第52話 令和三十年十二月 再び大阪 12

文字数 1,730文字

志水里香は高津神社にいた。
分刻みのスケジュールで生活をしてきた志水里香にとっては、中学生以来初めての自由だった。

目の前にいるのは吉田と名乗る落語家修行中の男だ。
あの曽呂利新左衛門の弟子だというが、師匠のようなスマートさは全くない。
さっきから、面白くもない蘊蓄ばかり語られている。
上方落語家というのだから、さぞ大阪の面白い所を案内してくれるのかと思っていたら、大村益次郎の死んだ所、井原西鶴の墓、近松門左衛門の墓と死亡関連の所ばかり。高津神社に連れてきたかと思うと、また蘊蓄ばかり。挙句の果てに「馬鹿」とまで言われた。
馬鹿はそちらの方である。

さっきから、私が落語家の鶴女だという嘘を疑わずに信じている。
名前は?と聞かれて、とっさにさっき放送局で聞いた落語「延陽伯」の中から「鶴女」と出ただけなのに、真実と信じている。

しかし、自分は馬鹿なのかもしれないとも思う。
子供の頃から周囲の大人は自分の機嫌をとってきた。欲しいものがあればすぐに手に入った。自由な時間以外は。
働いてさえいれば、言うことを聞かない他人はいなかったし、願いは叶えられた。
賞賛の声しか入ってこなかったが、陰ではなんと言われているのか不安でたまらなかった。
正真正銘の馬鹿であることは自分が一番知っていた。
いつの間にか、自分の人生は自分だけのものでなくなり、投げ出すに投げ出せないようになっている。

「うるさいわね。馬鹿に馬鹿って言って何が悪いのよ。」

志水里香はいつもの調子を取り戻す。
「大体、崇徳院を知らないってどういうこと?落語の勉強しに舞台袖で聞いてたんじゃないの?あっちいったりこっちいったりして全然あなた聞いてなかったじゃない。」
「それは、先輩の着物を畳んでいたからだよ。」
「先輩の着物を畳むために落語家になったの?」
「違うよ。」
「じゃあ、先輩の着物を畳むなんてこと放り出して舞台袖で落語を聞いていればいいじゃない。」
「そんなことできる訳ないじゃないか。」
「なんで?」
「全部が全部100パーセント自分の要求が通るなんてことあり得ないんだよ。君も本当は畳まなきゃいけないんだよ。なんで我々は舞台袖で落語を聞いてもいいかって考えたことがある?」
「ないわよ。舞台袖で聞いたの初めてだもん。」
「誰かの弟子だからだよ。落語家だからだよ。舞台袖から人が聞いてるなんて演者からしたら本当は気が散って仕方ないんだ。でも落語家の後輩だからっていう信用があるから聞かせてもらえるの。だから、舞台袖で聞かせてもらう以前に、後輩としての務めははたさなきゃ。」
「そんなめんどくさいことするなら、お金を払って前から見ればいいじゃない。」
「何言ってるんだよ。君も知っての通り、同業者は客席から見ることはできないじゃないか。」
「え?落語家は落語、客席から見られないの!??」素っ頓狂な声をあげる。
「当たり前じゃないか。何を言ってるんだよ。」
「なんで?」
「え?」
「なんで前から見られないの?前から見た方が勉強になるんじゃないの?」
「それについては、僕の仮説でもいい?」
「仮説と言うには、あまりにも長くてくだらない蘊蓄でしょ?」
「さっきから言うこときついなぁ。僕はね「離見の見」を鍛えるためじゃないかなと思ってるんだ。」
「利権の県?ロケットの補助金とか?」
「違うよ。優れた演者は、自分と客席、全てを包括したメタ視点を持ちながら演技できるっていう考え方だよ。」
「あ、それは分かるわね。演技にメタ視点は大切ね。メタ視点のない役者はすぐ分かるもの。」
「舞台袖から落語を聞くっていうのは、客席と演者を同時に感じることができるだろ?あれは「離見の見」の訓練なんだ、多分。落語家はどの先輩の落語でも舞台袖で聞いていいだろ?信用できないやつが舞台袖にいられたら気がちって仕方がない。けど、誰かの弟子だっていう信用があればそれが可能になるんだ。だからこの令和三十年でも時代錯誤な徒弟制度が必要なんだと僕は思ってるんだ。」
「へぇ〜。なかなか面白いこと言うね。けど、実績出してから言いなさいよ。あなたまだ芸歴1年も経ってないでしょう。偉そうに。」
「君もそうじゃないか。」
吉田はすでに大師匠のような貫禄の志水里香に面白い同期だなぁと親しみを感じていた。
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