第18話 令和三十年七月二十二日 大阪。③

文字数 1,835文字

いつもと同じように、高齢者用タワーマンションの40階の荒川の家へ通される。法律関係の紙の本に埋め尽くされた書斎を楽屋として使用し、いつもと同じように荒川がお茶を持ってくる。
「新左衛門師匠、大変失礼なお願いなのですが、今日、これこれこういうネタをしていただきたいと、お願いすることはできますでしょうか?」普段通りの物腰の柔らかさだが、少し声に固さがあるようだ。
「他の方でしたら、お断りしますけど、荒川さんでしたら。何しましよ?」

「「死ぬなら今」でお願いします。」

はっきりと「死ぬなら今」と言った後で、柔らかく紳士的に「お願いします」と言った。曽呂利新左衛門は「「死ぬなら今」ですか。わかりました、やりましょう。」と軽く返答する。

「よく我々噺家の方でも「あの人が長生きしてたら、今の落語界どないなってたや分からん」なんてことを言いますが人間、死に時てのがありまして、、。」
いつもの和室で、曽呂利新左衛門が飄々と語りだす。荒川は初め少し緊張したような面持ちだったが、次第に弛緩してきたようでニコニコと聴いている。

「閻魔大王、その他鬼たちみな捕まってしまいまして、地獄は空っぽ。「死ぬなら今」でございます。」

荒川氏が拍手を送る。
「師匠、この後ご用事は?」とたずねる。
「すみません。先輩の家に寄る約束してまして。あ、良かったら、吉田に人生でも教えたってください。吉田、俺、鞄、自分で持って帰るんで、荒川さんの話でも聞かしてもらい。」

吉田が曽呂利新左衛門の着物をたたみ、風呂敷に入れて、バッグへと詰める。
「ほな、明日も朝10時な。」と言って部屋を出る。
「すみません。荒川さん。今日は失礼します。」
「ええ。師匠、来週もよろしくお願いしますね。」
「はい、では。」
曽呂利新左衛門がマンションを後にする。

高齢者用タワーマンションの40階の一室で、70過ぎのナイスシニア荒川と20代の青年吉田がリビングで向かい合わせに座っている。

「すまないね。年寄りに付き合わしちゃって。」
「いえ、とんでもありません。」
「弁護士という仕事はね。僕が吉田くんくらいの時は、とても尊敬された仕事だったんだよ。」
「今でも高収入で、資格とるのも難しくて、尊敬される仕事です。」
「いやいや、昔はね、覚えてるだけで偉かったんだよ。もう、法律の分野では人間はAIに勝てないってことは皆分かってるからね。昔は本当に特別な人しかなれなかったし、法律や判例を記憶することだけに対してでさえ、とても長い時間をようしたんだよ。その点、落語家はいいねぇ。世の中にとって必要な仕事だから。」
「弁護士の方が、世の中にとって必要な仕事だと思いますが。AIじゃ代替できない仕事だってたくさんあるでしょう。いつの時代だって争いはある訳ですし。」
「ありがとう。その通りだ。けど、我々は争いがなくちゃ、仕事がない。我々が生きていくためには争いがないといけないんだ。正義の味方になりたくて、弁護士になったんだけどね。弱者が困ってないと、我々は食べていけないんだ。」
「そんなこと言ったら、治安が悪くないと警察はいらないと言ってるのと同じじゃないですか。」
「そう。その通りだよ。その点、落語は、楽しい時はより楽しくなるし、辛い時には救いにだってなるじゃないか。」
「そうでしょうか。確かに落語はそういう性質のものかもしれませんが、エンターテイメント全体に言えることで、落語じゃなくても良いのではないですか?」
「ハハハ。そうかもしれないねぇ。」
荒川が、空になった吉田の湯飲みにお茶を入れる。

「新左衛門師匠の落語はいいねぇ。もっと早くから聴いておきたかったね。亡くなった女房がファンでね。よく一人で、聴きに行ってた。私は仕事ばっかりしてたから、一緒には一回も行ったことがなかったけどね。」

吉田はセンシティブな話題に無言で聴いている。

「女房を亡くしてから、人生の大事なものに気づいてね。もっと同じ時間を共有しておけば良かったと。死のう死のうと塞ぎこんでいた時もあった。女房はどんなことを思って生きていたのかと知りたくなって初めて寄席に行った。新左衛門師匠の落語を聴きに行った。素晴らしかった。女房と一緒に一度くらい寄席に行きたかったね。Zaxi(ザシキィ)というサービスを知って、それから毎週来ていただくことにした。」

「あ!そうでしたよね。今日は珍しく変則的でしたよね。」吉田が口を挟む。

「いやぁそうなんだよ。急に、怖くなってしまってね。私余命は三ヶ月なんだ。」
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