第4話 令和三十年七月。大阪。③ 

文字数 2,039文字

「師匠、よく来て下さいましたね。」
新築の高齢者用タワーマンションの40階の一室の扉が開く。中から現れたのは、小ざっぱりとした70代の男性だ。自宅にいるにも関わらず、白一色の毛髪を綺麗にとかしてあり、今どきのナイスシニアである。
「見習いの、吉田くんもよく来てくれたね。師匠のところは、厳しいから。せっかく会えたのに、辞めちゃってたらどうしようと思ってたよ。さぁさぁあがって下さい。」
一人で住むには少し広過ぎる2LDKのうちの一部屋に通される。本棚には、年季の入った法律関係の紙の本がびっしりと並んでいる。

見習いの吉田は、最近覚えた部屋の上下を意識しながら、ご自宅が汚れないよう自身のカバンから取り出したシートを敷き、その上に師匠のキャリーバッグを寝かせて安置する。自身
のリュックサックは部屋の入り口付近の邪魔にならないところへ置いた。

しばらくして、ナイスシニアが日本茶をお盆に乗せて運んでくる。吉田がお盆を受け取ろうとすると「大丈夫よ、吉田くん。テーブルまで私が運びますから」と笑顔で制する。

「新左衛門師匠、一服なさって、お着替えされましたら、どうぞ奥の部屋にいらして下さい。いつものようにしておりますので。」
「分かりました。荒川さん、いつもありがとうございます。」荒川が空のお盆を持って部屋を出ていく。
吉田は、思い出したように、新左衛門のキャリーバッグから高座用の着物の入った風呂敷包みを取り出し、白足袋を履きやすいように半分だけ裏返して風呂敷包みの上に、ちょこんとのせた。先週教わった楽屋ルーティンだが、ぎこちない手つきである。

曽呂利新左衛門は日本茶を片手に持ちながら、本棚を眺めている。
「こんだけの本、みな、覚えてはんねやからな。すごいもんや。君らは紙の本とか読むんか?みな電子書籍か?」
「電子書籍しか読まない人も同世代には多いですが、僕は紙の本をたくさん持ってます。」
「へぇ〜。なんでや?」
「電子書籍になってない本には面白い本がいっぱいあるんですよ。」
「大昔の本とかか?」
「いえ、大昔の本は、むしろデータベース化されてるので、ほとんどの本が無料で読むことができます。電子書籍になっていないのは、むしろここ数十年間の本です。個人で1000冊以下だけ出版した本ってよくあるんです。出版コストが減りましたし。ひと昔前だと、LIVERさんが、自身のファン向けに数十冊だけ本と作るというのも流行りました。そういう本は電子書籍化されていないんです。」
「落語でもあるんか?そんな本。速記はみな明治期のでもなんでも、電子書籍で読めるもんな。電子書籍で読まれへん、落語の本ってあるんか?」
「あ、そういえば、ちょうど昨日、茶屋町の古本屋で面白そうな本があったので、一冊購入しました。」
「なんちゅう本や?あ、着替えるわ。肌じゅばんとステテコとって。」
吉田は慣れない手つきで師匠の着替えの手伝いをしながら返答する。
「えーっと、「今後100年間に落語家が直面する危機とその対応策〜コロナショックを乗り越えて〜」です。」
「なんや、その本!?」曽呂利新左衛門はぷっと吹き出す。
「誰の本やそれ?」
「おそらくペンネームだとは思うのですが「桂 ノストラダム助」と書いてありました。」
「ハハハ、めっちゃオモロいやん。どんなこと書いてんの?」
「まず、第一の危機が「楽屋でセクハラできなくなる」でしたかね。」
「なんやそれ!?」
「危機レベル 未曾有の大惨事とランキングされていました。」
「対応策も書いてんのんか?」
「はい、分析と対応策も書いてました。「元始、楽屋は、セクハラの温床であった。それが今はどうであろう。ちょっと女性の前で全裸になったからといって問題に発展してしまう。良い落語家とは舞台の上で精神的に全裸になるものである。これは日頃から肉体的に全裸になることの積み重ねによってのみ培われるものである。この傾向は今後ますます加速するだろう。落語家消滅の危機である。したがってこの危機に対しては全力で対応策を考えねばなるまい。」
「おもろいな。おもろいけど、ちょっと待って。お前完璧に覚えてんのか?」
「いえ、goglassをかけて読んでましたんで、履歴を引っ張り出してます。」
「そんなんもできるんか?その眼鏡。便利やな。ほんで対応策は?」
「セクハラは一方的に不快感を与えるというところに問題があるのであって、双方ともに同じ条件ならば、問題は生じない。したがって、私、憂国の落語家・桂ノストラダム助は「男女とも楽屋全裸令」を提案する。楽屋では必ず全裸になることをルール化することによって今後100年素晴らしい落語家が男女ともに誕生することを、切に祈っている。。。。ですね。」
「最高やな。その本。けどそれ、多分、ホンマに噺家が書いた本やな。そんな感じするわ。誰が書いたんやろなぁ。」

高座着に着替え終わった曽呂利新左衛門に吉田がセンスと手拭いを一本ずつ、渡す。吉田は中身のなくなった風呂敷を教わったように綺麗に畳んだ。
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