第40話 ミラの決意(1)

文字数 4,995文字

 ミラは近頃、成長するディーンを見るにつけ、あの日のことを良く思い出す。あの日のことは、よく覚えている。秋も深まった頃だった。まるで獅子の様な容貌と屈強な体格の男が若い女性を連れて突然現れた。 
 男は身体中、傷だらけで額に大きな切創があった。一方の女性はかなり衰弱しており、男に背負われて来たようだった。
 男の容姿が怖くて、4歳の少女だったミラは父の後ろに隠れた。1歳になったばかりの弟のトラルも男の発する迫力に怯え母にしがみついて離れない。
 二人の姿を見た父と母は驚き、すぐに家の中に招き入れた。古い知り合いだと、父は説明した。父を頼って来たようである。幼いミラにも二人の様子が普通ではないと分かった。
 一家がこの森に来たのは2年前である。ミラは2歳になったばかりで母はノエルを宿していて身重だった。父は森の木々を伐採して生計を立て始めていた。
 食物は狩りで捉えた鹿の肉や小さな畑で作った野菜。そして、時々町で仕入れてくる小麦で作った蒸しパンだ。裕福ではないが、穏やかな生活を迎えつつあった。そんな矢先、一家に突然来訪者が現れたのである。
 男は粗末なベッドにドンと横たわると、しばらく目覚めなかった。時々、うなされながら上げる獅子の咆哮のような雄叫びが聞こえるたび、ミラは父の元に駆け寄ったものだ。
 一方、女性は長い艶やかな黒髪が印象的な美女だった。折れそうなくらい華奢な体が、どこか儚げな印象を与える。元々、体はあまり強くないらしく、ここに来るまでの長旅で体調を崩したようだった。
 その時、父が告げた言葉を覚えている。おじい様が亡くなった。そう言っていた。男がそのことを父に伝えたようだった。祖父の記憶はあまりなかったが、大きな手で頭を撫でてくれたことは覚えている。涙が溢れ出てミラは母の胸で泣いた。
 両親は二人のために物置小屋として使っていた建物を充てがった。雨風を凌げる程度の粗末な建物だったが、二人で暮らすには十分だった。
 母は甲斐甲斐しく女性の世話をした。ミラも母を手伝い、食事を差し入れたり、毎日のように二人が暮らす小屋を訪れた。初めは男のことが怖くて行きたくないと駄々をこねたものだが、女性の優しい笑みに少女は警戒心を弱めていった。また、日中、男はどこかへ出掛けていることが多く、ミラにとって来やすい状況といえた。
「お姉ちゃんの髪、綺麗」「フフ、ありがとう。でもミラちゃんの髪もとても素敵よ」
「本当?でも、ミラはお姉ちゃんみたいな黒い髪が良かったな」少し茶色が混じった少女のブロンドの髪を女性は優しく梳いている。
「ミラちゃんの髪はキラキラと輝いて、とても綺麗。本当に素敵よ」「そう、えヘヘ」
 男は今日も不在だった。何処に出掛けているのか分からないが、未だに男のことが怖くて、まともに顔を見ることすら出来ない。
「ミラ、あのおじちゃんは嫌い。怖いもの。お姉ちゃんは怖くないの」天真爛漫で在るが故に大人であれば聞けないことも躊躇なく平気で聞く。「フフ、体も大きいし、怖い顔しているもの。そう思うわよね」女性は微笑んだ。
「でもね、とても優しい人なのよ」本当、とミラは驚きの声を上げる。男は夜、家にやって来る時があった。そうした時、父と激しく口論しているのを、ミラは隣の部屋で怯えながら聞いていた。
 お父様と喧嘩するなんて、やはりあのおじさんは悪い人なんだ、と幼いミラは思う。
「あの人は悪い人なの」父にそう聞いたことがある。
「そう思うか、ミラ」「うん。だって、怖い顔して、いつも怒っているもん」
「フフ、安心おし。あの男は父さんの友人だ。悪い男ではない」「お姉ちゃんも、そう言ってた」
「そうか。ミラも友達と喧嘩することがあるだろう」「うん」「けれど、仲直りするだろう」「うん」「友達だから喧嘩もする。だけど、最後は仲直りするのが友達だ」
 そうか、と納得するミラだったが、それでも男のことが怖いのには変わりはない。
「お姉ちゃんは、おじちゃんと結婚しているの」今日もミラは女性の元を訪れていた。「そうよ」と優しく答える、この美しい女性と、あの男は不釣り合いに思えた。美女と野獣といったところだ。
