第50話 奇跡

文字数 1,227文字

 「っシャア‼」

 2ゲーム目をもぎ取り、リーチのかかった敵陣が沸き立つ。

 サービス権が相手側に移った次のゲームを、樹・山中ペアが奪える可能性は限りなくゼロに近い。

 視線を感じて顔をあげると、山中がこちらを見ていた。
 目が合った瞬間、山中の口元に寂しげな笑みが浮かぶ。
 樹は山中もとへ走り、その手を握りしめた。
 ハッとするほど強い力で、山中は樹の手を握り返した。

 体を鞭のようにしならせて、小松が放ったサービスを、樹は慎重に返球する。
 相手コート深くロブを打ちこみながら、ひたすらに好機が訪れるのを待った。
 ここからの逆転勝利など、奇跡でも起こらないかぎり、ありえない。
 しかし、ときに奇跡は起こるのだということを、樹は知っていた。
 ネットぎわでは、山中が公文の動きをまねたモーションをつづけている。
「往生際の悪いヤツら」と嗤われようとも、勝負を投げるわけにはいかなかった。

 クロスのロブを打ちつづけていた小松が、いきなりストレートのシュートを放つ。
 ボールは山中を直撃し、跳ね返ったところを、公文がさらに叩き込む。
 鮮やかなボレーは山中のサイドを抜けていった。

「後衛のヤツらぁが打ち合うちゅうに、勝手にちょろちょろ動き回りゆうき、そうならぁよ」

「遊んじょらんと、ちゃんとボール見ちょらなぁ、いかんでぇ」

 試合を観ていた連中が無責任なヤジを飛ばす。

「なんちゃあ知らんくせしよって、いらんこと言うな!」

 鋭い一声で彼らを黙らせたのは、公文だった。

 次のレシーバーである山中が、ベースラインまで下がる。
 果敢に小松のサービスを打ち返し、公文のアタックに備えて前へダッシュした山中の足が、ふいに止まる。
 ネットに当たって真下に落ちたボールが、むなしく転がっていた。

 2ゲームを先取され、現在のポイントは0-2。
 それでもまだ、終わってはいない。

 樹はロブを返しつづける。
 風が出てきた。向かい風だ。
 軟式の軽いボールは風に弱い。
 ラケットを打ち下ろす腕に、より力を籠める。
 風はどんどん強くなり、樹の打球が押し戻される。
 腕だけでなく、体全部を使い、力いっぱいに、高く、遠くへと、ボールを打った。
 その直後、なんの前触れもなく、風がやんだ。
 樹の打球はラインを大きく越えた。

 ふたたび、山中がレシーバーとなった。
 小松のサービスを、山中は落ち着いて返球し、走った。
 公文が伸びあがる。
 長い腕の先で、ラケットがボールを叩く。
 ラケットを突き出し、山中は頭からすべり込む。
 土煙が立ち、山中を包んだ。
 ボールは弾みながら転がってゆく。
 公文が走り寄ってきて、山中を助け起こした。
 公文は山中の肩を抱き、ときおり揺さぶりながら、しきりに何か言っている。
 山中は、ただ、うなずいていた。

 審判が小松・公文ペアの勝利をコールする。
 ネットをはさんで向き合ったまま、互いに礼をした。
 小松が手を差し出す。
 豆だらけでごつごつした分厚い手が、樹の手をぎゅっと握りしめた。
 
 
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登場人物紹介

明神樹(みょうじんたつき)


主人公。高知県西部の小さな集落にある荷緒小学校出身。おおらかで寛大な性格。共感力が高く、他者との境界線が曖昧なところがある。大人びて見られがちだが、実際は奥手で浮世離れした子供っぽい一面を持つ。

樋口誠(ひぐちまこと)


樹の親友。繊細で面倒見が良く、常に周りに気を配るタイプ。一見温厚そうだが、根は負けん気の強い情熱家。

水田幸弥(みずたゆきや)


南野中軟式庭球部員。小柄だが優秀な選手。幼少期の辛い体験によって、他人に上手く心を開くことができずにいる。その一方で、いったん心を許した相手はどこまでも信頼する素直な一面を持つ。

木戸佑介(きどゆうすけ)


樹の仲間。穏やかで誠実な平和主義者。気弱な性格のため、思うように実力を発揮できずにいる。

安岡堅悟(やすおかけんご)


樹の仲間。体格に恵まれており、仲間うちでは武闘派を自任している。デリカシーがなく、気の短いところもあるが、仲間思いで情に厚い。

間崎耕太郎(まさきこうたろう)


樹の仲間。天真爛漫なムードメーカー。小柄でフットワークが軽く、直感で行動するタイプ。堅悟とは凸凹コンビ。

間崎千代子(まさきちよこ)


耕太郎の姉。しっかり者で姉御肌な情報通。弟たちから頼りにされている。

土居要蔵(どいようぞう)


元西方ジャガーズの捕手。小学校時代に荷緒小チームに敗れたことで、樹をライバル視するようになる。

岡林文枝 (おかばやしふみえ)


西方中女子軟式テニス部の部長。問題意識が強く、まじめな努力家。目立つことと、粗暴な男子が苦手。

山形強(やまがたつよし)


通称〈がた爺〉。西方中軟式テニス部顧問。体罰も辞さないスパルタ教師。テニスの知識も経験も皆無だが、教え子には常に目を光らせている。

沖広義(おきひろよし)


西方中テニス部員。誠のペア。元はバレー部に所属していたが、芽が出ずテニス部に移った。義理堅くまっすぐな性格。

山中淳一(やまなかじゅんいち)


西方中軟式テニス部員。樹の先輩であり頼れるペア。スマートな言動とは裏腹な激情家。

大﨑正則(おおさきまさのり)


南野中軟式庭球部員。幸弥の先輩でありペア。幸弥にとっては部内で唯一心を許せる存在。小心者で不器用だが愛情深く、信念を貫くタイプ。

徳弘大河(とくひろたいが)


南野中軟式庭球部員。大﨑の引退後、幸弥とペアを組む。こだわりが強く、マイペース。万事において納得いくまで追求するタイプ。他人の気持ちを察するのは苦手だが、裏表のない真っ正直な性格。

杉本香(すぎもとかおる)


西方中の不良少女。戯れに樹を誘惑する。

金四郎(きんしろう)


山に捨てられていたのを、誠に拾われた。賢く、忠義心にあふれた日本犬系の雑種。

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