第5話 オリブラの民(1)

文字数 4,639文字

 遥かエネリーの山々は未だ雪化粧を纏っていた。少年は横眼にそれを眺めながら、眼下に広がる森を見渡している。空高く舞い上がり、優雅に旋回するその姿は、まるで鷲のようだった。
 実際に空を飛んでいる訳ではない。頭の中で空から俯瞰したような光景を思い描いているだけである。しかし、その光景はあまりに写実的で、起伏に富んだ地形は元より一本一本の木々の枝葉までもが鮮やかに見えた。
(ああ、ブナの木も芽吹いた。もう春だな)
 少年の心はうきうきしていた。彼は冬が嫌いだった。薄暗く、身も心まで寒くなっていく。これから訪れてくる生命感溢れる季節が好きだった。
 彼は今、父親と兄の三人で野生馬を捕まえに来ていた。この時期、野生馬の群れは子育てのため新芽を求め森の中を移動している。
 警戒心の強い彼らは人の前には中々姿を見せないが、この時期は森の中に入ってくるため柵で囲った罠まで誘導しやすい。
 三人は小高い山の頂きに昇り地形を展望した。罠の準備に一か月ほど要している。
 半年前、彼らは野生馬の群れを追い込む方向と罠を作る場所を探るため、ここに登っていた。
 今日はいよいよ追い込みに来たのである。
「いいか、地形の起伏、沢の流れ、木々の一本一本まで全て頭の中に叩きこめ」
 がっしりとした体格の男が声を掛けた。鹿の毛皮で作った衣服を身に纏い、腰には剣、背中には弓矢を背負っている。
 歳の頃は40歳くらいであろうか、眼光鋭いその顔には年相応の皺が刻まれていた。
「おやじよ。この高さから木々の一本一本なんか、どうやって見ろっていうんだ。見えやしないぜ」
 少年の兄が苦笑した。父親に似て、がっしりとした体格で背も高い。歳の頃は20歳位か。
「お前には見えないのか、ノエル」
「見えるかよ。鷲の目でも持っていれば別だけどよ。人間様に見える訳ないぜ」
「お前はどうだ、ディーン」
 少年の名前はディーン・ロードという。整った容姿をしており、特にも涼しげな目元と風にサラサラとたなびく艶やかな黒髪が印象的だった。
 急峻な岩壁の上に立ち眼下を覗く。ここから転げ落ちたら一貫の終わりである。
 一回だけ、誤って足場を踏み外し落下した者の末路を見たことがある。岩肌に何度も打ちつけられた、その体はまるでボロ切れのようで右腕と左足はちぎれていた。
 直下に流れる沢に落下した後は急流に身を任せるしかない。そして2kmほど離れた滝壺で浮かぶのである。同じ村の男だった。
「俺は見えるよ。父さん」と、父の方を振り向く。
「ホントかよ」兄のノエルは目を丸くした。
 我が弟ながら、ディーンにはこれまでも驚かされることが多い。常人とは違う、何か特殊な能力を持っているようだった。
「ほう、お前には見えるか、それでは聞くが、馬の群れはどちらから来る」
 父親の名前はトラル・ロード。ここオリブラ村で木こりを営むロード家の当主である。日々の力仕事で鍛えられた肉体は鋼のようで、雪焼けした黒い肌がまるで岩のようにも見える。
「多分、西の沢から来る。沢沿いの木々の葉が芽吹いたばかりだ。それを目指してくるよ。だけど、あいつらは警戒心が強いから一旦、東の森を迂回してから沢の上流に向かうと思うよ」
 目を輝かせながら、ディーンは野生場の群れの動きを予測した。彼は動物達の行動を読むのが好きだった。天候、季節、地形を全て頭に入れた上で先の行動を予測する。
 予測が当った時の満足感はこの上なかった。尤も最初から出来た訳ではない。父や兄と狩りに出掛けている内に自然と身についたのである。
 エネリー山脈の麓で暮らす彼らに取って馬は生活に無くてはならないものである。数年に一度、彼らは野生馬を捕まえるため森に入る。自分達で使役するほか、町へ下りて市場に出して売る。
