第15話 寄席の歴史④

文字数 699文字

工業国へと、価値観が変化していく中で、1882年に桂文三が二代目桂文枝を襲名し、落語界が二分されてから、1907年両派合同興行が行われる25年間、二代目曽呂利新左衛門はどうしていたか?
東京の寄席に一年出演し、そのあと京都に移っている。そして、演芸史で唯一寄席が閉館したコレラの大流行の1886年に曽呂利新左衛門を二世(にせ)曽呂利新左衛門として襲名している。そして、同じ四天王の初代桂文団治はこの年コレラで死亡している。
1896年浪花三友派に加入し、初代会長となっている。

三派の長、文都・松鶴・文団治ではなく、曽呂利新左衛門が初代会長??

吉田は150年前に生きた自分の師匠と同じ名前の落語家について考察するために、当時の重要人物を年長順に並べてみる

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初代桂文団治(1842年生ー1886年没)、曽呂利新左衛門(1842年生)>文都(1843年生)>二代目桂文枝(1844年生)>三代目笑福亭松鶴(1845年生)>二代目桂文団治(1848年生)
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月亭派・笑福亭派・文団治派の三派合流で、浪花三友派。そのどの派閥でもない曽呂利新左衛門が会長となることで、全体のバランスをとったのかもしれない。あるいは一番の年長者だった曽呂利新左衛門を会長に据えたのかもしれない。
また、東京の落語界とも繋がりの深い、曽呂利新左衛門が会長となることの影響か、浪花三友派は、三代目柳家小さんら「東京寄席演芸株式会社」と提携し、お互いに所属の落語家が出演している。

もしかしたら、「誰か」が、キングメーカーとなって芸や人脈にも優れた曽呂利新左衛門を会長に据えることで、浪花三友派を大きくしたかったのかもしれない。
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