第6話 令和三十年七月。大阪。⑤

文字数 1,434文字

着物をたたみ終えた吉田がリビングへとやってくる
「あぁ、吉田くん、あなたもこっちに良かったら座ってください。」
吉田は、この場面では遠慮した方が良いのかと思案しつつ先ほど師匠の言った「君もリビングでお茶いただいたら良い」という言葉があったので、空いている椅子に腰掛けた。荒川は吉田の分のお茶を湯飲みに注ぎながら
「吉田くんはどうして、落語家になろうと思ったの?」と問う。
「あ、ホンマやな。それ聞いてなかったわ。」と曽呂利新左衛門が続ける。
吉田はこの回答如何で見習いのまま弟子にしてもらえることもなく辞めさせれらかもしれないと迷いつつ正直に答えた。
「大学は中国に留学していたんですが、人間関係に悩んでて、そこで師匠のVRを見て、世の中にこんな面白い人がいるのかって。それで、この人の弟子になりたいなって思いました。」
「VRきっかけかいな!?呼吸に感動せんかい!」曽呂利新左衛門は新しいタイプの弟子入りの動機を楽しんでいるようだ。
「はい。VRで鑑賞させていただいて、実際見たらどんなに素晴らしいだろうと思って、翌日、師匠が公演されるという情報を知って、飛行機で福岡に向かいました。」
「ほな、僕の落語最初、福岡で聞いたんか?」
「はい。落語のフェスのようなイベントで、そのあとも色んな落語家を聞いたんですが、あんまり感動しなくて。」少し迷ったが正直に言う。三代目曽呂利新左衛門も荒川も愉快そうに聞いている。
「ははは、面白いこと言うね。新左衛門師匠、吉田くんは弟子にとるんですか?」
「いや、正直迷てるんですわ。落語家なんかあってもなくてもええ商売でしょ。米一粒作れる訳やなし。中国に留学て、北京大学出てる言いますねん。こんなもん、落語家にしたら大損害でしょ。」
「師匠は厳しいですからね。なんやかんやと理由をつけて、見習いのうちに辞めさせて、弟子はお取りにならないですからね。あってもなくてもいい商売だなんて全く思ってもない癖に。」
「いやいや、ホンマにおもてます。それぐらいの気ぃでちょうどええんですわ。あってもなくてもええ商売にお金つこてもろてるとおもたら、自然に感謝の気持ちが湧いて来るんですわ。これが、崇高な芸術をしてると勘違いすると、アカンのです。」
「そういうもんですか。私はそんな師匠の芸はどんな芸術よりも素晴らしいと思いますけどね。」
「ありがとうございます。照れますわ。」
「ねぇ、吉田くん。アナタもそう思いませんか?」
吉田は返答に困る。この二週間、師匠が黒だと言えば白いものでも黒だと、口酸っぱく教えられた。曽呂利新左衛門は「あってもなくても良い仕事」だという。師匠の意見に従うと「あってもなくても良い仕事」である。
かといって「あってもなくても良い仕事」と本当に思っているのか?
「おお!それ僕も聞きたいですわ。どや?落語家いうのは、あってもなくてもええ仕事か?どない思う?」
吉田はさらに返答に窮する。

「未だ、落語家の業務内容を的確に把握しておりませんので、二、三日お時間いただけますでしょうか?」

曽呂利新左衛門が「真面目か。」と思わずツッコむ。
「こいつ真面目すぎるんですよ。落語家に向いてませんわ。」と笑いながら一蹴し「せやけど、二、三日経ったら回答してくれるんやな。楽しみやわ。あ、質問変えるわ。」

曽呂利新左衛門は戯けたようなふりをしながら
「落語は社会生活の維持に必要か?」とエレベータ前で問うた質問をもう一度投げかけた。

「どうや?君みたいな賢い若い子はどない思うねん。」
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