第79話 浩二兄やん
文字数 1,017文字
10分前に消した電灯をふたたび
父の愛読書だったというこの本は、形見として受け取ったときから、すでに古びていた。
難解な文章は何度読み返しても、それまで気づかなかった新しい発見がある。
そのたびに、幸弥は父の新たな一面に出会えたような気持ちになるのだ。
目当ての一文を探して、幸弥は慎重にページをめくる。
"二は一の二倍ではなくて、一の二千倍なのである。"
孤独な闘いをつづけていた主人公が、初めて同志を得たときの感動を表した文だ。
樹のことばに心を打たれたとき、この一文が幸弥の胸に浮かんだ。
父にも、そんな瞬間があったはずなのだ。
父にとっての同志は誰だったのだろうかと考えたとき、とっさに浮かんだのは、浩二
高校時代、父とテニスのペアを組んでいた浩二兄やんは、亡き父に代わって幸弥にテニスを教えてくれた。
酒に弱かった浩二兄やんが、ほろ酔いで父との思い出を語ったとき、二重の大きな目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちていた。
浩二兄やんが父を好きだったように、父もまた、浩二兄やんを好いていたのだろうと思う。
そんな浩二兄やんを、幼いころの一時期、幸弥はほとんど家族のよう感じていた。
父の顔を思い出せなくなったときに、浮かんできたのも浩二兄やんだった。
しかし、樹と出会って以来、父を思うときに浮かぶのは樹の顔だ。
久しぶりに思い描く浩二兄やんは、どことなく輪郭がぼやけている。
幸弥が小学校にあがる前に別れたきりなのだから、無理もない。
浩二兄やんが姿を見せなくなったのは、仕事で遠くへ行ったからだと、大叔母は教えてくれた。
成長するにつれて、それだけが理由でないことは、幸弥にもわかった。
部屋の隅で、ひっそりと泣いていた母の姿が、いまも幸弥の胸に焼き付いている。
恨んだこともあった。けれど、いまは無性に会いたいと思う。
会って、父の話を聞きたい。
父の代わりに、樹の話を聞かせてあげたい。
そんなことをとりとめもなく考えているうちに、段々とまぶたが重くなってきた。
本をそっと閉じ、幸弥はもう一度電灯を消す。
暗闇のなかに、樹の顔と、少しぼやけた浩二兄やんの顔が浮かぶ。
さらにぼんやりとした、ふたりを重ね合わせたような父の顔が浮かんだとき、幸弥は安らかな眠りに落ちていった。