第6話 オリブラの民(2)

文字数 8,208文字

 家に帰ると母親のライラが出迎えてくれた。予想どおり鹿肉のスープの香りが家中に漂っている。
「御帰りなさい。首尾はどうでした」
 ライラは夫から鹿の毛皮で出来た上着を預かる。年は夫と同じく40歳位で、少しふっくらした体型と穏やかな笑みを絶やさない女性だ。
「うむ。20頭の群れを捕まえることが出来た」
「それは、それは、最近ではそんな数の群れは珍しいのではないですか」
「うむ」
「母さん、只今」「お袋、帰ったぜ」
「御帰り、ノエル、ディーン。怪我はなかったかい」
「怪我なんて、全然してないぜ」「平気だよ。それより早くスープが呑みたいよ、腹ペコだ」
 息子達は一刻も早くスープが呑みたかった。
「はいはい。すぐに食事にしましょう。ミラ、ジュン、お父様達が帰ってきたよ。晩御飯の支度を手伝っておくれ」
「お父様、御帰りなさい」「お父様、お帰り!」
 奥から妙齢の女性と少女が出てきた。長女のミラ・ロードと末娘のジュン・ロードである。
「あ、ディーン兄イ、お帰り。ねえ、どうだった?馬の群れは捕まえることが出来たの?」
 すかさずジュンが纏わりつくようにディーンの右腕に両腕を組んで離さない。
 少し癖毛で茶色のショートカットの髪、大きく見開いた青い瞳、はち切れんばかりに瑞々しく健康的に育った少女は一家のマスコット的存在だ。
 ディーンとは二つ年下の妹である。父から貰った星の形をしたペンダントがお気に入りで、いつも身につけている。
「相変わらずディーンにべったりだな。そんなんじゃ嫁に貰おうという男はいないぜ」
 どかっと担いできた荷物を床に下ろしながらノエルがからかう。
「ふーんだ。ノエル兄イは乱暴だから嫌いよ。いいもん。私、ディーン兄イと結婚するから」
「そりゃあ良いかもな。お前の面倒を見れるのはディーンしかいないぜ。ハハハ」
「もう酷い、ノエル兄ィの馬鹿」
 ジュンがプンと膨れた顔を見せる。
「ノエル、ディーン、御帰りなさい。疲れたでしょう」
 ミラが優しく声を掛ける。
 すらりとした細身の体と茶色で裾が少しウェーブの掛かった長い髪が印象的な若く御淑やかな女性だった。
 首筋に見える月の形をしたペンダントが似合う。これも妹のジュンと同様、父トラルから貰ったものだ。
 幼い時から村一番の美女と呼ばれ、5年前に評判を聞き及んだマチスタの豪商に請われ跡取り息子の元に嫁いだのだが、この春に家に戻ってきていた。
 5年間、子宝に恵まれなかったミラは、夫が密かに囲っていた妾に子供が生まれたことで次第に居場所を失い、僅かな手切れ金と共に一方的に離縁されたのである。
 この仕打ちに家族は激怒した。中でも血気盛んなノエルは、豪商の家に押しかけてやる、と言って聞かなかった。
 この時ばかりは普段は温厚なディーンもノエルと一緒に相手の元に押しかけると怒りを露わにしていた。
 しかし、「やめろ、そんなことをしてもミラが余計に哀しむだけだ」との父の言葉に、弟達は行き場のない怒りで悔し涙に暮れたのである。
 いつも冷静沈着な父親がワナワナと手を振るわせながら無言で怒りに耐えているが分かった。
 自慢の娘である。見目も美しく育ったが、教養もあり、何より慈悲の心を持っていた。誰に対しても訳隔てなく、困っている人を見ると手を差し伸べる娘だった。
 もうあそことは取引はせぬ、それ以来、ミラの嫁ぎ先の豪商とは手を切った。木材の加工も手掛けていたその豪商は定期的に木を買ってくれる、云わば、お得意先であった。経済的には痛手である。
 しかし、そもそもミラを嫁に出したのは下心があってのことではない。ミラの美しさを聞き及んだ行商が何度も息子の嫁にとせがんできたのが切っ掛けだった。
 何度も断ったものの、行商は中々諦めず段々と結納金の額を大きく提示する始末だった。
 金の問題ではない、ミラには婿を取り共にオリブラで暮らさせるのだと言っても豪商は納得しなかった。
 諦めさせるため、ならば豪商の息子が婿に入り、オリブラで木こりをする気があるのならば考えても良いと答えたが、それでも諦める気配がない。
