第13話 魅惑の貴婦人(3)

文字数 3,506文字

 夜もかなり更けていた。月夜が差し込む寝室の中、女の豊かな黒髪が乱れ、ぱらぱらと男の逞しい胸にこぼれ落ちていく。女は荒い息で苦悶するような表情を浮かべると男の胸にガクッと倒れ込んだ。
 その背中はしっとり濡れていた。女はふうと静かに吐息を漏らすと男に口づけする。「素敵だったわ」口元のホクロが妖しく男を魅惑する。「私もです」甘く囁きながら、女の顔を抱き寄せ口づけを返す。
「はしたない女ね。男の上で快楽を貪るなんて」「そんなことは思ったこともありませんよ。夫人の喜びは私の喜びなのです」
「フフ、洗練された素敵な男性になったものね。白の貴公子」
「貴女のお陰です。ナルシア夫人」テプロは夫人の顔を引き寄せ再び口づけた。
 サマンド最高司令長官の第三夫人であるナルシア夫人は自身の屋敷に一人で住んでいた。夫であるサマンドは宮殿近くの本邸に本妻と住んでいる。第二夫人と第三夫人は別宅に住み、夫が訪ねて来るのを待つのが習わしだった。
 勿論、一人で住むと言っても召使いや警護の者もいる。テプロが夫人の屋敷に入れたということは、その者達も承知しているということである。
 当然、夫であるサマンドは居ない。彼はマントヴァ宮殿を出た後、ナルシア夫人を送り届けると、そのまま何処かへと去って行った。
 一体、何度愛し合ったことだろう。年上の貴婦人との情事は尽きることがなかった。
「なにか、飲み物を持って来ましょう」夫人の肩に手を回しながら甘く囁く。
「ううん、いいわ。私が持ってくるから」
 裸のまま、夫人は立ち上がった。月夜に照らされた滑らかな曲線はいつもテプロを魅了して止まない。装飾が施された瓶とグラスが二つ、ベッド脇の小さなテーブルに並んだ。
「スピンニア産のワインよ。貴方の御口に合うかしら」夫人はトクトクとグラスにワインを注ぐ。「スピンニア産は酸味が強すぎると言う人達もいるけど、野性的な味わいを私は気に入っているの」
 二人は裸のまま乾杯する。そう言えば初めてナルシア夫人と出逢った時も夫人はスピンニア産のワインを美味しそうに飲んでいたことを思い出す。
 テプロがナルシア夫人と初めて出会ったのは、三年前に遡る。思春期の真っ只中だった頃、父親であるアランスト公爵が主催した舞踏会でのことだった。
 この頃のテプロは、世の習わし全てに嫌悪感を抱く、尖った性格の少年だった。王家ゆかりの有力貴族出身であるが故に、自分をちやほやする周りの人間が不快に思えた。武力は軍隊に任せっきりで、自らは弓を取ることもない貴族の暮らしぶりに嫌悪感を抱いていた。
 強くなりたい。身分制度に縛られずに生きてみたい。サンド流剣術にのめり込んだが、有力貴族出身のテプロに道場の者達は冷やかな眼差しを向けた。中には、ダンスと薄汚い政治しか出来ない貴族の坊ちゃんに何が出来るのか、と表立って馬鹿にする者もいた。
 おのれ今に見ていろ、と増々武術の修練に励んでいた頃の話である。強くなること以外に興味がなかったテプロには、舞踏会など何の意味も見いだせない無駄な物にしか見えなかった。
 また、着飾ってくる女性達は何もせず遊んで暮らしているだけの存在と思って疑わなかった。
「舞踏会に来る女など無駄な存在です。そんな者達とお近づきになれなど、まっぴら御免です」
 テプロは父親に反抗する。社交性の重要さを父親は説くのだが、全く聞く耳を持たなかった。そんな息子に父親は手を焼き、半ば強引に舞踏会に出席させていたのである。自らが主催する舞踏会に御曹司が出席しないという事態を避けたかったのだ。
 舞踏会の華やかな雰囲気の中、テプロは不機嫌そうな表情で一人壁際に坐っていた。同じ年頃と思われる男女もいたが、楽しそうな表情を見ると話しかける気にすらなれない。
 この国では14歳になると成人とみなされる。15、6歳で結婚するのも珍しいことではない。貴族の子息であれば舞踏会に参加し始める歳であった。
 アランスト家の御曹子であるテプロに近寄ってくる者たちは多かったが、不機嫌そうな様子に一言二言言葉を交わすとそそくさと去っていく。
 もう、引き上げたかった。途中で退席すれば父から小言を言われるだろうが、構わない、と半ば自棄になっていたとき、甘い香水の香りがした。
 顔を見上げると、思わずハッとなるような美しさの女性がいる。口元のホクロが妖艶だった。
