第19話 令和三十年 令和三十年七月二十三日 大阪

文字数 3,491文字

「余命三ヶ月ですか?」吉田は荒川の突然の告白にたじろぐ。
「そうなんだ。死のう死のうと思っていた時期があるにも関わらず、実際死ぬと言われると、死にたくなくなるもんだね。」
この新築の高齢者用タワーマンションの15階と30階は病院になっており、自宅から、ナースコールができるため、末期癌の患者の最期の数ヶ月の住まいとしても人気である。
「新左衛門師匠の「死ぬなら今」を聴いて、また泰然とした態度を取り戻すことができた。綺麗に死にたいからね。死後の世界も「死ぬなら今」みたいだったらいいねぇ。私の棺には大金じゃなくて、書斎にある法律関係の紙の本を入れてもらおう。閻魔大王の裁判があったら、弁護人を引き受けようかね。閻魔大王の顧問弁護士になれば、地獄の甘い汁を吸えそうじゃないか。」

吉田は子供のように無邪気な想像を膨らませる、白髪の荒川を見つめながら答えが出たような気がした。

「お蔭様で、来週まで、綺麗に生きていけますよ。」

翌日、朝10時前、吉田は、大阪市内、北エリアの曽呂利新左衛門の住むタワーマンションの一階で師匠が出てくるのを待つ。
いつも通り、今日曽呂利新左衛門がどのような予定で、どこに行くのかは事前に知らされていない。

goglassに通知が来る。曽呂利新左衛門から電話だ。吉田は、goglassの右上にあるバーをスライドして電話をとる。

「はい、吉田でございます。」
「あ、今日上がってきて。下のタッチパネルで2112押して。開けるわ。」

見習いとなってから、初めて、三代目曽呂利新左衛門の自宅へあげられる。エレベータが21階につき、勢いよく扉が開く。
今を、ときめく若手実業家が多く住むと噂さるマンションだけあって、エレベータのデザインまで、洗練されている
ホテルのような佇まいの絨毯引きの廊下を通り、2112の前につき、一つ息を吐く。
呼び鈴を鳴らすと、扉が開かれて、曽呂利新左衛門が出てくる。

と想定していたが、出てきたのは女性だった。

「すみません。間違えました。」と慌てて、吉田は頭を下げて、もう一度、部屋番号を見る。間違いなく「2112」と印字されている。
女性は微笑しながら、ドアを閉める気配はない。どこかで見たことのある顔だ。

すると部屋の奥から「間違えてへんで。ここやここ。」と曽呂利新左衛門の声が聞こえる。
「嫁はんや。それ。」

吉田は、曽呂利新左衛門が、妻帯者だったという事実に驚きながらも急ぎ非礼を詫びて
「吉田と申します。よろしくお願いします」と全力で、頭を下げる。
女性も、耳感触の良い、透き通った声で「曽呂利新左衛門の家内です」と目を見たままペコリと頭を下げる。
吉田は顔よりも声の方が覚えているような気がした。

曽呂利新左衛門が「こっちきて」と手招きする。吉田は靴を揃えて脱ぎ玄関から家へと上がる。大きなリビングがあり、その奥の部屋に通される。
奥の部屋は、稽古場にもなっているのか、見台と座布団が置かれている。机の上には、礼状かサインでも書いていたのか硯に墨がすってある。曽呂利新左衛門は凝った現代アート風の赤の椅子に腰掛け、吉田はフローリングに正座する。

「答え出たか?落語は社会生活の維持に必要やろか?」

もしかしたら、この答え如何で、弟子にとるかとらないか決められるのかもしれない。大量に弟子志願があったにもかかわらず、弟子をとっていないのは、この答えを皆出せずに、辞めさせられているのか。

吉田は覚悟を決め、正直に答えることにした。

「社会生活の維持には必要ないと思います。」
「ほう、なんでや?」
「落語がない時代も社会は回っているからです。」

寄席が大阪の坐摩神社で生まれた西暦1798年以前も社会は存在し、飢餓や疫病に苦しみながらも、豊な文化を築いている。
寄席や落語が突然なくなっても社会は回っていくし、なんの問題もないだろう。

「しかし、誰かの生命活動の維持に必要なんだと思います。少なくとも荒川さんにとって、落語は、生きる意味になっていました。」

飢餓や疫病は、乗り越えたとはいえ、人生には苦悩がつきもので、それでも生きなければならない中で、それぞれの生命活動の維持にエンターテイメントが必要であり、それが誰かにとっては音楽で、他の誰かにとってはスポーツで、誰かにとっては落語である。