 野生馬の群れは普段、広大なローラル平原を縦横無人に駆け廻っているが、草が枯れ乏しくなる冬期間、僅かに残った木の葉や柔らかな枝を求めて森や山の中に入ってくる。その時期を狙って木柵で作った罠に誘い込むのだ。
 馬は移動手段とするほか、伐採した木の運搬に欠かせないものだった。森の木を伐採、枝打ちし、麓の村まで運べば木材の加工を生業とする者達が買い取りに来る。
 大した金にはならなかったが、自給自足の生活をしている彼らにとっては十分な収入だった。
 ドドドと東の森の木々が大きく揺れた。風の所為ではない。森の中に何かいるのだ。
「来た」
 興奮したディーンの声に父と兄が崖渕に近寄る。遥か眼下に広がる森を移動している何かがいる。野生馬の群れに間違いなかった。
「行くぞ、ノエル、ディーン」
「あいよ」「分かった」
 父の合図で三人は急いで小高い山を降りる。予め、作戦は練ってある。警戒心の強い野生馬に近づくには、静かに風下からアプローチするしかない。
 ディーンの読み通りであれば、東の森を経由して西の沢に向かうはずだ。西の沢の下流から静かに近づき、上流側に追い込む。
 すると峡谷に挟まれた馬達は抜け出そうと開けた方に逃げ出す。その先に少し開けた原野があるが、そこが罠を仕掛けた場所だった。
 入口は狭く奥は開けている。その周りを木柵で囲っているため、追い込んで入口を閉じれば完了だった。
「ノエル、お前は東から追い込め」
「あいよ」
「ディーン、お前は西の沢からだ」
「分かった」
 彼らは馬に乗って静かに森の中を移動した。手には牛の革で作った短い鞭を握っている。
 それぞれ配置に着くと、兄弟は父親の合図を待った。野生馬の群れは東の森を抜けだし、ディーンの読み通り西の沢沿いに入っていく。
 沢の淀みに広がる開けた草地で馬達は一斉に木々の新芽をついばみ始めた。中でも子馬を連れた母馬達は一心不乱についばんでいる。そんな中、一際逞しい雄馬がいた。
 この群れのリーダーである。一斉に新芽をついばんでいる仲間達の中、彼だけは警戒を怠らず辺りに目を配らせている。その時、ピシイっという空気を引き裂くような音が下流から聞こえた。沢のせせらぎさえもかき消すような高く乾いた音である。
 手に持った短い鞭でトラルが木の幹を打ったのである。これが合図だった。
 驚いた馬達は一斉に上流に向かって駆けだす。けたたましい嘶きと共にドドドっという大地が揺れるほどの振動が響き渡る。
 ピシイっという音が下流から絶えず馬達を追っていく。しばらくすると進路を塞ぐように別の方向からも同じ音が響き出した。
 ディーンが父と同じく短い鞭で木の幹を打ったのである。馬達は驚き進路を変えた。すると、今度はまた別方向から乾いた甲高い音が聞こえる。
 ノエルだった。彼らは手綱も握らずに馬を巧みに乗りながら、木の幹に巻き付かないように鞭を打つ術を持っていた。
 見事な連携で、馬の群れを罠の方へ誘導していく。徐々に進路を塞がれた馬達は嘶きを上げ、必死に逃げる。
 渓谷に追い込まれた彼らの眼前に原野が広がった。木の柵で囲まれたこの場所に追い込むことに成功したのである。入口を木の柵で閉じて追い込みは完了した。
「へへ、上手くいったな」ノエルが笑う。
「俺の読み通りだろう」ディーンは自慢気だ。
「20頭か、まあまあだな。子馬も5頭いる」父親は頭数を数えると満足した。
「あの黒毛の馬がリーダーだな」
 一際逞しい黒毛の馬にノエルは目を見張った。
「ああ、かなり立派な楯髪だ。あんなのは久しぶりにみたよ」
 ディーンは興奮していた。あの黒毛の馬を自分の馬にしたい願望に駆られる。
「さあ、少し休むぞ。馬達が落ち着いたら、首輪付けをやる」
 父が切り株に腰を掛けた。
「ねえ、父さん、あの黒毛の馬、俺の馬にしちゃ駄目かな」ディーンがそわそわしながら聞く。
