第5話 令和三十年七月。大阪。④

文字数 1,317文字

このナイスシニア・荒川の家はタワーマンションの40階には珍しく、奥が和室になっている。和室には一段高く高座が設えられており、赤い毛氈が綺麗に敷かれている。その上には大きな紫色の座布団が安置されている。そしてその後ろには金色の屏風まで用意されている。この和室は落語を聴くためだけの部屋であるようだ。
高座に向かって一段ひくいた畳に座布団を敷いて、一人、ナイスシニアの荒川が座っている。
主人のいないカラの高座に向かって、曽呂利新左衛門が歩き出す。一段高い高座へ悠々と座り、右手で扇子を自分の前に結界をはるようにツトっと置くとゆっくりと喋りだす。

「今はこの大阪の福島、高層マンションの立ち並ぶ綺麗な区画となっておりますが、昭和の初め頃までは汚い街やったそうで、福島の羅漢前と申しますと、百軒長屋ガタガタ裏と名前のついた長屋から、三月裏に六月裏、戸なし長屋に、釜一つ裏っちゅうようなところが有馬して...........」

福島の裏長屋の住人が、花見で散財する旦那衆に憧れ、着物、食べ物、酒、全て代替品で散財してる気になる「気で気を養う」噺だ。最後は、そこに居合わせた旦那衆の可愛がっている幇間と喧嘩寸前になったところでストンと落ちる。

「ほんなら、お前のその徳利はなんやねん!?」
「へぇ、これは、これは、あんた、チョウシのおかわり持ってきた。」

和室の裏で、正座し、懸命に聞いていた吉田はチョウシとは一体なんなのかわからず、goglassで画像検索している。

「いやぁ新左衛門師匠、今日も大変素晴らしかったです。お着替えになられたら、リビングでお茶でもいかがですか?次お急ぎですか?」荒川が問う。
「ありがたくいただきます。また、書斎をお借りして着替えてきますね。」

曽呂利新左衛門が、楽屋として用意された書斎のドアを開けると、吉田が着物を畳むための敷紙を広げて待っていた。

「お疲れ様でした。」

敷紙の上に高座用の着物を脱ぎ、ハンガーにかけてある普段着の着物に着替える。
吉田は慣れない手つきで一生懸命に着物の端と端と合わせて畳んでいる。
普段着の着物に着替え終わった曽呂利新左衛門が「ほな、その着物畳んで、帰れるようにしたら、君もリビングでお茶よばれたらええわ。」と言ってリビングに向かう。

「いやぁ、もう師匠に毎週来ていただくようになってから一年になりますよ。ZAXI(ザシキィ)なんてアプリ知りませんでしたから。まして落語家さんが家に来ていただけるなんて夢にも思ってなかったですよ。」
荒川は旧式のケータイのタッチパネルを操作する。
「私らが若手の頃はありませんでしたからね。ここ10年でめちゃめちゃ増えましたね。せやけど、大昔はよぉあったみたいですけどね。それこそ、吉田茂首相なんかよく座敷に落語家を呼んでたなんて話がありますね。」
「へぇ。じゃあ、私もちょっとした、首相気分ですね。」
「荒川さんでしたら、今から選挙出はったら、受かるんちゃいますか?弁護士の仕事も今あんまりしてはらへんのでしょ?」
「いえいえ。それにもう働くのも疲れてしまいましたしね。私たちが若い頃は弁護士なんて尊敬されたものですが、もう法律や判例を覚えたところでAI判定には勝てませんから」
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