「ですから、落語は社会生活の維持にとっては必要ないかもしれませんが、誰かの生命活動の維持には必要だと思います。」

吉田は自分の意見が、正しいのかどうか分からないが、思っていることを素直に口にした。そして緊張した面持ちで、曽呂利新左衛門の顔色を伺う。
「いかがでしょうか?」

「なにがや?」曽呂利新左衛門はキョトンとする。

「私の答えはあってますでしょうか?」

「なにがや?」曽呂利新左衛門はさらにキョトンとした顔で「米なかったら死ぬけど、落語なくても死なんやろ。」と続ける。
「だいたい、そんな、たいそうなもんやないと俺は思う。自分がオモロい思うから、やってるだけの話でな。いつか、お前はいらんねんって、世間のみなさんが思うときが必ず来る。末路哀れは覚悟の上っちゅうのが、芸人の矜持やな。落語がなくなったらなくなったで、漫才もあるしな。そんな、高尚なもんやと勘違いしたらアカン。「世間の隅っこに、すんませんけど、入れてもうてます。米一つ作れませんけど、ちょっとオモロいんで、たのんますわ。」とこういう気持ちで臨まんとな、芸人はアカンな。アーティストやないねんから。」

吉田は自分の回答が、曽呂利新左衛門にとって不正解だったことに落胆した。
曽呂利新左衛門は椅子をくるっと回して、吉田に背を向ける。机の上にある筆をとり、短冊型の色紙に何かを書き始めた。書き終えたと見えて筆を置く。

「これ、どないや?」色紙に書かれた文字をフローリングに正座した吉田に見せる。

ー曽呂利吉左衛門ー

と書かれている。

「こちらは?」今度は吉田がキョトンとする。
「お前の名前や。吉田の吉とって、曽呂利吉左衛門や。弟子にしたるわ。」

吉田は喜ぶ気持ちよりも戸惑う気持ちの方が大きかった。
「あの回答でよろしかったのですか?」
「あの回答?どの回答や?」
「落語は誰かの生命活動の維持に必要だという。師匠は違うご意見かと思いましたが。」

「それと弟子入りとなんの関係があんねん。」

吉田は肩透かしを食らう。

「人間やねんから、考え方ちゃうやろ。考え方おんなじやつが弟子におっても、おもろないがな。」

では一体なにが決め手となって、弟子にとって下さったのだろうと思いながらも、吉田はこの日から「曽呂利吉左衛門」となった。

師匠に促され、師匠のキャリーバッグに着物を詰める。
師匠の奥さんに「行って参ります。」と挨拶して、1階に降りる。タワーマンションの周囲に止まっている無人タクシーに乗る。
「新大阪駅まで入れて」と後部座席に乗る曽呂利新左衛門が、操作座席の吉左衛門に告げる。
無人タクシーが発車し、車内は自動的に乗客が好きな音楽が流れる。15年前紅白歌合戦の紅組のトリを若干30歳にして飾り人気絶頂のまま引退した女性アーティストの曲だ。
吉左衛門こと吉田は「三日前に師匠が変えて欲しいとおっしゃった曲だ」と思い、師匠に「曲を変えますか」と聞こうとしたが、この耳感触の良い、透明感のある歌声を途中で変えるのを、もったいなく思い、そのままにしておいた。

この女性アーティストの引退以降、日本中誰もが知っている歌手というのはいなくなった。
流行当時、吉田は小学校に上がるか上がらないかの頃だったが、勿論知っていた。
どうしようもない男に惚れてしまった女性の弱みを歌った大人の曲にも関わらず、子供もみんな意味もわからず歌っていた。
吉田は、この少年時代の懐かしさが蘇ってくる。楽曲も素晴らしいがなんと言っても、この声だ。
ふと吉田が「最近どこかで聞いたような」と気づく。

曽呂利新左衛門は、後部座席で、苦笑いをして聴いている。

「嫁の曲やな。世間に隠してるねんけどな、この人が嫁さんやて。AIにはバレてんのか、コレ」

吉田の耳には「曽呂利新左衛門の家内です」という言葉がリフレインする。
曽呂利新左衛門は、気持ちの良い青空に、窓を少し開けて、上機嫌でリズムをとっている。

「天才やろ。このコ。30歳やで、この当時。作詞・作曲も自分でやってたんや。このコが突然引退しても、社会は続くんや。落語なんかなくなっても社会は大丈夫や。けどな、このコが表からおらんよーになった穴埋めはな、俺がせなアカンおもてるねん。」

軽快なリズムに乗って、無人タクシーが淀川を渡る。
夏の生ぬるい風が、冷房の効いた車内に吹き込んでくる。
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