第8話 寄席の歴史②

文字数 1,054文字

 吉田がメモを見ながら、思案を巡らせる。落語の成立を西暦1800年とするならば、令和30年の今年は、落語暦248年である。
 落語暦68年に革命政府ができるという政変があったにも関わらず、落語は発展しているように見える。
 さらに、幕末から明治にかけてのコレラ・麻疹が大流行しているが、特に中止になったという記述は見つけられなかった。「恋は麻疹のようなもの」というのが慣用句となっているように、感染症による死亡は身近だったのかも知らない。1858年の麻疹の大流行では、江戸の人口の1/5が減少したという説もある。
 しかし江戸時代は飢饉が多発しており、最後の大飢饉である1833年から1839年までの天保の大飢饉では日本の人口が約3000万人にも関わらず125万人の死者を出したというので、死がもっと身近だったのかもしれない。

西郷隆盛・板垣退助らが征韓論を巡って政府から飛び出した明治六年の政変のあくる年、落語界の巨星、初代・桂文枝が亡くなっている。
明治新政府もその後、木戸孝允が病死、西郷隆盛が自刃、大久保利通が暗殺され、血生臭い権力争いに明け暮れる。

落語界においては、1882年に桂文三が、二代目桂文枝を襲名し、二代目桂文枝を中心とするグループ(桂派)と二代目桂文枝が気に入らないグループ(浪花三友派)に分かれ、お互い牽制しあいながら、俯瞰で見ると落語界全体が発展しているという冷戦構造となる。

また、吉田が紙のノートにペンを走らせる。

1882年 桂文三 二代目桂文枝襲名

襲名争いに負けた 桂文都
桂文都→月亭文都に改名→初代の桂文枝のホームグラウンド、泉熊席は文都が死守(二代目文枝を排除)
笑福亭派(三代目笑福亭松鶴一門)・文団治派(二代目桂文団治一門)、月亭派(月亭文都一門)で「浪花三友派」結成

二代目桂文枝
泉熊席の東隣に 金沢亭を発足 
「桂派」

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両派のまとめ

「桂派」
絶対的リーダー 二代目桂文枝 近来落語の口調がガヤガヤ賑やかになるのを嘆く。渋みがあって静かな飽きのこない素噺の長者という評価。
この二代目桂文枝を絶対的君主とし、その方向性に習う。

「浪花三友派」
三派の合流し、陽気・派手で東京の落語家も出演する、落語家以外も積極的に出演する興行を打つ。

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1900年 月亭文都死去
1904年 三代目 笑福亭松鶴 浪花三友派を離れる

浪花三友派=桂文団治派の様相に

両派の雪解け
1907年 両派合同興行

1908年 二代目桂文枝死去(隠居名 桂文左衛門)
1910年 三代目桂文枝死去
→桂派瓦解
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