「どうして結婚したの。おじちゃんのことが好きなの」そうね、と女性は、はぐらかし、ちゃんと答えてはくれなかった。あの男に迫られて仕方なく結婚したんだろう。可愛そうなお姉ちゃん、とミラは思ったものだ。
 オリブラに冬が近づいてきていた。冬ごもりの準備のため、父は薪割りで忙しい。母も一冬乗り切るための保存食の準備に掛かり切りだ。この頃になると、女性はかなり回復していて、母の手伝いをしていた。そのため、ミラは女性と遊ぶことが出来ず、仕方なく弟のノエルの面倒を見ることが多くなっていた。
 そんなある日、ミラは一人、森で遊んでいる内に、いつの間にか奥深くまで迷い込んでしまった。お父様、お母様と必死で叫ぶが、何の反応もない。代わりに鳥の鳴き声が聞こえる。いつもなら何とも思わないが、今は恐ろしく感じられる。ミラは泣きながら深い森の中を彷徨い歩く。
 夕闇が迫る頃、両親は娘がいない事に気付いた。「ミラがいない」何度も大声で名前を呼ぶが返事はない。二人は顔面蒼白になった。もしかしたら、森の中に迷い込んだのかもしれない。
「どうした」夫妻の尋常ではない様子に男が尋ねる。「ミラがいない」「何だと」いつもなら、ノエルと遊んでいるはずだが、ノエルは一人で、裏庭で遊んでいた。
「私が気を付けていなかったから」母は今にも泣き崩れそうだった。「私もです。ミラちゃんへの注意が足りなかった」母と保存食作りに励んでいた女性も悲痛な表情だ。
「何処か行きそうなところはあるか」男が聞く。「恐らく森の中に迷い込んだに違いない。捜しに行ってくる」父は飛び出そうとする。
「少し待て」と男はしばし静かに辺りを見回す。そして目を瞑り、まるで瞑想するように佇む。皆がじっと見守る中、男が目を開けた。
「日暮れも近い。闇雲に捜しても見つけるのは難しい。お嬢ちゃんがいる可能性が高いのは、東の森か、南の森だろう。トラル、お前は東の森へ行け。俺は南の森へ行く。奥さんとお前はここに残り家の近くを探してくれ」男は皆に指示した。
 この男が不思議な能力を持っているのは知っていた。まるで空から俯瞰しているかのように周辺の地形を読む。さらには相手の心理に応じて行動を予測、推測するのに長けていたのだ。常人離れしたこの能力を目の当たりにしたのは、一度や二度ではない。「わかった」と、トラルは男に答えた。この男に頼るしかないと判断したのだ。
 夕暮れが迫り、泣き疲れたミラは木陰でポツンと座っていた。いくら泣き呼んでも父と母からの返事はない。迷子になったんだ、と幼いミラは自分の置かれた状況をようやく理解した。
「お腹空いた。お水飲みたい」半日近く、何も食べておらず、水も飲んでいない。もはや歩き出そうとする力もなかった。
 疲れが押し寄せ、すうーと眠りに入ろうとした時だった。バキッという音が前から聞こえた。何者かが枯れ枝を踏みしめた音だ。しかし、疲れ切ったミラは何の反応も示さない。すると、また、バキッという音がした。先程より近い。ふと、ミラは目を開く。目の前に黒い巨体がいた。フウフウと荒い鼻息を吐きながら強い獣臭を発している。
 ミラは熊をこれまで見たことがない。しかし、両親から話は聞いていた。大きな体を持つ生き物で人間を襲うから、近づいてはいけないと。その生き物が目の前にいる。三メートルはあろうかというほどの巨体を前に恐怖で声が出ない。悪臭のする鼻息が顔にかかり、口からは鋭い犬歯が覗いているのが見える。
 私を襲う気だ、と分かった。熊はゴオーと咆哮し、丸太ほどはある太い腕を振りかざす。手の先に鋭い爪が見え、ミラはキャアと悲鳴を上げた。
 その時、熊の後ろから、オオウという物凄い咆哮が聞こえた。あまりの迫力に、思わずビクッとなった熊は、振りかざしていた手を下ろし後ろを振り返る。あの男が物凄い形相で両手を広げ立っていた。
「こっちだ!」男の体格は、2メートルを超え、がっしりしているが、目の前の熊と並ぶと流石に劣って見える。しかし、圧倒するほどの迫力を全身からみなぎらせている。