 オリブラは貧しい村である。玉の輿を断るトラルのことを村人達は、さすが変人トラルよ、と影口を叩いていた。以前よりトラルは村人から変人扱いされていた。
 そもそもトラルがオリブラに住むようになったのは20年前のことである。身重の妻と幼い娘を連れて、ふいに現れた逞しい男を村人達は奇異な目で見ていた。
 何処から来たのかと尋ねるとローラル平原から来たのだという。怪我を負って騎兵隊を退役となったため、生活の糧として木こりをしに来たのだということだった。
 その毅然とした立ち振る舞いや自然と溢れ出す教養的な言動から、村人達は身分の高い人間なのではないか、と噂し合った。只の騎兵隊員ではない、高い位の軍人だったのではないか、という推測も広がった。
 しかし、謙虚で誠実なトラルは次第に村人達に受け入れられ、寡黙で少し変わった男という認識ではあったが、自然と交流するようになっていた。
 トラル自身も、来る者拒まず、去る者追わずという方針で接していたので、助けを求めてくる村人には分け隔てなく手を差し伸べた。
 その年は百年に一度の天候不順に見舞われた年だった。例年より気温が上がらず、作物は不作、餌となる草や木々も少なかったことで家畜も栄養不足に陥った。また鹿などの狩りの獲物も極端に少なかった。
 各地で餓死する者が続出する悲惨な状況はオリブラも例外ではなく、育ち盛りの子供達4人を抱えていたトラルは食料の調達に追われていた。
 そんな時である。ミラが豪商の跡取り息子の元に嫁ぐと自ら申し出たのである。それと引き換えにミラは家族はおろか村人達がしばらく暮らせるほどの食糧を供給することを豪商に約束させていた。
 こうして、オリブラの村人達は餓死の危機から脱したのである。この時、村人達は涙を流して感謝した。そしてミラを女神のような女性だと讃えたのである。
 しかし、ミラが離縁されて戻ってくると、村人達は白い目を向け始めた。中にはミラが不貞を働き離縁されたのだ、と有りもしない内容の影口を叩く者もいた。
 人間とは何と愚かであさましいものよ、とトラルは心を痛めるミラを慰めていた。
「おお、ミラ姉、俺は元気だぜ、しかし腹が減ったぜ。早いとこ鹿肉のスープを盛ってくれよ」
「まあ、ノエルったら。フフフ」
 ミラは声を立てて笑った。
「俺もお腹すいたよ。ミラ姉さん。今回、作戦を練ったのは俺なんだぜ。ヘヘ」
「すごいわ。ディーン。でも無理をしては駄目よ。怪我をしたら大変よ」
 姉ながらミラより美しい女性を見たことがなかった。マチスタの町にもミラほどの美女はいない。しかも女神のように誰にも優しい。結婚するならミラ姉さんのような女性がいいな、とディーンは思っていた。
 身に着けているアクセサリーは月の形をしたシンプルなペンダントだけだが、返ってミラの美しさを際立たせている。
「ミラ姉の言う通りよ。もしディーン兄イが怪我したら、わたし嫌よ」ジュンが本当に心配そうな顔をする。
「何だよ、俺のことは心配じゃないのかよ」ノエルが少し拗ねたような顔をする。
「ノエル兄イは平気よ。野生馬とぶつかったって死なないもの」
「ひでえ言い草だぜ、俺は化け物かよ」
「ジュン、あまりひどいことを言っては駄目よ。ノエルもあまりジュンのことを誂わないの」
 ミラに窘められ、ジュンはハーイと返事をした。ノエルも、はいはいと返事をする。
 相変わらずの賑やかさにトラルはフフと笑みをこぼした。家に戻ったという実感がわく。
「ミラ、ジュン、変わりなかったか」
「うん。私、お父様達が留守の間、馬の世話をしたのよ」
「ほう、偉いなジュン」「すごいでしょう」
「ミラも変わりないか」「はい」
 対照的な姉妹だった。御淑やかで優しい姉と活発で甘えん坊の妹。目に入れても痛くない娘達だった。
 ふと壁掛けに目をやると立派な牛革の上着に気付く。オリブラの村人達でこんな上物を着る者はいない。
「誰か来ているのか」
「モリトルさんですよ。二時間ほど前からお待ちですよ」母が答える。
「ほう、モリトルが」
