第41話 ミラの決意(2)

文字数 4,234文字

 それからしばらく経ったある日、父と男が口論しているのが聞こえた。父がいつもより激しい口調で怒鳴っている。どうしたんだろう。
「お腹の中の子はもう少しで生まれるのに、行くと言うのか」「俺は行かねばならん」「母体も決して良い状態じゃないのは分かっているだろう。どういうつもりだ」
 おじちゃんはお姉ちゃんを置いて何処か遠くに行こうとしているんだ。だからお父様は怒っているんだ。
「テネアは今や、ピネリー王国の領土だ。お前が立ち入る隙などない」「どうしても、あの男だけは許せんのだ」
「お前の気持ちは分かる。だが、過ぎたことより未来に目を向けろ。死者の仇を討つよりも、お前の子供の未来の方が大事だぞ」
「この手で奴の首を討たぬ限り、額の傷の疼きは収まらぬのだ」男は親の仇討ちに執念を見せていた。そして男の額に切創を負わせた相手でもあるようだった。
「奴はもう国に帰ったのだ。どこにいるかも分からん。まして、お前一人で何が出来ると言うのだ。冷静になれ。目を覚ませ」
「お前の父もあの男に殺されたのだぞ。悔しくないのか」「悔しくない訳があるか。討てるものならこの手で仇を討ちたい。だが、父上はお前に奴を追ってはならんといったはずだ。父の思いが分からんのか」
「お前に侵略を受けた者達の悲しみと屈辱が分かるのか」「何だと」
「戦うことを捨てたお前には分かるまい」
「貴様!言わせておけば」
 父が激昂し男を殴る。バキっという激しい音と共に男の口から血が滴るが、男は拭おうともせず、その場に立つ。
「お前が何と言おうと俺には使命がある。ローラル平原の龍の源を守るのは、アジェンスト帝国でもピネリー王国でもない。我が一族の役目だ」
そう言って立ち去ろうとする男を、「待て、カレンさんはなんと言っているのだ」と引き留めた時だった。ギイーと扉が開き、身重の女性が現れた。
「カレン」「カレンさん」
 二人の男は振り返り、驚きの声を上げる。臨月間近を迎えた体調は思わしくなかった。ここまでもやっと歩いて来たようだ。
「カレンさん、無理をしてはいけない」
「カレンさん、座って」母が気遣い、すぐに椅子を持ってくる。
「ありがとうございます」
「カレン、どうしてここに来た」
「あなたにお願いがあるの」
「家に戻ってからでもいいだろう」
「いいえ、あなたは戻らない。このままお父様の仇を討ちに行こうとしているのでしょう。ううん、私はそれを止めに来たんじゃないわ。ひとつだけ、あなたにお願いをしたくて来たの」「?」
「あなたが命を掛けて使命を果たそうとしているように、私も命を掛けてこの子を産むわ」
「・・・・・・」
「だから、お願い。生まれてくる子にあなたから名前を送って頂戴」
「カレン」
 カレンは夫の信念、決意が変わらないことを悟っていたのだろう。いつ会えるのか、もしかしたら、もう会えないかも知れない、それを理解した上で気丈に振る舞うカレンに母は涙した。
「男の人は勝手なもの。でもね、女の方が強いのよ。女が強いから男は信念を貫けるのよ」
 ありがとう、とカレンは母に穏やかな顔で礼を言う。「最近思うの。この世界には、きっと神様がいて、私達のことを見守っていらっしゃる。それぞれ神様から与えられた役割を果たすことが大事なんじゃないかって。だから体の弱い私に出来ることは、あなたの子を無事に生むこと。次の世代へ尊い使命を引き継ぐこと」
 妻の言う神様とは古くからローラル平原で信仰されてきた神々とは違うようだった。そういえば、トラル一家もマチスタに来てから、新しい宗教を信仰しているようだった。

