第2話 梨

文字数 1,988文字

 誰かに呼ばれた気がして、樹は振り返った。国道から樹に向かって、大きく手を振る人の姿が見える。豆粒ほどの大きさしかなくても、それが親友の樋口誠だとわかった。

 海岸へ降りるには階段もあったが、自転車に乗っていた誠は国道を横断し、大きく回り込むようにして、海岸へつづく脇道を勢いよく下ってきた。

「やっぱりここにおったがか?」
 樹の自転車のすぐ脇に自分も停めながら、誠が大声をあげた。前かごから何か取り出すと、砂浜に足を取られながら走り寄ってくる。
「お前も上がってこいや」
 樹が声をかけると、誠は返事代わりに塞がった両手を挙げてみせた。
新高(にいたか)じゃ」両手にひとつずつ握った梨を見せ、誇らしげに笑う。「売り物にならんがを、親父が(もろ)うてきたがよ。形は悪いけんど、味は変わらんろう」

 砂浜に戻ってきた樹に、ひとつ放ってよこしながら、誠は非難がましく言った。
「差し入れちゃお思うて学校まで行ったに、誰っちゃあおらん。無駄足やったで」
「がた(じい)が帰りよったけん、部長が解散やち()うたがや」
 樹は梨に齧りつく。無造作に自転車の前かごに放りこみ、石ころだらけの道を飛ばしてきたのだろう。あちこち傷ついて果汁が滲みでていたが、ソフトボール大の梨は甘く瑞々しく、樹の乾いたのどを潤してくれた。

「がた爺なんぞ、おってもおらんでも変わらんろう。ヤツはど素人ぞ。ルールもろくに知らんがやけん」
「なんも知らんくせに、いらん口出しよるけん厄介ながや。部長に、『俺がおらんじゃち素振り百回やっちょけ』言うて帰りよったが。試合前に肘でも壊したらどうするが言うて、三年の先輩らぁえらい怒っちょったで」
「戦前生まれはどもならんちや。ケガらぁ気合で治る思うちょるけんにゃあ」

 制服が汚れるのも気にせず、樹たちは砂浜に並んで腰をおろした。
 二学期が始まって半月になる、よく晴れた土曜日の午後。日差しは容赦なくふたりを照らしたが、海からの風は暑さの盛りが過ぎたことを告げていた。
 潮の香りが梨の甘味を引き立たせ、心地よい沈黙のなか、ふたりが梨を咀嚼する音が、砂浜に打ち寄せる波音と重なり合う。

 明日は樹にとって初の県大会となる、高知県中学軟庭秋季大会だ。本来なら今ごろは、試合に出場する選手のみで、強化練習が行われているはずだった。
 しかし、創部以来、競技経験者が部内にいた(ためし)のない西方(にしがた)中軟式テニス部では、強化練習など有名無実であった。通常の練習にしたところで、代々引き継がれてきた効果のほども怪しげなメニューをこなすばかりだ。
 本業は社会科教師の、部員からは〈がた爺〉で通っている顧問の山形にとって、部活動とはスポーツを通じて生徒の精神力を鍛える名目にほかならず、昭和の日本に於いてはごく一般的だった、根性論に基づくスパルタ教育をモットーとしていた。軟式テニスという、当時はメジャーと言い難い競技について、知識も経験もないことなど、山形には指導上なんら問題なかった。

「明日のこと、考えよったがか?」
 手の甲で口元を拭いながら、誠が尋ねる。
 何の気なしに言ったのだろうが、樹はなんだが責められているような気分になった。
「海を見よったら、なんや、力が湧いてきよるけんにゃあ。俺も、デカいことやる前には、海が見とうなるがよ」
 樹が答えないので、誠はひとりで話しつづけた。
「やけん、お前もきっと、ここにおる思うたがや……」

「俺ぁ別に、楽しみにしよるわけやないで」
 つい、険のある言い方になった。いけないと思いつつ、ため込んでいた不満があふれてくる。
「正直言うたら、試合らぁ出とうないが!」
「そんなこと言いなや。せっかく選ばれたに」
 誠が悲しそうに顔を曇らせる。
「お前はにゃあ、言うたら、俺らぁ一年の代表ながやぞ」