 トラルは急いで居間に入った。薪をくべた暖炉がパチパチと小さな火花を散らしている。
「モリトル、久しぶりだな」
「これは、これは、トラル様。御無沙汰しておりました。お元気そうで何より。奥様の御言葉に甘えて家の中で待たせて頂いておりました」
 少し薄くなった頭髪を撫でながらモリトルは挨拶をした。彼は小柄な中年の男で、絹など織物の素材のほか薬も扱う行商人だった。
 仕入れ先はローラル平原の町々が主であるが、時にアデリー山脈の山麓の村々から貴重な品物を仕入れることもある。彼は馬を二頭連れて単独で行商するのが常だった。
「あ、モリトルじゃないか。久しぶりだね。元気だった」ディーンが駈け寄る。
「おお、これはディーン坊っちゃん。大きくなられましたな。お元気でございましたか」
「ぼっちゃんと呼ぶのは止めてくれよ。恥ずかしいだろ」
 いつも、そう文句を言うのだが、モリトルは、坊っちゃんは坊っちゃんですよと意に返さない。ディーンの姿を見てモリトルは感慨深い様子だった。
 小さい頃から可愛がってくれた。いつも珍しい品々をお土産に持ってきてくれた。トラルに頼まれ語学と数式の本を調達してきたのもモリトルである。
「頼まれた物は持ってきてくれたか」テーブルに座った父は馬の乳で作った茶を呑んだ。
「はい、間違いなく」
「おお、良く手に入ったものよ」
「このモリトル。御注文を御受けしたからには、品物は必ずお持ちいたします」
「うむ、さすがだな。それでは早速見せてもらおうか」「はい。只今」
 モリトルは馬に背負わせた木製の貨物箱から獣の革を取りだし、トラルに差しだした。彼はそれを隅々までなぞるように摩る。
「うむ、良い毛皮だ」
「御気に召されましたか」
「うむ」
「これはアデリー山脈にしか生息しない銀虎の皮で出来ております。これを着ていれば、例え灼熱の砂漠であろうが木々も凍てつく大地であろうが旅人の体を守りますぞ」
「よく仕入れる事が出来たな」
「苦労しましたぞ。馴染みの狩人からようやく仕入れることが出来ました」
「エムバ族の狩人か」「その通りで」
 うむ、とトラルは満足した。
「今宵はゆっくりしていくといい。長旅で疲れたであろう」
「これはありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

 炊事場から娘達の楽しそうな歌声が聞こえる。
 
  森にベリーの花が咲いたなら
  実を啄む小鳥のように
  可憐に歌っておくれ
  私の愛しき木こりの娘よ

 オリブラ地方に伝わる民謡、木こりの娘という曲が姉妹のお気に入りだ。
 その夜、客人を入れた七人で食卓を囲んだ。ディーンはモリトルから旅の話を聞くのが好きだった。遠くの地に住む人々、珍しい獣、まるで冒険記のような話はディーンを興奮させた。
 一家は、まず神に感謝の祈りをささげる。オリブラに住み着くようになってから間もなく、ロード家ではルエル教を信仰するようになっていた。
 聖ルエルが200年前に回教した、比較的新しい宗教である。人類皆平等と愛を持って他人に接することを説いた聖ルエルは布教中、ミロノ人の迫害を受け、アルフレムの地で処刑されていた。
 一家の中でも長女のミラが一番信仰が厚かった。
 トラルはモリトルに酒を勧める。ノエルも相伴に預かる。上機嫌に酔った三人の酒盛りは深夜に及んだ。
「かなり頂きました。私目はこれで」
「何だモリトル、まだいいだろう」赤い顏のノエルが引き留める。
「いやいや、もうこれ以上は」「これ位でだらしないぞ、モリトル」
「フフ、ノエル。お前もかなり酔っているぞ、今夜はこれ位にしておけ」
 父の言葉にノエルも仕方なく自分の部屋に消えた。
「ノエル様もたくましくなられましたな」「うむ。腕力だけは一人前よ」
「ミラ様も相変わらずのお美しさ。ジュン様もお健やかに御成長されて何よりですな」
「うむ。俺には出来た子らよ」
 そう言って、トラルは牛の乳から作った酒を呑んだ。
「いかがですか、真珠でよろしければ、仕入れて参りますぞ。ブレスレットでも、ピアスでも何にでも加工して参ります。ミラ様、ジュン様に良く御似合いになりましょう」
