第42話 濁り水

文字数 1,235文字

 樹の家の田んぼが済むと、休む間もなくつづら折りの坂道を奥へ奥へと進み、誠の家の田んぼへ向かった。
 ここまで来ると民家は一軒もない。鬱蒼(うっそう)と茂る木々に(おお)われた小道を歩くふたりの耳に届くのは、沢のせせらぎと鳥のさえずりだけ。ほんの先刻まで土砂降りのように降り注いでいた蝉の声は、耳が慣れてしまったとみえて、もう意識することもなかった。
 苦労して山道を登ってはきたものの、誠の言った通り、田んぼの稲は少し傾げただけで水に浸かったものはなく、なんだか拍子抜けした気分だった。

「急いで帰ったち、別の用事を言いつけられるだけや。ちっくと休んでいこう」

 誠はそう言うと、田んぼの奥にある沢に向かって歩きだした。
 誠と並んで沢のふちに腰かけた樹は、汗で濡れた靴下が貼りつく長靴を脱ごうと格闘した。裸足の方がよほど楽だと思うが、危ないからと父が許してくれないのだ。ようやく解放された両足は、長湯したあとのようにむくんでいる。沢の水で冷やしたいけれど、汚れた水につけるのはためらわれた。

「たまにはこういうがも、えいモンやにゃあ」

 小さな濁流と化した沢を眺めながら、誠がつぶやく。

「あんまり綺麗すぎるがは、なんや嘘くさい気がするでにゃあ」

 誠の言わんとすることが呑み込めない樹は、不思議な気持ちで誠を見た。

「水じゃち、たまには泥にまみれてみとうなるがやないか……」

 そう言ったきり、誠は黙ってしまった。

 足元では、折れた木の枝に道をふさがれた黄土色の水が、ごぼごぼと嫌な音をたててあふれだしている。
 普段、この沢は水量も少なく、幼いころにはサワガニを取ったりして遊んだものだった。
 清らかに透き通る沢の水を思い描いたとき、ふと、純白の百合が樹の胸に浮かんだ。

——無垢なるもの

 あまりに気恥ずかしくて、口に出したことはないけれど、〈恋〉とはそういうものだと、樹は信じていた。

 男の先輩と楽しげに話をしていた。
 ただそれだけの理由で、誠はなぜ、一途に想いつづけた女を〈盛りのついた雌猫〉などと切り捨ててしまうのだろう?
 
 かつて〈恋心〉と呼べるような感情を抱いた、唯一の存在である保育所の先生を、樹は思い出そうとする。しかし、もはや顔かたちすらはっきりとしない。ただ、彼女がまとっていた空気のようなものが、白い百合の花となって、まぶたに浮かぶのみだった。

ーー綺麗すぎるがは嘘くさい

 先ほどの誠のことばが、ふいに胸をよぎる。
 その瞬間、樹のうちに何かが生まれた。
 真っ白なキャンパスに深紅の絵の具をぶちまけたように、熱く、切なく、心をかき乱す。
 理性など粉々に吹き飛ばしてしまうほどの、制御不能な激しさを秘めた想いーー

 まぶたの裏で、白百合がしおれてゆく。
 入れ替わりに、冷え冷えとした輝きを放つ満月が、くっきりと浮かび上がった。

「そろそろ()ぬるか。親父らぁに()かれるけんにゃあ」

 誠に呼びかけられて、我に返った樹は顔をあげる。
 木々の隙間から差し込む夏の日差しが、誠の横顔に濃い陰影を作っていた。

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登場人物紹介

明神樹(みょうじんたつき)


主人公。高知県西部の小さな集落にある荷緒小学校出身。おおらかで寛大な性格。共感力が高く、他者との境界線が曖昧なところがある。大人びて見られがちだが、実際は奥手で浮世離れした子供っぽい一面を持つ。

樋口誠(ひぐちまこと)


樹の親友。繊細で面倒見が良く、常に周りに気を配るタイプ。一見温厚そうだが、根は負けん気の強い情熱家。

水田幸弥(みずたゆきや)


南野中軟式庭球部員。小柄だが優秀な選手。幼少期の辛い体験によって、他人に上手く心を開くことができずにいる。その一方で、いったん心を許した相手はどこまでも信頼する素直な一面を持つ。

木戸佑介(きどゆうすけ)


樹の仲間。穏やかで誠実な平和主義者。気弱な性格のため、思うように実力を発揮できずにいる。

安岡堅悟(やすおかけんご)


樹の仲間。体格に恵まれており、仲間うちでは武闘派を自任している。デリカシーがなく、気の短いところもあるが、仲間思いで情に厚い。

間崎耕太郎(まさきこうたろう)


樹の仲間。天真爛漫なムードメーカー。小柄でフットワークが軽く、直感で行動するタイプ。堅悟とは凸凹コンビ。

間崎千代子(まさきちよこ)


耕太郎の姉。しっかり者で姉御肌な情報通。弟たちから頼りにされている。

土居要蔵(どいようぞう)


元西方ジャガーズの捕手。小学校時代に荷緒小チームに敗れたことで、樹をライバル視するようになる。

岡林文枝 (おかばやしふみえ)


西方中女子軟式テニス部の部長。問題意識が強く、まじめな努力家。目立つことと、粗暴な男子が苦手。

山形強(やまがたつよし)


通称〈がた爺〉。西方中軟式テニス部顧問。体罰も辞さないスパルタ教師。テニスの知識も経験も皆無だが、教え子には常に目を光らせている。

沖広義(おきひろよし)


西方中テニス部員。誠のペア。元はバレー部に所属していたが、芽が出ずテニス部に移った。義理堅くまっすぐな性格。

山中淳一(やまなかじゅんいち)


西方中軟式テニス部員。樹の先輩であり頼れるペア。スマートな言動とは裏腹な激情家。

大﨑正則(おおさきまさのり)


南野中軟式庭球部員。幸弥の先輩でありペア。幸弥にとっては部内で唯一心を許せる存在。小心者で不器用だが愛情深く、信念を貫くタイプ。

徳弘大河(とくひろたいが)


南野中軟式庭球部員。大﨑の引退後、幸弥とペアを組む。こだわりが強く、マイペース。万事において納得いくまで追求するタイプ。他人の気持ちを察するのは苦手だが、裏表のない真っ正直な性格。

杉本香(すぎもとかおる)


西方中の不良少女。戯れに樹を誘惑する。

金四郎(きんしろう)


山に捨てられていたのを、誠に拾われた。賢く、忠義心にあふれた日本犬系の雑種。

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