第1話 海

文字数 1,041文字

 ほとんど地元民しか知らない、小さな海水浴場に隣接された駐車場の隅に、明神樹(みょうじんたつき)は自転車を停めた。

 灰白色の砂が陽光を乱反射して、眩しさに思わず目を細める。樹の暮らす、山々に囲まれた集落とは、光の強さがまるで違う気がした。

 砂浜から海へ伸びた堤防が、波打ち際で内側に折れ曲がり、やはり内側へ向かって斜めに伸びる、左手の堤防と合わせて、カタカナのハの字を作っていた。
 砂浜からつづく方の堤防に上り、海に向かってゆっくりと歩く。
 潮風が髪を撫で、汗に濡れたシャツをはためかせた。
 雲ひとつない紺碧の空の下に、群青色の海が、さざ波を輝かせながら揺れている。海面に近づくにつれて、色あせるように透けてゆく空が、海とのあいだに一本の線を描く。

 この海をどこまでも泳いでゆけば、空と海が出会う場所にたどりつける。

 幼いころの樹は、本気でそう信じていた。

——1999年になったらにゃあ、〈恐怖の大王〉がやってきて、世界は滅んでしまうがやと。
 
 夕べ、風呂から上がった樹に、居間でテレビを観ていた兄の(うしお)がいきなり言った。
「そうながや」
 濡れた髪をタオルでこすりながら、樹は相づちを打った。
「それだけか?」潮はあきれたように首を振った。「お(まん)もまだガキやにゃあ。ことの重大さが、まるでわかっちょらん」

 ことの重大さどころか、樹には何ひとつ理解できなかった。

 そもそも、〈恐怖の大王〉とは何だ? 「人類が滅ぶ」ならわかるけれど、「世界が滅ぶ」とはどういうことだ? 地球が、それとも宇宙そのものが、無くなってしまうのだろうか?

——命あるものは、必ず死ぬ。

 誰かがそう言っていた。

 海も空も、この世に存在するものはすべて、いつか消えて無くなるとしたら、それらはみんな、〈命あるもの〉なのだろうか?

 とりとめのない想像を巡らせながら、足元の海を見つめる。
 波が堤防を這うように登ってくる。やがて行き止まり、来た道を戻るように、ゆっくりと水位を下げてゆく。
 まるで脈打つ心臓のように、延々と繰り返される海面の隆起を見ていると、海が本当に生きているように思えてくる。
 胸のなかに、何かが生まれた。それはどんどん膨らんで、このままでは破裂してしまう気がした。

 吐き出すように、海へ向かって、わぁっと大声で叫んだ。

 1999年になれば、樹は三十歳だ。〈恐怖の大王〉とやらのことは、おとなになってから考えればいい。そんな気の遠くなるほど先のことよりも、まさにいま現在、向き合わなければならない課題が、目前に迫っているのだ。



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登場人物紹介

明神樹(みょうじんたつき)


主人公。高知県西部の小さな集落にある荷緒小学校出身。おおらかで寛大な性格。共感力が高く、他者との境界線が曖昧なところがある。大人びて見られがちだが、実際は奥手で浮世離れした子供っぽい一面を持つ。

樋口誠(ひぐちまこと)


樹の親友。繊細で面倒見が良く、常に周りに気を配るタイプ。一見温厚そうだが、根は負けん気の強い情熱家。

水田幸弥(みずたゆきや)


南野中軟式庭球部員。小柄だが優秀な選手。幼少期の辛い体験によって、他人に上手く心を開くことができずにいる。その一方で、いったん心を許した相手はどこまでも信頼する素直な一面を持つ。

木戸佑介(きどゆうすけ)


樹の仲間。穏やかで誠実な平和主義者。気弱な性格のため、思うように実力を発揮できずにいる。

安岡堅悟(やすおかけんご)


樹の仲間。体格に恵まれており、仲間うちでは武闘派を自任している。デリカシーがなく、気の短いところもあるが、仲間思いで情に厚い。

間崎耕太郎(まさきこうたろう)


樹の仲間。天真爛漫なムードメーカー。小柄でフットワークが軽く、直感で行動するタイプ。堅悟とは凸凹コンビ。

間崎千代子(まさきちよこ)


耕太郎の姉。しっかり者で姉御肌な情報通。弟たちから頼りにされている。

土居要蔵(どいようぞう)


元西方ジャガーズの捕手。小学校時代に荷緒小チームに敗れたことで、樹をライバル視するようになる。

岡林文枝 (おかばやしふみえ)


西方中女子軟式テニス部の部長。問題意識が強く、まじめな努力家。目立つことと、粗暴な男子が苦手。

山形強(やまがたつよし)


通称〈がた爺〉。西方中軟式テニス部顧問。体罰も辞さないスパルタ教師。テニスの知識も経験も皆無だが、教え子には常に目を光らせている。

沖広義(おきひろよし)


西方中テニス部員。誠のペア。元はバレー部に所属していたが、芽が出ずテニス部に移った。義理堅くまっすぐな性格。

山中淳一(やまなかじゅんいち)


西方中軟式テニス部員。樹の先輩であり頼れるペア。スマートな言動とは裏腹な激情家。

大﨑正則(おおさきまさのり)


南野中軟式庭球部員。幸弥の先輩でありペア。幸弥にとっては部内で唯一心を許せる存在。小心者で不器用だが愛情深く、信念を貫くタイプ。

徳弘大河(とくひろたいが)


南野中軟式庭球部員。大﨑の引退後、幸弥とペアを組む。こだわりが強く、マイペース。万事において納得いくまで追求するタイプ。他人の気持ちを察するのは苦手だが、裏表のない真っ正直な性格。

杉本香(すぎもとかおる)


西方中の不良少女。戯れに樹を誘惑する。

金四郎(きんしろう)


山に捨てられていたのを、誠に拾われた。賢く、忠義心にあふれた日本犬系の雑種。

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