「いや、それは将来の夫となるべき男から受け取るのがいいだろう。そなたの仕入れてくる真珠は素晴らしく、値段もかなり負けてもらっているが、我が家にそんな余裕はない」
 10年前に、妻のライラには真珠のネックレスを贈っている。シンプルなデザインの物だったが真珠は高価である。しかし、モリトルはかなり安くしてくれた。
「ところでトラル様。あの方とお会いしましたぞ」
 ムっとトラルの顔色が変わった。
「どこでだ」「エムバの里の近く、アデリー山中でございます」
「変わりはなかったか」
「はい。相変わらずの御健勝ぶりでございました」
 お互いに酔っているにも関わらず目が真剣だった。
「トラル様への御伝言を御受けして参りましたが、今よろしいですかな」
 辺りを見渡しながら、モリトルが聞く。
「うむ、構わん」大体の予想は付いていた。
「ディーン様をテネアに向かわせたい御意向。是非、トラル様にも承諾してほしいとのことでございます」  
 モリトルは囁くような声で伝えた。
「それは断ったはずだ。ディーンはもはや我がロード家の息子、奴とは関係がない」
「やはり、そうでございますか」モリトルはふうと溜息をつく。
「済まぬなモリトル。奴と私の間に挟まれ気苦労が耐えぬであろう」
「いえいえ。そんなことはございませぬ。ただ、私はディーン様のお健やかな御成長をお手伝いさせていただきたいだけでございます」
 うむ、とトラルは小さく頷く。
「ディーンには穏やかな暮らしをして欲しいと願っている。このオリブラで木こりをやって一生を過ごすのも良い。ただ、あいつにはあいつの人生があろう。その邪魔をせぬよう、教養と剣の修練だけは与えてきたつもりだ」
 テネアはオリブラから14日ほど掛かるローラル平原の町である。テネアに向かわせたいということは、ディーンを騎士にするためテネア騎兵団に入れたいということだろう。
 実はディーンは一家にとって血の繋がらない息子だった。トラルの親友とその妻との間に生れた子である。
 病弱だった本当の母親はディーンを産んですぐに亡くなった。また本当の父親はディーンがまだ母親の胎内にいる時にオリブラを出ていった。己の復讐を果たすためである。
 ディーンに本当の両親の記憶はない。
 物心ついた時から、トラル、ライラのことを本当の両親だと疑わず過ごしてきた。
 ミラ、ノエル、ジュンとも当たり前のように兄弟として一緒に暮らしてきた。
 誰が見ても、この仲睦まじい一家の中でディーンだけが血の繋がらない家族だとは露ほども思わないだろう。
 そんなある日、ディーンが10歳になった時のことだった。トラルは家の近くにある静かな森の中に家族全員を連れてきた。
 小さな墓標があるこの場所を、ディーンはよく知っていた。特に姉のミラには何度も連れてこられた場所だった。
 家族にとって、大事な人のお墓なのだと教えられてきた。
 ミラ、ジュンが摘んできた花を手向ける。
 そして家族全員が片膝をつきながら両手を組み、祈りを捧げた後、「ディーン、良く聞きなさい」と、おもむろにトラルが話を始めた。
「実はお前は私と母さんの血の繋がった息子ではない。お前を産んだ実のお母さんは、このお墓に眠っている」
 そう言われて墓標を見る。ディーンを産んですぐに亡くなったのだという。
 ミラ、ノエル、ジュンとも自分だけが血の繋がった兄弟姉妹ではないのだという。
 突然のことに言葉が出てこなかったが、ジィーと目の前の墓標を見つめているうちに、自然と涙が溢れ出てきた。
 何故か悲しくはなかった。自分でも理由が分からないまま10歳のディーンはただ泣いていた。
 ライラがギュッと抱きしめてくれた。
「可哀想に。びっくりしただろう。でも何も心配はいらないから安心しなさい。ディーン。お前は私達の大事な息子。これまでどおり私のことを母さんと呼んでおくれ」
 ミラも後ろからそっと背中を抱く。
「そうよ、ディーン、あなたは私達の大事な家族。いつまでも家族の絆は無くならないわ」