 明日の大会では学年別に試合が行われるのだが、がた爺の意向で、西方中からは二年生と三年生のみ出場となっている。
 軟式テニスの試合はダブルスが基本で、通常は同じ学年同士が組むのだが、西方中では二年生がひとりあぶれていた。一年部員からペアを選出することになったとき、樹は誠がふさわしいと思った。根がまじめで練習熱心なうえ、穏やかな外見によらず、人一倍負けず嫌いで向上心が強いことを、よく知っていたからだ。
 しかし、選ばれたのは樹だった。一年生のなかで、一番体が大きかったせいかもしれない。
 なんだか申し訳ないような、恥ずかしいような気分だった。

 前向きな気持ちになれない理由は、それだけではない。

「俺はテニスらぁ好かん」
 芯だけになった梨を、樹は海へ向かって投げた。
 梨の芯は弧を描くようにして、ゆっくりと宙を舞い、海のなかへ消えていった。
 樹はおもむろに立ち上がり、梨の汁で汚れた手を波打ち際で洗った。
 自分の振る舞いが、まるで拗ねた子どものようだと思った。
 それでも、誠だけには、自分の本当の気持ちを知っていてほしかった。
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登場人物紹介

明神樹(みょうじんたつき)


主人公。高知県西部の小さな集落にある荷緒小学校出身。おおらかで寛大な性格。共感力が高く、他者との境界線が曖昧なところがある。大人びて見られがちだが、実際は奥手で浮世離れした子供っぽい一面を持つ。

樋口誠(ひぐちまこと)


樹の親友。繊細で面倒見が良く、常に周りに気を配るタイプ。一見温厚そうだが、根は負けん気の強い情熱家。

水田幸弥(みずたゆきや)


南野中軟式庭球部員。小柄だが優秀な選手。幼少期の辛い体験によって、他人に上手く心を開くことができずにいる。その一方で、いったん心を許した相手はどこまでも信頼する素直な一面を持つ。

木戸佑介(きどゆうすけ)


樹の仲間。穏やかで誠実な平和主義者。気弱な性格のため、思うように実力を発揮できずにいる。

安岡堅悟(やすおかけんご)


樹の仲間。体格に恵まれており、仲間うちでは武闘派を自任している。デリカシーがなく、気の短いところもあるが、仲間思いで情に厚い。

間崎耕太郎(まさきこうたろう)


樹の仲間。天真爛漫なムードメーカー。小柄でフットワークが軽く、直感で行動するタイプ。堅悟とは凸凹コンビ。

間崎千代子(まさきちよこ)


耕太郎の姉。しっかり者で姉御肌な情報通。弟たちから頼りにされている。

土居要蔵(どいようぞう)


元西方ジャガーズの捕手。小学校時代に荷緒小チームに敗れたことで、樹をライバル視するようになる。

岡林文枝 (おかばやしふみえ)


西方中女子軟式テニス部の部長。問題意識が強く、まじめな努力家。目立つことと、粗暴な男子が苦手。

山形強(やまがたつよし)


通称〈がた爺〉。西方中軟式テニス部顧問。体罰も辞さないスパルタ教師。テニスの知識も経験も皆無だが、教え子には常に目を光らせている。

沖広義(おきひろよし)


西方中テニス部員。誠のペア。元はバレー部に所属していたが、芽が出ずテニス部に移った。義理堅くまっすぐな性格。

山中淳一(やまなかじゅんいち)


西方中軟式テニス部員。樹の先輩であり頼れるペア。スマートな言動とは裏腹な激情家。

大﨑正則(おおさきまさのり)


南野中軟式庭球部員。幸弥の先輩でありペア。幸弥にとっては部内で唯一心を許せる存在。小心者で不器用だが愛情深く、信念を貫くタイプ。

徳弘大河(とくひろたいが)


南野中軟式庭球部員。大﨑の引退後、幸弥とペアを組む。こだわりが強く、マイペース。万事において納得いくまで追求するタイプ。他人の気持ちを察するのは苦手だが、裏表のない真っ正直な性格。

杉本香(すぎもとかおる)


西方中の不良少女。戯れに樹を誘惑する。

金四郎(きんしろう)


山に捨てられていたのを、誠に拾われた。賢く、忠義心にあふれた日本犬系の雑種。

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