「不機嫌そうね」
 面と向かってこんなことを言う人はいなかった。何も返す言葉がなく押し黙ってしまう。
「ここは会話を楽しむところよ。黙っていては何も伝わらないわ。アランスト子爵」
「子爵という呼名はあまり好きじゃない」
「フフ、やっと口を開いてくれたのね。はじめまして。私はサマンド・カインの第三夫人、ナルシアよ」  
 ドレスの両裾を摘み上げて挨拶する。
 思いがけない人物だった。サマンド最高司令官の夫人が話しかけて来るとは。そういえば、ナルシア夫人はその美貌で男を魅惑し何人もの愛人がいるのだと噂に聞いたことがある。途端に警戒心が強まる。
「隣に座ってもいいかしら」
「あ、ああ」
「フフ、こういう時は席を立って、女性を先に座らせるのがマナーよ」
 夫人は飲み物を片手に優雅に寛いでいる。一体、自分に何の用があって来たのだろう、と疑問が湧き落ち着かない。
「ねえ、子爵。こういう時は女性を会話で楽しませなければならなくてよ。折角、魅力的な容姿をお持ちなのに勿体無いわ」
「そんな必要はない」
「フフ冷たいのね。女性に対して、そんな口を聞いたら、誰も貴方のことを好きになる人はいないわ」
「だから、必要ないと言っている。女など、ただ着飾って遊んでいるだけ。そんな輩に媚びる必要などない」
 ふうーと夫人は溜息をつく。長いまつ毛がテプロを見つめる。さすがに少し言い過ぎたかと後悔したが、若さ故、後に引けない。
「貴方、将来、どうしたいのかしら。何になりたいの」
「聞いてどうする」
「フフ、もしかしたら、貴方の力になれるかもしれなくてよ」
 テプロは押し黙った。どうせ冷やかしに聞いているだけだろう。怒りが込み上げてくる。
「貴方から燃えるような情熱を感じるわ。この世界を変えたいというのかしら。そう、まるで新しい国を創り王になりたいとでもいう感じね」
 頭を雷槌で撃たれたような衝撃が走る。まるで自分の心中を見透かされたようだ。
「あら、もしかして図星だったのかしら」
 妖艶な笑みに心臓を掴まれそうになる。
「どうせ、馬鹿にしているのだろう。そんなことが出来る訳ないと。子供の戯れごとだと」
「そんなことは思っていないわ。だけど、フフ、今の貴方のままでは、新たな国の王になるなんて到底無理ね」
「何い」思わずテプロは立ち上がった。
「あら、怖い。怒らせてしまったようね。ごめんなさい。でも貴方、女性なんか必要ないと言っていたけれど、女性を愛せないようでは王になどなれないわ」「どういうことだ」
 夫人はグラスのワインを優雅に飲み干した。
「珍しい。スピンニア産のワインね。とても美味しいわ。この酸味の強さが溜まらないの。もう一杯頂こうかしら」
 召使いに合図を送ると、すぐにワインが運ばれてくる。夫人はグラスに口をつける。
「質問に答えろ。女を愛すことが、王になることに何の関係があるのだ」
「女は男に愛されることによって満足するの。そうね。例えば、王になるには軍隊がいるわ。貴方、どうやって自分の軍隊を揃えようと考えているのかしら」
「すぐには無理だ。まずは軍に入らなければならない、そこで実積を作らなくてはならない」
 何故か素直に答えている自分が不思議だった。こんなことを他人に話すのは初めてだった。
「フフ、そうね。妥当な考えってところかしら。でも幾ら手柄を立てても軍の上層部が評価してくれなければ、何にもならないわよ」
「どういうことだ」
「もし、私が貴方を気に入れば、主人に貴方のこと上手く話してあげても良くってよ」
 妖艶な笑みで見つめられ、テプロは動揺した。あんなに毛嫌いしていた政治的な駆け引きや調略だったのに、思わず乗ってしまいそうな自分がいる。
「逆に貴方のこと、悪く伝えてあげることもできるのよ」
 澄んだ美しい湖のような夫人の碧い瞳に湖底深くまで引きずり込まれるような危なさを感じずにはいられない。
「どうかしら。私のことを満足させてくれたら、主人に上手く取り次いであげてもいいわ。どう、貴方にとって悪くない話じゃないかしら」
「満足させるとは、一体、何をすれば」
「そうね。まずはここを抜け出して私の館に一緒に来てもらおうかしら」
「夫人の館に?」
「そう」夫人の碧い瞳が一瞬、妖しく光ったような気がした。
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