも、これまで一度も家の管理をしたことのないエリスに、全てを任せてしまうのは危険だというのも理解していることと思います――それに、何よりもあの子の支度に最も手をかけなくてはいけません。間に合わない、などということがないようにしなくては」
 もし、エリスの支度が間に合わなかったり、おざなりなものであったとしたら、ロルフは怒るであろう。矛先は手伝った者に及ぶのは明白であった。その事はウナにも通じたらしい。女の顔は蒼ざめた。
 自分の胸にある事を全て打ち明けてしまわなければ、この女には理解できないかもしれないと思っての言葉であった。脅している、と取られたくはなかったが、仕方がない。オルトやエリスのように聡明ではないからと、ウナを責める訳にもいかないのだ。
「あなたが厨房の方を受け持つことはできませんか」
 ウナは愕き慌てたように両手を上げてひらひらさせた。
「めっそうもございません。わたしなどが命令できるものではありませんわ」
 厨房は料理人頭が命令を聞くかどうかで決まる、とオルトからかつて、教えられていた。居丈高に振舞う事のない自由民のウナには、確かに無理かもしれない。
「では、この棟で働く者を指示することは、通常の仕事に加えてできそうですか」
 なぜ、自分がこの女の機嫌を窺うような事をしているのか、ティナは不思議に思った。ウナもここの使用人の一人であるならば、命じれば済むだけの話であった。身分的に、一応はティナも族長家の一人である。自由人であるウナに対しては主人でいても良いはずであった。
 しかし、事は自分に関わるのではなかった。エリスの――子供の為であるならば、身分がどうであろうと、相手が誰であろうと頭も下げようし願い出もしよう。恐ろしいロルフに嘆願できたのだ。そのくらいは大した事ではない。
 ウナは暫く考えるようであった。
 この棟で働くのは、今は奴隷ばかりである。夏には戦士の娘達もこちらで手伝ったりもしていたが、その者達も全て実家へ戻った。次の夏になれば再び、新しい娘達が来るかもしれなかったが、それまでにはさすがに後任は決まっているだろう。自由民のウナが、年下とはいえ戦士の娘達に対して遠慮するのは分からないでもない。だが、もし、ウナがオルトの後釜に任ぜられるような事になれば、身分に関係なく娘達はこの館の規範に従わなくてはならないのだ。逆らう事は、族長への反抗とみなされる。
「それは、お受けしてもよろしいかと存じます」ようやく、ウナは言った。「どのみち、わたしはお二人のお支度でこちらに詰めることが多うございましょうし」
 ティナはその言葉に頷いた。

    ※    ※    ※

 オルトは翌日になっても状態は変わらなかった。エリスが朝起きて様子を見に行くと、灯りは明るい鯨油蝋燭に変えられており、オルトの足下には用事を賄う為の女奴隷がいた。少しの時間であっても遊ばせる気はないのか、乾燥豆を選別していた。
「今はお休みになっておられます」
 中年の女は、そう言った。「目を醒まされましたら、お(しら)せいたしましょうか」
 「それには及ばないわ」
 少し考えて、エリスは言った。今は余計な負担をオルトにはかけたくはなかった。「オルトがわたしに用のある時だけで充分よ」
 部屋を出ると、エリスは大きく溜息をついた。
 昨日は、自分が何をしているのかも分からないままに過ぎてしまった。男達が朝粥を手に賑やかに談笑している側で、父とヴァドルに報告し、指示を仰いだ。二人はまだ雪の降る中に男達を早々に送り出すと、入れ替わるようにやって来た女療法師を伴ってオルトの許へと行った。
 ややあって戻った二人の顔は変わらず曇っていた。取り敢えずのところは奥の事はエリスとウナに任せると告げ、仕事に戻るように示したのだった。
 そこからの事は、余り良く憶えてはいない。
 何もかもが混乱した中で進んだ。ウナもいたが、指図をしたのか、助言を受けたのか、それすらもはっきりとはしなかった。こちらが手馴れぬ事を察して、料理人頭や年長の奴隷が気を利かせて動いてくれた部分も大いにあるだろうと思った。
 所詮は、それが自分の実力なのだ。
 何も満足にはできはしない。いきなりであったから、というのは言い訳に過ぎないと思う。常にオルトは自分のやる事を、言う事をしっかりと見聞きしているようにと言っていたのではなかったか。いずれは一家を管理しなくてはならなくなるのだ。その時が、結婚してからではなく、今になったに過ぎない。
 サムルの家には奴隷がいないというので、誰かに何かを指示する事はないだろう。だか、自分で仕事の段取りを考えて動かなくてはならないのは同じである。
 誰の助けもなく、それが自分にできるであろうかと、急に不安に襲われた。十七、八であれば、普通は結婚して新しく家を構えるにあたって年配の奴隷を伴い、その助けを得ながら女主人としての地位を固めて行くのだと言う。それをいきなり一人で放り出させれるのだという事に、今更ながらに気付かされた。泰然と構えていられようはずもなかった。
 今の経験を活かせれば何とかなるわよ。エリスは自分に言い聞かせるように呟いた。今は料理頭や経験のある奴隷に頼ってはいけないという法はないわ。
 けれども、それが自分に可能かどうかが問題でもあった。
 族長の娘であるとの自負心ばかりが、大きく育ってしまっているような気がした。自分よりも弱い母やウナに対してつい、厳しい意見を言ったり思ったりするのがその証拠だと思った。この島を出れば、自分を守ってくれるのは族長の娘であるという一点だけなので、それに縋るのは悪い事ではないかもしれないが、今は違う。より経験豊富な者に頼らなければ、数日なら何とかなっても、この冬中を保つ事はできないだろう。そう簡単に、オルトの後任が決まるとは思えなかった。
 今まで、自分達はオルトに頼ってばかりだった。その