 父はキセルの煙草に火を点け、フウーと煙を吐いた。
「アインズがいるだろう」
 アインズとはディーンが乗っている馬の名前だった。
「でもアインズは、歳を取って早く走れないよ」
 父がフウーと煙を吐いた。
「ディーン、お前は年老いて早く走れなくなった   馬は不用だと思っているのか」
「違うのかい、早く走れなければ役に立たないよ」
「確かに早く走れなくなった馬はいずれ死を待つしかない。野生の馬はそうだ。しかし、アインズはこれまで我々のために働いてきてくれた馬だ。野生馬とは違う。お前は仲間とは思わないのか」「それはそうだけど」
 なおもディーンは黒毛の馬を諦められないようだった。
「人も馬も同じだ。これまで我々のために尽くしてくれた者達に対しては、その恩に報いてやらねばならない」
「恩に報いる?」
「そうだ。アインズはまだ走れる。早く走れなくとも最後まで走らせてやることが、我々がアインズに出来ることだ。そして走れなくなったら、これまでの働きに感謝して静かに休ませてやることだ」
 ディーンはなおも納得できないようだった。いつの時代も若者はスピードとスリルを求める。
 そんなディーンに幼い時から父は色々なことを教えてくれた。生活の糧となる知識のほか、どこから買い求めたのか、語学と数式の書物を与え勉学も教えてくれた。
 そんな父を見て、大人は皆、読み書き、数式が出来るものだと思っていた。
 ところが、父以外に出来る大人は村にはいなかった。いや、母も出来たのだが、物心ついた頃、そんな両親が他の大人達とは違うということに気付いた。
 村の大人達は、そんなものは木こりの生活には役に立たないと、風変りな目で父を見ている。兄のノエルも全く興味を見せなかった。
 お前は興味がないのか、と父に聞かれたディーンは、ウーンと悩んだものだ。確かに語学を覚えると、色々な書物を読む事が出来て面白かった。
 また数式を覚えると、この世界で起きる理が理解できるような気がして面白かった。
 次第に、ディーンは山奥の生活から外の世界に興味を抱くようになっていた。
 山を下りれば、広大な草原と深い森が続くローラル平原が広がっている。所々に砂漠化された荒野が点在しているため、人が暮らせる土地は限られていたが、どこまでも果てしなかった。オリブラより発展した町も多い。
 中でも、ミネロの町はかなり大きな都会だと聞く。どんな人々が住んでいるのか、どんな暮らしをしているのか、また美しい女性がいるのか、ディーンの興味は尽きなかった。
「今度、マチスタに木を売りに行く。ノエル、ディーン、お前達も来い」
 ディーンの目が輝いた。マチスタはオリブラから最も近い町だった。町といっても、ローラル平原に点在する町々の中では小規模な方で、常駐している守備軍もいない。
 近隣の町であるテネアの守備軍が定期的に巡回に来る程度である。
 尤も山麓の小さな村であるオリブラからみれば活気があり人々も多かった。
 またオリブラにはない色々な物が流通している。市場には見たこともないような品物が並んでいた。それを見るのがディーンは楽しみだった。
 退屈で刺激のないオリブラを抜け出し、マチスタに行くことは若者に取ってワクワクすることだった。ノエルも機嫌が良い。
「よし、日が暮れる前に家に帰るぞ。母さん達が待っている」
 父親を先頭にノエルとディーンが続く。仕事が終わったことを知ってか、ポクポクと馬達の足取りも軽い。
 木柵で作った罠に囲った野生馬達を調教するために近い内に又戻って来なければならない。野生馬達の餌として置いてある枯れ草も10日ほどで尽きるだろう。
 しかし今は暖かい暖炉と母親が作ってくれているはずの鹿肉のスープで頭の中がいっぱいなディーンだった。
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