第9話 テニスか、野球か
文字数 1,441文字
「あいつらぁ、テニス部に入る言うがちや」
騒ぎを聞き、何ごとかと玄関まで出てきた保が、驚いて口を挟んだ。
「ほんでも、お前はテニスらぁやらんろう?」
「多数決やけん、仕方ないが」
「あほか! お前はもう中学生ぞ。周りに流されんと、自分のことは自分で決めぇや」
「そういうことやない!」
自分たちは五人でひとつだ。仲間と一緒に、野球をやりたかったのだ。
樹は目を大きく開けて、天井を見上げた。鼻の奥から、苦くてしょっぱい味が、口のなかいっぱいに広がってくる。
保の顔から赤みが引いて、目には気の毒そうな色が浮かんだ。大きく息をつくと、先ほどまでとは違う、静かな口調で語りかけた。
「わしも長いこと野球をやっちょったけん、わかるがや。お前はなかなか筋がえい。ものになるかもしれん。今やめるがは惜しいちや」
思いもかけない言葉だった。
樹のまぶたに、西方中のグラウンドが映る。キャッチャーの装具を身につけた樹が、歓声のなか、仲間と共にグラウンドへ飛び出してゆく。
「親父は甘いちや」
潮の声が、樹を白昼夢から呼び戻す。
「樹、
いつになく真剣なまなざしで、潮は樹を見据えている。
樹は小学校に入学したころを思い出した。
当時六年生だった片岡が、まるで魔法のように自由自在にボールを扱うのを、樹は飽きもせずに眺めていたものだった。
潮は淡々と語りつづけた。
野球が盛んな西方高は、近隣から野球好きが集まってくる。自分も野球をやりたい一心で入学したが、正直言えば後悔している。強豪校とはいえ、三年間球拾いでは意味がない。無名の高校でもいいから、レギュラーとして活躍できる道を選ぶべきだった。
——西方中にキャッチャーはひとり居りゃえい
土居の言葉が、樹の耳の奥でこだまする。
「テニス部は、案外えいかもしれんで。俺の周りでテニスやるヤツはおらん。それだけチャンスがあるちゅうこっちゃ」
潮の声は、確信に満ちているように思えた。
保は必死に異を唱えたが、それにかぶせるようにして、潮が放った最後の言葉が、樹の心を突き刺した。
「やるからには頂点を目指す。それでこそ男ぞ!」
燃え立つような西日を浴びた西方球場が樹の胸に浮かぶ。
それはまばゆい輝きを放ちながら、いつまでも消えなかった。
「おい、明神!」
血相を変えた土居が、教室の扉を乱暴に開けて樹の名を呼んだのは、樹が入部届を出した翌日だった。
賑やかに談笑していた級友たちが、いっせいに土居を見た。
まっしぐらに樹へと向かってくる土居の足音が、静まり返った教室に響く。
「お前、テニス部に入ったち、本当か?」
土居ならきっとわかってくれる。そう信じて、樹は事情を説明した。だがどれほど言葉を尽くしても、土居は射るようなまなざしを向けたまま、何も言わない。
気まずい沈黙のあと、土居の目に、すっと蔑みの色が浮かんだ。
「その程度の男やったがか……」
ぽつりとつぶやくと、興味を失ったように離れていった。
不穏だった周囲の空気が、ようやく安堵に変わる。ふたたび活気に包まれた教室のなかで、樹はひとり、漠とした不安に襲われていた。