第10話  荷緒

文字数 1,146文字

 玄関を出ると、辺りはうっすら霧に包まれていた。

 山に囲まれたこの土地では、朝の空気は常に土の匂いのする湿気を含んでいる。雨模様の厚い雲に覆われた今朝はなおさらだ。

 秋の気配を感じる肌寒さに、(たつき)は軽く身震いする。

 樹の家は周りの風景によく馴染む、古風な平屋建ての一軒家だ。裕福ではないが土地だけはある明神(みょうじん)家は、上流に向かって広がる田畑のうち、家に近い場所を自分たちで使い、奥まったところは隣に住む誠の一家に貸していた。裏山も地所のうちだと聞いているが、北側は四国山脈に連なり、東側の麓には別の集落がある山のどこまでが自分たちの所有なのか、樹には見当もつかなかった。

 荷緒(になお)川沿いに民家が点在する集落では、住民のほとんどが何代にも渡って住み着いていた。
 顔見知りばかりのこの土地は、ハの字型の堤防で囲われた遊泳区に似ている。
 外海の荒波を防ぐように、外界の危険から子供たちを守ってくれるこの集落のなかで、樹は小学校時代を過ごした。

 誠と落ち合った樹は、荷緒川に架かる橋を渡って堅悟の家へ向かう。堅悟と合流し、懐かしい荷緒小を通り過ぎて、しばらく行くと耕太郎の家だ。そこには佑介もすでに到着していて、耕太郎とともに樹たちを待っていた。

「父ちゃんが、駅まで車で()んじゃお言いよるで」

 高知では、なぜだか人を車に乗せるとき、まるで荷物のように〈積む〉と言う。
 耕太郎の言葉に樹たちは喜んだ。集落は山の中腹にあるので、行きは楽だが帰りの上り坂がきついのだ。
 乗ってきた自転車を庭の隅に停めていると、一眼レフのカメラを首から下げた千代子が家から出てきた。
 黒目がちで円らな瞳は弟の耕太郎によく似ているが、無邪気な好奇心で輝く耕太郎とは違い、千代子の目は常に知的な刺激を求めてサーチライトのように光っていた。
 耕太郎の祖父の耕作も、どういうわけか羽織袴姿でトコトコやって来る。

「写真撮っちゃるけん、そこへ並び」

 千代子に促されるまま、樹たちは整列する。カメラのピントを合わせながら、千代子が今度は樹だけに言った。

「笑わんかね、あんたが主役ちや」

 何のことやらと思いながらも、樹は逆らうことなくニッと笑う。

「テニスちう、皇太子もやっちょう競技で選手に選ばれたがは、荷緒の名誉ぞ」
 ちゃっかりと写真の列に加わった耕作が、しわくちゃの顔をさらに崩して言う。
「ほんまは応援に行きたいがやけんどにゃあ。耕太郎がいかんち言うけん、代わりに駅まで見送っちゃお」

 樹はふと、仲間たちを襲った突然のテニス熱が、千代子の言葉から始まったのを思い出した。しっかり者で面倒見のいい千代子は皆から慕われていたが、樹は時折苦手に感じることがある。千代子にかかると、自分たちがまるでお釈迦様の手の上ではしゃぐ孫悟空みたいに思えてくるのだ。

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登場人物紹介

明神樹(みょうじんたつき)


主人公。高知県西部の小さな集落にある荷緒小学校出身。おおらかで寛大な性格。共感力が高く、他者との境界線が曖昧なところがある。大人びて見られがちだが、実際は奥手で浮世離れした子供っぽい一面を持つ。

樋口誠(ひぐちまこと)


樹の親友。繊細で面倒見が良く、常に周りに気を配るタイプ。一見温厚そうだが、根は負けん気の強い情熱家。

水田幸弥(みずたゆきや)


南野中軟式庭球部員。小柄だが優秀な選手。幼少期の辛い体験によって、他人に上手く心を開くことができずにいる。その一方で、いったん心を許した相手はどこまでも信頼する素直な一面を持つ。

木戸佑介(きどゆうすけ)


樹の仲間。穏やかで誠実な平和主義者。気弱な性格のため、思うように実力を発揮できずにいる。

安岡堅悟(やすおかけんご)


樹の仲間。体格に恵まれており、仲間うちでは武闘派を自任している。デリカシーがなく、気の短いところもあるが、仲間思いで情に厚い。

間崎耕太郎(まさきこうたろう)


樹の仲間。天真爛漫なムードメーカー。小柄でフットワークが軽く、直感で行動するタイプ。堅悟とは凸凹コンビ。

間崎千代子(まさきちよこ)


耕太郎の姉。しっかり者で姉御肌な情報通。弟たちから頼りにされている。

土居要蔵(どいようぞう)


元西方ジャガーズの捕手。小学校時代に荷緒小チームに敗れたことで、樹をライバル視するようになる。

岡林文枝 (おかばやしふみえ)


西方中女子軟式テニス部の部長。問題意識が強く、まじめな努力家。目立つことと、粗暴な男子が苦手。

山形強(やまがたつよし)


通称〈がた爺〉。西方中軟式テニス部顧問。体罰も辞さないスパルタ教師。テニスの知識も経験も皆無だが、教え子には常に目を光らせている。

沖広義(おきひろよし)


西方中テニス部員。誠のペア。元はバレー部に所属していたが、芽が出ずテニス部に移った。義理堅くまっすぐな性格。

山中淳一(やまなかじゅんいち)


西方中軟式テニス部員。樹の先輩であり頼れるペア。スマートな言動とは裏腹な激情家。

大﨑正則(おおさきまさのり)


南野中軟式庭球部員。幸弥の先輩でありペア。幸弥にとっては部内で唯一心を許せる存在。小心者で不器用だが愛情深く、信念を貫くタイプ。

徳弘大河(とくひろたいが)


南野中軟式庭球部員。大﨑の引退後、幸弥とペアを組む。こだわりが強く、マイペース。万事において納得いくまで追求するタイプ。他人の気持ちを察するのは苦手だが、裏表のない真っ正直な性格。

杉本香(すぎもとかおる)


西方中の不良少女。戯れに樹を誘惑する。

金四郎(きんしろう)


山に捨てられていたのを、誠に拾われた。賢く、忠義心にあふれた日本犬系の雑種。

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