第21話 父

文字数 1,053文字

 賑やかに登校する中学生の群れのなかを、幸弥は誰とも言葉を交わすことなく、足早に歩く。
 教室の自分の席に着いて、早く本のつづきが読みたかった。

 テニスのほかに、父が幸弥に残してくれたものがもうひとつあった。通学かばんの奥に潜ませた、チェスタトン著、〈木曜の男〉の文庫本だ。
 世を憂う詩人が、世界の破滅を目論む無政府主義者の組織に孤独な戦いを挑む物語だ。すぐに読み終わってしまいそうな、ごく薄い本ではあるれど、中学生の幸弥にはまだ内容が難しかった。
 それこそ一文ごとに、幸弥は立ち止まり、それが何を意味するのか、深く思いを巡らせた。

 それは幸弥にとって、かけがえのない、亡き父との対話の時間だった。
 
「おはよう」
 後ろから声をかけられ振り向くと、顧問の斉藤先生の笑顔があった。
(ほかのヤツらぁもおるに、なんでいつも俺ばっかりかまうがや……)
 周囲の目を気にしながらも、幸弥はぼそぼそと挨拶を返した。

 中学生になり、念願のテニス部に入ると、幸弥はたちまち注目されるようになった。
 自分の存在を、ようやく認めてもらえた気がした。
 家には相変わらず居場所がなかった。母はたてつづけに義父の子を産み、狭いアパートの部屋は幼い子どもたちの喧騒であふれていた。それに加えて、義父の視線も気になりだした。ふと気がつくと、淀んだ目でじっとこちらを見ているのだ。なんだか気味が悪かった。

 ある日、熱を出した幸弥は学校を休んだ。薬を飲んで寝ていると、海が時化(しけ)て漁に出られなかった義父が早めの帰宅をした。母はパートに出ていて、家には幸弥と義父のふたりだけだった。義父がふすまを開ける気配がした。酒の匂いが、ぷんと鼻を突いた。口をききたくなかった幸弥は、寝たふりをしていた。なかなか出ていこうとしない義父に、苛立ちを感じ始めたとき、いきなり布団を剥がされた。熱で火照った体を、急に冷たい空気にさらされて、たまらず猫のように体を丸めた。義父は幸弥の肩をつかんで乱暴に仰向けにさせ、覆いかぶさってきた。抵抗して暴れると、平手で顔を打たれた。義父の下腹部を思い切り蹴り上げて、ひるんだすきに裸足のまま部屋を飛び出した。一階の大叔母の部屋に飛びこみ、玄関の鍵をかけた。体中がぶるぶる震えていた。

 事情を知った母は、幸弥を抱きしめて泣いた。
 泣きながら、幸弥に「許して」と繰り返した。
 幼子を三人も抱えた母が、容易に離婚できないことはわかっていた。
 わかっていても悲しかった。
 母にかける言葉が見つからないまま、幸弥は黙って母に抱かれていた。

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登場人物紹介

明神樹(みょうじんたつき)


主人公。高知県西部の小さな集落にある荷緒小学校出身。おおらかで寛大な性格。共感力が高く、他者との境界線が曖昧なところがある。大人びて見られがちだが、実際は奥手で浮世離れした子供っぽい一面を持つ。

樋口誠(ひぐちまこと)


樹の親友。繊細で面倒見が良く、常に周りに気を配るタイプ。一見温厚そうだが、根は負けん気の強い情熱家。

水田幸弥(みずたゆきや)


南野中軟式庭球部員。小柄だが優秀な選手。幼少期の辛い体験によって、他人に上手く心を開くことができずにいる。その一方で、いったん心を許した相手はどこまでも信頼する素直な一面を持つ。

木戸佑介(きどゆうすけ)


樹の仲間。穏やかで誠実な平和主義者。気弱な性格のため、思うように実力を発揮できずにいる。

安岡堅悟(やすおかけんご)


樹の仲間。体格に恵まれており、仲間うちでは武闘派を自任している。デリカシーがなく、気の短いところもあるが、仲間思いで情に厚い。

間崎耕太郎(まさきこうたろう)


樹の仲間。天真爛漫なムードメーカー。小柄でフットワークが軽く、直感で行動するタイプ。堅悟とは凸凹コンビ。

間崎千代子(まさきちよこ)


耕太郎の姉。しっかり者で姉御肌な情報通。弟たちから頼りにされている。

土居要蔵(どいようぞう)


元西方ジャガーズの捕手。小学校時代に荷緒小チームに敗れたことで、樹をライバル視するようになる。

岡林文枝 (おかばやしふみえ)


西方中女子軟式テニス部の部長。問題意識が強く、まじめな努力家。目立つことと、粗暴な男子が苦手。

山形強(やまがたつよし)


通称〈がた爺〉。西方中軟式テニス部顧問。体罰も辞さないスパルタ教師。テニスの知識も経験も皆無だが、教え子には常に目を光らせている。

沖広義(おきひろよし)


西方中テニス部員。誠のペア。元はバレー部に所属していたが、芽が出ずテニス部に移った。義理堅くまっすぐな性格。

山中淳一(やまなかじゅんいち)


西方中軟式テニス部員。樹の先輩であり頼れるペア。スマートな言動とは裏腹な激情家。

大﨑正則(おおさきまさのり)


南野中軟式庭球部員。幸弥の先輩でありペア。幸弥にとっては部内で唯一心を許せる存在。小心者で不器用だが愛情深く、信念を貫くタイプ。

徳弘大河(とくひろたいが)


南野中軟式庭球部員。大﨑の引退後、幸弥とペアを組む。こだわりが強く、マイペース。万事において納得いくまで追求するタイプ。他人の気持ちを察するのは苦手だが、裏表のない真っ正直な性格。

杉本香(すぎもとかおる)


西方中の不良少女。戯れに樹を誘惑する。

金四郎(きんしろう)


山に捨てられていたのを、誠に拾われた。賢く、忠義心にあふれた日本犬系の雑種。

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