 よほど腹を空かせていたのか、熊は逃げようとはせず、逆にジリジリと男に迫っていく。そして、右手を振りかざすと、男に向かって思い切り振り下ろした。
グオっと男が苦痛に満ちた声を発した。鋭い爪に胸をえぐられたのだ。見る見る鮮血が滲む。
 しかし、男は怯まず逆に右の拳を熊の額に見舞う。オオーンと雄叫びを上げ、熊は後ろに仰け反った。恐るべき男のパワーである。熊はふらつき真っ直ぐ立つことが出来ない。何とか平衡を保とうとしている内に遂には仰向けに倒れてしまった。ドシンという音が森中に響き渡る。
 それを見たミラは、うわーんと泣きながら男の元に駆け寄る。熊から受けた胸の傷の痛みで男は片膝をついていたが、少女を右腕で抱き止めた。
「お嬢ちゃん。怪我はないか」「ううん、大丈夫」「そうか、良かったなあ」男は安心したような表情を浮かべた。こんなに優しく穏やかな顔をミラは初めて見た。
 ササっと何かが動く音がする。
「あ」倒れている熊の元に小熊が二匹駆け寄ってきた。お母さん熊だったんだ。小熊は心配そうに母熊をさするがビクとも動く気配がない。
「あの熊さん、死んじゃったの」「大丈夫だ。手加減してある。しばらくすれば起き上がる」「良かった」ミラは胸を撫で下ろす。
「お嬢ちゃんを襲った熊なのに心配なのか」「うん。だって、死んじゃったら小熊が可愛そうだもの」男は微笑んだ。
「お嬢ちゃんは優しい良い子だ」男に頭を撫でられ、ミラは女性が言っていた言葉を思い出す。「あの人は、とても優しい人なのよ」お姉ちゃんの言う通りだった。おじさんは小熊がいることを知って、手加減したんだ。
「さあ、帰ろう。父さん母さんが心配している」「うん」男はミラを背中におぶってくれた。父のように逞しく、そして優しい背中だった。
 帰り道に色々な話をした。住んでいた町が異国の兵隊に攻められ、そこに住む人々が酷い目にあったこと。妻と二人で何とか逃げて来たこと。父とは友人であること。
 額の傷は異国の悪い男につけられたのだという。その悪い男は必ずやっつけてやる、と言った。その時だけは凄まじい形相だった。「家に着くまでに、もう少し時間がかかる。眠るがいい」男の背中に安堵したミラは眠った。
 家に辿り着いた時は、すっかり暗くなっていた。松明を炊いて待っていた母はミラの姿を見ると駆け寄り、良かった、良かったと泣きながらミラを抱きしめる。女性も泣きながらミラの背中に手を押し当てて喜ぶ。
 しばらくすると、憔悴しきった顔でトラルが帰って来た。「ミラか」愛娘の姿を認めると、がっしりと抱きしめる。目には涙が浮かんでいた。
「恩に着る。お前はミラの命の恩人だ」トラルが頭を下げる。「何を言っている。お前に受けた恩を少し返しただけのこと」男は女から傷の手当を受けていた。胸に受けた熊の爪による引っ掻き傷は常人であれば致命傷となるほどだ。男の厚い筋肉がまるで鎧のように守ったのである。
 その日からミラは二人の住む小屋に頻繁に行くようになった。今では男のことを怖いとは思わなかった。男もミラを可愛がってくれた。
 そんな平穏な日々が続いたある日、母がミラに言った。女性のお腹には赤ちゃんがいる、だから、あまり無理をさせてはいけないのだと。ミラは歓喜した。弟のノエルが可愛く、色々と世話をしているミラである。もう一人、弟か妹が出来るんだ、そう思うとワクワクせずにはいられない。
 堪らず女性の元に行くと、幸せに包まれた穏やかな笑顔で静かに座っている。「お姉ちゃんのお腹に赤ちゃんがいるの」「そうよ。フフ」わあーとミラは側に近寄る。
「触ってみて」「いいの?」と目を輝かせてミラは女性のお腹を恐る恐る触わる。
「フフ、どう、赤ちゃんが動いているのが分かる?」「うん」と答える。
「お腹の中の子が生まれたら、可愛がって頂戴ね」「うん」とミラは笑顔で答えた。いつ生まれて来るのだろう。きっと可愛いい赤ちゃんが産まれてくるに違いない。一杯可愛がってあげよう、とミラは今から待ち遠しい。
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