 8歳だったジュンもこの事実を初めて知ったのだろう。泣きながらディーンの手を握り締め、「ディーン兄ィ、泣かないで」と健気に慰める。
「ディーンよ、俺がお前の兄で、お前が俺の弟であることに変わりはないだろう」
 ノエルの問いかけにディーンは泣きながらウンウンと頷いた。
「そうだ、ディーン、血の繋がりがあろうが無かろうが、お前は私と母さんの息子だ。私達は家族だ」
 トラルの言葉に、ディーンは力強く、うんと頷いた。 
 本当の両親は戦火を逃れ、親友である父を頼って来たのだという。
 本当の父親は心優しく力強い男だったと、トラルは言った。
 本当の母親は美しく優しい人だったと、ライラは言った。
「本当の父さんは何故、お母さんと僕を置いて遠くに行ってしまったの」
「自分の故郷を踏みにじった敵を許せなかったのだ。遠くの地まで敵を追っていった」
 このときトラルはディーンに、一つだけ事実とは異なることを伝えていた。
「そして死んだ」
 
 今でもトラルはあの日のことを思い出す。身重の妻を残してオリブラを出るという親友の男を説得したが、男は意志を変えず激しい口論となった。
 そして男の妻は男の意志を尊重するといい引き留めなかった。トラルと喧嘩別れの状態で出て行った男はしばらく消息不明だったが、10年前、ディーンが6歳になった時、生きていることをモリトルから伝え聞いた。
 未だトラルは男を許してはいなかったが、モリトルが色々と世話を焼いてくれたお陰で互いの近況を伝え合うようにはなっていた。
 その男がディーンをテネアに向わせたいという意向を持っていると知ったのは最近のことだ。予め予測していたことではあった。
 しかし、これまでディーンを実の息子のように育ててきたトラルは憤りを感じていた。だが、ディーンが背負っている宿命には抗えないことも分かっている。
 自分の将来は本人に選ばせるしかない、とトラルは覚悟を決めた。
「それと、近くローラル平原に移動されるとのことでございます」
「ローラル平原に?」
「はい」
「しばらくローラル平原には来ていなかったはずだが、何事かあったのか」
「はい」モリトルの顔つきが一層真剣になった。
「アジェンスト帝国に動きがあるようでございます」
「何と、それは本当か」
 ガタンとトラルが酒の入った器を床に落す。
「はい、真でございます」
 モリトルが声を潜めながら答える。アジェンスト帝国がローラル平原に侵攻してくる、その衝撃にトラルは拳をグっと握り締めた。
「何時になる」
「そこまでは分かりませぬが、今すぐではないようです。数年後になるとの見立てです」
 アジェンスト帝国軍がローラル平原に侵攻してくるには険しいアデリー山脈超えを行う必要がある。その準備に数年は掛かるはずだった。
「それで、ディーンをテネアに向かわせるのを早めたいということか」
「はい、その通りでございます。そして、あの方は邪悪な者が近づく気配を感じておられます。そのためにもディーン様が騎士として早く成長されることを望んでおられるのです」
「邪悪な者?」「はい」
「もしかして、20年前のあの男のことか」
「はい。その通りでございます」
 20年前、テネア、そしてローラル平原の町々で悲劇を引き起こした男。突然、消えたように消息を絶ったあの男が、またローラル平原に現れるということなのか。
「うむ。分かった。御苦労だったな。疲れたであろう。今宵はゆっくりと休むがいい」
「ありがとうございます。それではこれにてお暇を」
 モリトルは客間に向かおうと立ち上がった。
「モリトル」それをトラルが呼び止める。
「はい?」
「仮にディーンがテネアに向うとして、あいつは騎士になれると思うか」
 モリトルは振りかえりトラルを見た。
「御心配には及ばぬと存じます。ディーン様は逞しくお育ちになりました。立派な騎士に御成りになるでしょう。それはトラル様が十分にご存じなはずでございます」
 うむ、とトラルは頷いた。
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