第14話 魅惑の貴婦人(4)

文字数 4,044文字

 気が付いた時には夫人の馬車に揺られていた。
 父である公爵には何も伝えていない。どうせ、いないことに気づかれても、途中で自室に戻ったとしか思われないだろう。後で小言を言われるのには慣れている。召使い達にも、疲れたから自室に戻るとしか伝えていない。反抗的で扱い難い自分のことなど誰も近寄りたくないに違いない。母とも近頃では距離を置いている。
 元々、母親とは疎遠だった。幼き頃から、アランスト家の御曹子として育てられてきた。生まれてすぐ母親とは切り離され、乳母に育てられた。母親には特別な感情は何もない。むしろ乳母のことは今でも慕っている。
 母親が弟の方を気に入っているのはわかっていた。乳母に任せず自身の手で育ててきたのだから、やむを得ないこととは思う。しかし、実の母に疎まれる状況は幼いテプロに少なからず影響を与えた。父に反抗的なのも、その影響であろう。
「着いたわ」
 しばらく馬車に揺られて降りた先は3階建ての青い屋根の屋敷だった。夫人の館なのだろう。庭に手入れされた木々が生い茂り周りの様子は分からない。
「安心なさい。主人は不在よ。夫人と言っても私はここに一人で住んでいるの」
 豪華な装飾が施された玄関に入ると若い女性の召使いが畏まっていた。
「この子を私の寝室へ案内して頂戴」
「畏まりました。奥様」召使いの案内で二階にある夫人の寝室に通された。豪華な装飾のベッドがあり、窓に三日月が浮かんでいる。
「ここでお待ち下さいませ。今、お飲み物を持って参ります」
 ベッドの横にある小さなテーブルの椅子に座って夫人を待つ。覗いてはいけない処に、間違って入りこんでしまったようだ。緊張感が拭えない。飲み物を持ってきた召使いのノックの音にさえ、ドキッとするほどだ。
 いきなり、寝室に通されるとは思ってもいなかった。こういう状況になるのを想像していない訳ではなかったが、あまりに唐突で覚悟が決まっていない。
 しかも相手は最高司令官の夫人なのだ。こんなことをしても良いのだろうか。
 三十分ほど待っただろうか、薄手のシルクの寝衣を身に纏って夫人が現れた。胸から腰に掛けての滑らかなスタイルが露わとなり、まともに見ることが出来ない。足を組んで座る婦人の白い素脚が見え隠れする。
「緊張しているの。フフ、顔が真っ赤だわ」
 ワインの入ったグラスを一口飲むと、夫人は立ち上がり、その場でスルスルと寝衣を脱ぎ捨てる。
 ランプの灯りがゆらゆらと白い肌を照らす。
 夫人はそのままベッドに入った。テプロは身動き一つ出来ず、そのまま立ち尽くすしかない。心臓の鼓動だけが聞こえる。
「フフ、一晩中そこに立っているつもり」
 夫人の妖しい視線と挑発に、からかわれたという反発心を覚えると同時に耐え難い衝動を覚えた。
 いや、誘惑に負けてはいけない。最高司令官に知られたら不味いことになる。頭では分かっているが抑えることが出来ない。
 薄暗いランプの灯りの中、テプロは衣服を全て脱ぎ捨てた。
「素敵な体ね。まるで素晴らしい芸術作品のよう。さあ、もっと私に見せて頂戴」
 フラフラと惹き込まれるようにベッドに入る。
 長い夜だった。女性の体がこんなに素晴らしいものだとは知らなかった。テプロはすっかり夫人に魅了されていた。
 ホーホーと梟の鳴き声が遠くに聞こえる。テプロの胸に夫人が寄りかかっている。
「私もね、この世界は嫌い。貴方と同じよ」
 エッと驚き夫人の顔を覗く。
「何不自由ない暮らしをしているけれど、私はこの暮らしが嫌い」「どうして」
「フフ、だって、そうじゃない。主人は私を、子供を産む道具としか思っていないわ。いいえ、主人だけじゃない。この国の男は皆そう」
 さっきまで女は着飾って遊んでばかりいる無駄な存在と思っていた。しかし、どうやら、違うかも知れないと思い始めてくる。
「私は自由になりたいの。自由に生きていきたい。叶わない夢だけど」
 そういう夫人は少し寂しげだった。
「フフ、貴方のこと、気に入ったわ。約束通り、主人に口利きしてあげる。何がお望みかしら」
「自分の兵が欲しい。それも騎兵がいい」
 テプロの顔は本気だった。
「なるほどね。それで、どれ位の兵が欲しいのかしら」
「五百の騎兵が欲しい」
 夫人は少し驚いたようだった。「たった五百でいいの。何万でもいいのよ」
「自分で軍勢を鍛えあげたい。自分の手足の様に動かせるには五百がいい」
 フフフと夫人は微笑んだ。
「分かったわ。主人に取り次いであげる。さあ、今日はお帰りなさい。道ならぬ逢瀬は夜明け前には帰るもの。また、わたしの館にいらっしゃい」
 衝撃的な出合いの後、程なくしてテプロは軍に入った。軍隊に入るとテプロはすぐに将校に昇格、手勢として五百の騎兵が与えられた。自ら鍛えた騎兵たちは戦場を縦横無尽に駆け巡る精鋭となった。
 テプロ軍の中核が出来たのである。
 時が過ぎ、同じベッドで夫人を胸に抱いている。あれから、女の扱い方、処世術を教わった。妖艶でありながら知的な夫人にテプロは夢中になり、本気で結婚したいとまで思ったこともある。
