第54話 令和三十年十二月 再び大阪 14

文字数 1,136文字

高津神社の境内はひっそりとしている。吉田と志水里香の二人のみである。
境内をふらふらと散策する。
「大体、あなたはなんでコンクールに出演してないのよ?」
「出演もなにも、初舞台もまだだよ。夏に入門したところだし。」
「あら、まだ、初舞台も踏んでないの?」
「初舞台も踏んでないの?って君はもう初舞台は踏んだの?」
「当たり前よ。」
「早いんだね。どんな感じだった?」
「覚えていないわ、もう。」
「覚えていないくらい必死だったんだね。」
「必死、というほどのものでもないわ。私にとっては、それは、自然なことだから。」
「だから、どんだけ大御所なんだよ。」

二人はどちらかが言うとでもなしに、社殿へ参拝する。

「あなたがいい落語家になるように祈ってあげるわ。」
志水里香は、電子マネーしか持ち合わせていなかったので、社務所で参拝用の賽銭を購入する。
賽銭箱にヒョイっと入れて、手を二回叩いて、祈る。

「じゃぁ僕も君がいい落語家になるように祈ってあげよう。」吉田が言うと、志水は困った顔をして「無駄よ。私はいい落語家には絶対になれないわ。神様の前で偽りの心があると、いけないわね。」

社殿に向かって左側に石碑があるのを見つける。
「あら、いい石があるじゃない?あれは何?」
「知らないよ。」
「あなた、肝心な時に役に立たないのね。」

二人が石碑に近づく。「五代目 桂文枝之碑」と掘ってある。

「あなた、これこそ覚えておかなきゃいけない石碑じゃないの?大村とか近松とか井原とかも大事かもしれないけど、まずこれでしょう。反省しなさいよ。」
「僕だって知らないことくらいあるよ。」
「生意気ね。人間はね、知らないことしかないくらいよ。知らないことくらいあるなんて傲慢も過ぎるわ。知識なんていざという時にはなんの役にも立たないの。いざという時に頼りになるのは覚悟だけよ。」
「だから、君が覚えろって言ったんじゃないか。確かに知識が偏ってるよ、僕は。」

吉田が、ぐるっと石碑の裏へ回る。裏面にも文字が書いてある。

「えーっと、上方落語の四天王の一人として 戦後ほろびゆく危機にあった落語の復興に尽力し 多くの弟子を育て 平成十七年一月十日 高津宮での「高津の富」を最後に 同年三月十二日鬼籍に入る この碑はその功績を称え、、、なにしてるの?」

志水里香は石碑に向かって両手を合わせている。

「あなたがいい落語家になるように祈ってあげてるのよ。この石碑なら、たとえ嘘つきが祈っても願いを叶えてくれそうだからね。」

しばらく両目を瞑って、祈っている。吉田はその姿をただぼーっと見ている。
祈り終わった後で「あなた、もっと先人に感謝しなさいよ。知識もいいけど、芸は、心よ。結局は、何考えて生きてるかが大切なのよ。お客様はね、演者の生き様を見にくるのよ。」
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