第56話 令和三十年十二月 再び大阪 16

文字数 1,035文字

志水里香はとても満足している。
たった数時間の出来事だったが、ひとときの自由を味わえた。
なかなかいい休日だった。
放送局の近くに難波宮跡があったなんて知らなかった。いつも、側を通っていたが、だだっ広い公園としてしか認識していなかった。

落語の中でも、崇徳院という落語がとても好きだった。
高津神社に一度は行ってみたかった。その夢も叶えられた。

崇徳院という落語は、崇徳天皇の歌「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」を中心に展開していく落語だ。
高津神社で出会った男女。互いにひと目惚れ。女性の方が「瀬を早み岩にせかるる滝川の」と書いた紙を男性に渡して別れる。
これは「いずれは末に嬉しくお目にかかりましょう」という誓紙。たったこれだけの手がかりではお互い会うこともできず床に臥してしまう。
やがて、二人は巡り合い、晴れて夫婦となる。

こんなロマンチックな話なのに、この男女のことはほとんど描かず、女性をなんとか探し当てる出入りの職人熊五郎の苦労にスポットライトを当て滑稽に描いている。
主役が美しい物語の中で生きるためには、裏で誰かの泥臭い努力がある。自分が我儘であり続けられるのも、誰かが知らないところでバタバタと走り回ってくれているおかげである。

今日も、優秀なマネージャーが、わずかな手がかりから自分を見つけ出してくれた。
きっと、聞いてみると、愉快なドタバタがあったに違いない。
けどそれは自分には教えてくれない。「アンタなんかに私の苦労が分かってたまるか」といったものだろう。それと同じように私の苦労も彼女には分からない。お互い想像で補うしかない。そのことを「崇徳院」は教えてくれる。

その崇徳院の舞台、高津神社に落語家と来れたというのがより嬉しい。
蘊蓄ばかり垂れる頭でっかちの駆け出しの落語家だったが、落語家は落語家だ。
ひたむきな姿に、自分も一から修行しなきゃと感じた。
それに、今は野暮ったいが、顔のパーツは悪くない。悪いやつじゃないし、背も低くない。また今度会ってあげてもいいかなと思う。

無人タクシーに一度乗り込んだ志水里香だったが、マジックペンをもらったかと思うとタクシーを降りてツカツカツカッと呆然とたたずむ吉田に近づく。
「後ろを向きなさい」
吉田は言われるがままに志水里香に背を向ける。
吉田の着る、白のトレーナーにペンを走らせる。
「さよなら。」
くるっと翻して、無人タクシーに乗り込み、発車する。

吉田の背中には大きく「瀬を早み岩にせかるる滝川の」と書いてあった。
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