を、払わねばならないのだ。オルトの年齢や体調を気遣うのを忘れていた代償だ。頼りのない自分やウナしかいない状況では、オルトも心穏やかに休んではいられないだろう。
 どうすれば良いのかは、分かっていた。だが、自分にはその自信も手腕もない。
 父やヴァドルを奥の事で煩わせる事はできない。
 ウナは頼りにできない。
 エリスは不意に泣き出したくなった。いきなり自分が背負わなくてはならなくなった負担に、助けて欲しいと誰かに言いたかった。だが、それを言えるカトラはいない。
 母には、泣き顔を見せたくはなかった。弱いところを見せたくはなかった。二人でひっそりと暮らそう、と言ったのは自分であった。それが、館にいてさえ躓いていては、余計に母を不安にさせてしまうだろう。何の憂いもなく待っていてもらう為には、自分は弱いところを見せてはならないのだ。
 苦しい、と思った。自分はそれほど強くはないと自覚してしまった今では、強気でいた頃の言葉が心に重くのしかかった。言葉には、責任が伴う。浅はかな自分を責めたところで、何も解決はしない。何とかして、誰にもこの心を気付かれぬように乗り切らなくてはならないのだ。
 その時、エリスの脳裏にある言葉が甦った。
 ――心の中にある事を正直に仰言って下さっても構わない、と前にも申し上げました。秘密にせねばならない事であるならば、あの世にまでも、墓場にまでも持って行く覚悟があっての言葉なのですよ。
 サムル。
 くすんだ金髪と緑の目の男が浮かんだ。
 頼りになるのかならないのか分からない、捉えどころのない男だと思っていた。だが、今は、一度思い出してしまったあの言葉が、頭を去らなかった。サムルは頼る者を無碍にする事はないだろうと、昨日にも考えた。
 頼らせくれるなら、この際、誰だって構わない。
 そう思っている自分がいた。
 だめよ、だめ、人に――殊にあの男に頼ってはいけないのよ。エリスは(かぶり)を振った。真摯であろうとなかろうと、頼ってしまっては終わりだ。
 泣き言を言い、慰められたいというのは、子供や弱い者の考えだ、という思いから、どうしても抜け出せなかった。それは、エリスの中では自分に許してはならない事であった。
 でも、でも、とエリスは口許に震える拳を押し当てた。でも、オルトがどうなるのか、誰にも分からない。明日も明後日も、休んでもらわなくてはならないだろう。仕事の助言がもらえるのならば、今はそれで満足すべきなのだ。揺るぎない人であったはずの父やヴァドルですら動顚している。側にいた年月の長短はあろうとも、産まれた時からオルトを知っている事には自分も変わりがない。年若い自分が不安に圧し潰されようとしていても、それは仕方のない事なのだ。
 父とヴァドルは互いに支え合う事ができる。
 この危機を、双生児のように手を携え、共に一歩一歩乗り越えて行けるだろう。
 そう考えると、自分が如何に孤独にこ状況を戦わねばならないのかが身に染みた。
 同じように衝撃を受けているであろう弟達の為に、自分はしっかりとしていなければならない。見習い代表として大人の世界に一歩踏み出したロロであっても、エリスに対しては弱みを見せらえるように、強くあらねばならないのだ。アズルに見せてしまったような事は、二度と起こってはならなかった。
 北海の女は強くあらねばならない。
 オルトや父が常に口にしていた言葉だ。
 カトラは遠く、サムルは更に遠かった。
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