第105話 胸のうち
文字数 1,083文字
遠方に住む娘一家がはるばる訪ねてくると聞いた祖母の昌子は、ごちそうだけでなく、冷えたビールや日本酒も当然のように用意していた。
腹を満たした樹は、酒を酌み交わす保たちを置いて残りの高校を見に出かけた。
正直なところ、樹はホッとしていた。
道行く人々に学校の評判を聞いて回る保を見ていると、いたたまれない気持ちになってくるのだ。
道案内を買って出た敏郎は、変速ギア付きの愛車を気前よく樹に貸し与え、自分は油切れしてこぐたびにキイキイと嫌な音をたてる
「まずは俺の母校の工業へ連れてっちゃお。目と鼻の先ぞ」
威勢よく自転車をこぎだす敏郎のあとを、樹は黙ってついてゆく。
「今はまだ俺の後輩もおるがやけんど、お前が入学するころには、誰もおらんなるねや」
樹より五つ
「潮も、こっちの学校へ来りゃあえいに。ふたりが来よったら、毎日が正月ばぁ賑やかになるでぇ」
樹のまぶたに、祖父母や伯父の楽しげな様子が浮かんでくる。
皆をだましているような、心苦しい気分が、ふたたび樹を襲う。
ふと気づいたときには、本音が漏れていた。
「俺、まだ、こっちに来るち、決めちょらんがで。自分でも…ようわからんなってしもうたが」
敏郎が樹を振り返る。
「硬式テニス部がやりたい言うちょったがやないがか?」
「そんながぁ、ただの言い訳ちや」
いったん胸のうちをひらいてしまったら、もう抑えがきかなかった。
幸弥の美しい切れ長の目が、月の光を想わせる瞳が、樹をとらえて離さない。
「ほんまは…ほんま言うたらにゃあ…俺ぁ、会いたいヤツがおるが……」
口に出したとたん、重い荷物をおろしたように、少しだけ、心が軽くなった気がした。
敏郎が、ふいに自転車を停めた。
「会いたいヤツち、女か?」
探るように、樹の顔をのぞき込んでくる。
樹の身体に緊張が走り、とっさに口をつぐむ。
勝手に解釈したらしい敏郎は、目尻を下げて笑った。
「隠さんじゃち、えいで。お前もそういう年頃になったちうこっちゃ。ほんで、その子は市内の子なが? どこで会うたがや?」
「部活の、県大会で、会うたが……」
樹は慎重に答える。
確信に触れることは言うまいと思った。それでも、決して、嘘はついていない。
「それで納得いったわえ。野球バカやったお前が、硬式テニスがやりたいじゃち、おかしい思うちょったがよ」
敏郎のことばに、樹はひそかに安堵の息をついた。