 自分の命と引き換えに子供を産もうとしている妻とは、今生の別れになるかも知れない、と男は悟る。
「男の子が生まれたのならば」カレンは静かに男の言葉を待っている。「男の子が生まれたのならば、その子にディーンと名付けよう」
「ディーン、素敵な名前だわ」
「女の子が生まれたのならば、その子にはジュンと名付けよう」
「ジュン、素敵な名前」
 カレンは満足そうだった。男は涙が溢れそうになるのを必死で堪える。そして妻の手を取る。
「済まぬ。この俺を許してくれ。俺にはお前は出来た妻だった。そして、俺にとって、お前以上に大事な人はいない。それは本当だ」「私もよ。あなたの妻で良かった」カレンの頬を一筋の涙が伝う。男は立ち上がった。
「トラル、お前には感謝仕切れぬ。済まぬ。カレンと生まれてくる子のこと、よろしく頼む」男は頭を下げる。
「カレン、達者で暮らせ」そう言って、男は去っていった。
 少し時が過ぎ、カレンは男の子を産んだ。珠の様に元気だった。ミラは喜んで、毎日、赤ちゃんを見に行ったのを覚えている。赤ちゃんは本当に可愛かった。
 その様子をカレンは微笑みながら見守っていたが、日増しに体調は悪さを増して行く。虚弱な体に出産はかなりダメージを与えたようだった。しばらくすると、起き上がることさえままならないほどになった。
「ミラちゃん、お願いね。ディーンのこと、可愛がって頂戴ね」「うん。ミラ、ずっと可愛がるから、心配しないで。お姉ちゃんも元気になって」
「うん。ありがと」カレンは安心したように優しい笑みを浮かべ目を瞑った。
 それから、一週間が過ぎ、カレンは静かに息を引き取った。近くの森の中に建てられた石で出来たカレンの墓標を前に父、母、ミラとノエルは祈りを捧げた。 
 母の胸に抱かれているディーンは何も知らずにスヤスヤと眠っている。父は言った。
「ディーンはこれから、我がロード家の子として育てる。ミラ、ノエル、お前たちの弟だ」
 うんと二人は頷く。そして、お前達と血が繋がっていないことは時が来たら、自分からディーンに話すと父は言った。二人は頷いた。
 柔らかな日差しが溢れる静かな森の中に今日もミラはディーンを連れて来ていた。カレンの墓標に花を手向ける。3歳に成長したディーンには誰の墓であるのかは教えていない。みんなのとても大切な人のお墓だと伝えている。
「どんな人だったの」無邪気にディーンが聞く。「とても優しくて、強い人。お母様と同じ位、私達を可愛がってくれた人よ」ふーんと、ディーンはそれ以上興味を示さず、森の中を舞う蝶々を追いかけている。
 ある日、墓標に新しく手向けた花があった。ミラが手向けたものではない。父や母でもなさそうだった。ふと、ミラは気付く。
 おじさんだ、おじさんに違いない。密かに戻って来ていたんだ。熊のような体躯と鬼のような形相をしていたが、優しい男であることをミラは知っている。お姉さんとどんな話をしたのだろう。ディーンのことを話したのだろうか。
 生まれてきた子は男の子よ。名前はおじさんが付けてくれたディーンだよ。一杯可愛がっているわ。それとお母様が妹を生んだわ。かわいい女の子で、名前はジュンよ。おじさんが生まれた子が女の子だったら、そう名付けるようにと言っていた名前よ。
 ミラが語りかけると、墓標はどこか嬉しそうに見えた。
 さらに時が過ぎ、ミラは日に日に美しく育っていく。12歳になったある日、父は言った。
「ディーンを本当の弟のように可愛がってくれていること。父さんは本当に嬉しい」
「ディーンだけじゃないよ。ノエルもジュンも本当に大事な私の弟、妹よ」
 父は大きく頷く。
「ミラ、お前に頼みがあるんだ。これは父さんの願いでもある」真剣な父の表情に少し戸惑う。
「お父様の願いなら、何でも仰って」
「ありがとう、ミラ。いいかい、よくお聞き。これからお前達はどんどん成長していく。そして大人になったら、誰かと結婚しなければならない」
 思春期を迎えつつあったミラは顔を赤らめる。
「父さんは、お前にディーンの妻になって欲しいと思っている」え、とミラは驚く。
「ディーンと結婚して、ここでずっと暮らしてほしいと思っている」突然のことに、恥ずかしさで顔が真っ赤になる。
「返事は今すぐでなくていいんだ。もう少し大きくなってからでいいんだよ」
「う、うん。分かりました、お父様」
 12才のミラは異性を意識し始める年頃だった。同年代の男の子はこの村では少なかったが、惹かれる相手がいない訳ではない。
 しかし、ディーンのことは弟としてしか見ていない。ましてまだ5歳の子供だ。結婚と言われても実感が沸かない。しかし、それ以来、ディーンに対する意識が少し変わったような気がする。
 さらに時が過ぎ、ミラが17歳の時、ローラル平原を飢饉が襲った。飢え死ぬ人々が続出し、オリブラも例外ではなかった。冷害により作物が育たなかったのである。子供を身売りする一家もいる中、ミラは、執拗に請われていた、マチスタの豪商の若主の元へ嫁ぐことを決めた。
 迷いはなかった。父は最後まで反対していたが、飢餓に苦しむ村の人々へ食糧を供給することを条件に嫁いだのである。
 自分でも不思議なのだが、困っている人を見ると頬っておけない性格だった。自分を犠牲にすることに躊躇することはなかった。
 父は自分の不甲斐なさをミラに侘びた。
 嫁ぎ先の豪商の若主は、優しいが気弱で他人に流されやすい人だった。ミラにも優しくしてくれたが、他に何人も女を作り、その一人が子を宿すと、5年もの間、子供が出来なかったミラは手切れ金と共に家に返された。
 口には出さないものの両親の怒りは凄まじかった。兄弟達の怒りも凄まじく、ノエルは豪商の家に押しかけると息巻き、普段、温厚なディーンでさえ、一緒に押しかけると同調した。
 そして、せめてもの抗議の意思を示すため、父はその豪商に伐採した木を卸すのを止めた。
 だがミラに後悔はない。飢餓に苦しむ村の人達を救うことが出来たことが満足だった。父は、お前は私達の自慢の娘だ、いつまでもこの家に居るがいい、と言ってくれた。そう言われたとき、初めて涙が溢れた。
 私のこれからの人生は、弟、妹達の行末を見守っていこう、そう思った。
 それにしても、久しぶりに見たディーンは凛々しく爽やかな少年に成長していた。帰って来た自分をノエル、ジュンと一緒に嬉しそうに迎えてくれた。優しい性格は幼い時のまま全然変わっていなかった。
 最近、ふと思うことがある。お父様は今でも私をディーンの妻にしたいと思っているのだろうか。7歳も年上で一度、他の男の妻となった女と結婚するなど、ディーンが可哀想ではないか。むしろジュンの方が相応しいのではないか。いえ、考えまい。ディーンの成長を見守るだけでいい。ミラの気持ちは揺れ動く。
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