「駄目よ。貴方とは一時の恋人のままでいいわ」
「何故、私は貴女を愛している」
「テプロ、私と貴方が結婚出来ると本気で思っているの」
 テプロは言葉に詰まる。
 人妻であるナルシア夫人と結婚するには何もかも捨てなければならないだろう。
「そう。それは誰の幸せにもならない。けれど貴方の気持ちは嬉しいわ。そうよ、女を愛するときは、本気で愛しなさい。ただ、現実から遠く離れては駄目。女は一時の夢を見させてくれるだけでいいの。夢を見させてくれる男を求めているのよ」
 その時の夫人の教えを守り、何人もの女を心から愛した。女達もテプロを愛し、その代償をくれた。第7騎兵団への移籍が決まったのは、夫人の口添えに依るものだった。
「貴方、今夜の舞踏会で、アランバート家の御令嬢と踊ったのかしら?」
「エルシャ殿のことですか」「ええ、そうよ」何故、エルシャのことを聞くのか、少し怪訝に思う。
「ええ、踊りました」
「そう。あの娘、どうだったかしら」
「ええ、とても美しい女性でした」
「フフ、気に入ったようね。エルシャは貴方の本妻となるのに相応しい女性だと思うわ」
 父親とアランバート家の間で結婚話が進んでいることを、どうして夫人が知っているのか。驚くと共に知らないのは自分だけなのか、と何も教えてくれない父親に腹が立つ。
「フフ、お父様から何も知らされていないのを怒っているようね」
 相変わらず夫人にはこちらの心中を見透かされてしまう。一体どこまで知っているのか。あるいは全てお見通しだと言うのか。さすがのテプロも驚愕せざるを得ない。
「フフ、実はあの娘との結婚を勧めたのは私なの」「?」「だから、お父様を責めてはいけないわ、フフ」悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 どういうことだ。夫人は説明してくれた。
 何と、父であるアランスト公爵が息子テプロのことでサマンド長官に直談判に来たとのことだった。アランスト家の嫡男であるテプロが軍隊にのめり込むことのないよう配慮して欲しい、という話だった。
 要するにテプロが軍隊を辞めるよう仕向けて欲しいということだ。かねがね、夫人からテプロを第七騎兵団へ移籍させるようお願いされていた長官は、真逆のお願いをされたのである。
 しかし、アランスト公爵からの依頼を断ることは出来ないと判断したサマンドは、夫人に願いを断るつもりで事情を話したのである。
 ところが、その時の夫人の進言で考えが変わった。
 夫であるサマンド長官に夫人はこう言った。
 ローラル平原での戦いには優れた騎兵隊の指揮官であるテプロは必要不可欠ではないのかと。しかし、アランスト公爵の願いを無下に出来ないのも分かりますと。
 そこで夫人は、テプロを早く結婚させることを提案した。有力貴族の令嬢と結婚させてしまえば、公爵も文句は言わないだろう。そして、テプロが戦場に出ようと、跡取りがいればアランスト家は安泰なのだと。
 なるほどと、それは良い考えだと、相変わらずの夫人の政治的判断力のセンスの良さにサマンドは唸った。これまでも夫人の助言の的確さは、政治力の高さで知られるサマンドも舌を巻く程だった。
 結婚相手の心当たりを聞かれた夫人は、アランバート家の令嬢エルシアを推薦した。家柄も申し分なく、美女として名高い女性だった。
 納得したサマンドはすぐさま両家の根回しを行ったのである。夫人の予想どおり、アランスト公爵は大いに賛意を示した。アランバート家としても断る理由などなかった。そして、公爵はテプロに断られることを懸念し、当人には最終段階まで伝えないこととした。
 こうしてアランバート家令嬢との結婚話は当人の知らぬまま進んで行ったのである。
「なるほど、そういうことか」
 テプロは納得が行く。
「貴方もいつかは結婚しなければいけないわ」
「結婚など面倒くさいだけです」
 独身に比べ色々と制約がありそうで、あまり乗り気ではない。
「エルシャ殿は、ああ見えて芯がしっかりした姫よ。きっと貴方のことを支えてくれる良い妻になるわ」
 確かにエルシャには悪い印象はない。恋仲になっても構わないほどの器量だ。しかし、結婚となると二の足を踏まざるを得ない。まだまだ、色々な女性と逢瀬を重ねたい。なんと言ってもナルシア夫人と逢い引きが出来なくなるのは辛い。
「そんなに難しく考えなくてもいいわ。貴方は結婚したら、他の女性達とは別れるつもりなのかしら」
 夫人は妖艶な笑みを浮かべる。
 そうか、表立っての付き合いは出来ないが、それはこれまでもそうだった。
「結婚したからと言って貴方を手放す女はいないと思うわ」そう言って、夫人はテプロに口付ける。
「私は貴方にとって初めての女。色々と教えてきたけど、教えることがまだあるわ」
 もう一度夫人を抱きたい衝動に駆られる。
「駄目よ。道ならぬ逢瀬は夜明け前に帰るもの」
 テプロは後ろ髪が引かれる思いで夫人宅を後にした。
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