第127話 思いもしない提案
文字数 2,343文字
「は。それ本気で言ってる?」
「……冗談なわけないでしょ」
自宅での兼定くんの反応はやはりいいものではなかった。ソファで眺めていた製菓雑誌から上げたその目を「ふうん」と細めて「また先越されたか」とぼそりと言った。
どういうこと? と訊ねると「いや」と答えて雑誌を閉じて置く。顎を撫でて少しなにか思案しながら「ちょっと近く座ってよ」とこちらを見た。
「その佳乃さんの案を例えば『プランA』として」
それは思いもしない提案だった。
「今から俺が言う案は『プランB』。どっちが我が家にとって最善か、一緒に決めたい」
「一緒に……」
「そう。一緒に」
これまで仕事に関しては何事も「あんみつが決めて」と言っていた兼定くんが、そんなことを言うなんて。
だけどたしかに。子育ては私ひとりでやることじゃないから。
「まず果実が二号店に復帰したら、楠木 さんは本店に戻る予定。本人もそのつもりだし希望してる」
「え……。だけどりんごちゃん、せっかく慣れたのに」
二号店と本店では細かなところで勝手が違うこともあるから。
「家から本店のが近いんだと。それに」
それに?
「彼女、辞めるつもりらしいよ。六月いっぱいで」
「へ……なんで!?」
目が飛び出た。驚く私に「これは俺も今日聞いたばっかの話だけど」と言う。
「大学生だった彼氏がこの春就職したらしくて。六月までは東京研修なんだけど、その後赴任先が決まって全国のどっかに行くって話なんだって。で、楠木さんもそこに付いて」
「うそ……」
らしいといえば、とても彼女らしいけど。
「つかあの子もともと東京出身だっていうしね。彼氏が実家出てこの辺の大学に進学したから自分も付いてきたとかって。早い話が彼氏と一緒ならどこでもいいし、仕事もなんでもいいって思ってるみたいだよ」
「ひえ……そうなんだ」
「けど今回ヴァンドゥーズを経験して、……つーか、おまえと仕事して、すげーよかったから、たぶんこれからもどこかでヴァンドゥーズやると思うって言ってた」
「ほ、ほんと……?」
りんごちゃんがそんなことを。
「ふ。よかったじゃん。初めての新人教育は成功ってわけ」
「んん、それは……よかったけど」
「けどなんせそんな話だから。果実が復帰しないと二号店としてはかなり困る」
兼定くんはそう言うとその視線を置いた雑誌に向ける。国内外の製菓業界のことが載る月刊誌。我らが〈シャンティ・フレーズ〉が取り上げられたのは先月号のこと。ほんの小さくだったけどね。
「佑 がもっと育ってくれば俺も週二日休めるだろうし、それが厳しい間は……二号店を日曜定休にしてもいいって前にシェフが言ってた」
「な! そんなのありなの!?」
「あり。ゆうこさんのことと佳乃さんのことでシェフも結構考え変わってきてるからね」
なんでもズバズバ言うタイプの佳乃さん。ゆうこさんとの一件の時シェフにかなり意見をしたらしい。
──従業員には時代に合った働き方をさせてあげないと!
「だから結構融通は利くよ。イベントなんかでどうしようもない時は小倉 の実家の世話になるかもしんないけど、それ以外は俺たちでやれる。つーか」
そこで言葉を切ると兼定くんは少し照れたような、拗ねたような顔をしながら私が抱いている娘を見つめつつ言った。
「一応俺も父親なんだからさ。そりゃ佳乃さんの店の話はメリットもデカいのかもしんない。けどそれだと俺はほとんど育児に参加できないじゃん」
だから嫌だ。と。
たしかに、私の職場の託児所に入るからにはなにかあった時にはまず私に連絡が来るし、送迎はもちろん私。休日も私のシフトに合わせることになるだろう。それが兼定くんの休日と重なるかはわからない。
「いくら条件が良くてもすれ違った生活になるなら意味ないと思わねえ?」
「それは、もちろん」
「……で、さ。佑に二号店任せられるようになったら俺、〈シャンティ・フレーズ〉を出て独立するつもりだから。店作るから。そしたらもっと自由にやれる。もちろんその分大変なこともあるかもしんないけど、夫婦で、家族で乗り越えたいって思ってる。だから」
言葉を切ると彼はまっすぐ、私を見て言った。
「一緒にやらせて。育児も、仕事も」
真剣な瞳を前に一瞬キョトンとしてから、ぶわ、と視界が潤んだ。
「ったく、また泣くのかよ」
ほんと泣きすぎ。と呆れられても涙は止まらない。
兼定くんは照れ隠しにか「でもま、佳乃さんのプランに乗ったほうが収入は格段にいいだろうけどね」と苦く言う。開業費用もきっと早く貯まる、と。
むう。収入……。それもたしかに大事だ。けど、それが多くても家族での時間が少なくなるのはやっぱり寂しい。
「『働く母親だけの』ってのも、話題性もあるし、いろんなとこで取り上げてもらえるかもしれない。そうなれば強いよ。彼女は腕も確かだしね」
「だけど那須さん、復帰しないなんてちょっとショックだったな……」
私が言うと兼定くんは「そ?」と意外そうに言って首を傾げた。
「最初から言ってたじゃん。『俺はもういい』って。本当のとこは知らないけど、もしかしたら今回のコンセプト提案したのは那須さんの方かもしんないよ。少なくともなにかしらの助言はしてるっしょ。一番近い相談相手なんだから。金銭面でも強力なスポンサーで影のプロデューサー。だとしたら佳乃さんはまじで最強だよ」
な、なんと。那須さんがプロデューサー!? だけどたしかにそれは充分有り得る。
「ま、あの人は聞いても話してくんないだろうけどね。こういう真面目な話は」
言って「はは」と愉快そうに笑った。
「とにかく復帰してよ、果実。全然わかってないみたいだけど、おまえのこと、みんなすんーげえ待ってんだから」
ああ、そうなんだ。
居場所がない、なんて大きな勘違いだったのか。
「……冗談なわけないでしょ」
自宅での兼定くんの反応はやはりいいものではなかった。ソファで眺めていた製菓雑誌から上げたその目を「ふうん」と細めて「また先越されたか」とぼそりと言った。
どういうこと? と訊ねると「いや」と答えて雑誌を閉じて置く。顎を撫でて少しなにか思案しながら「ちょっと近く座ってよ」とこちらを見た。
「その佳乃さんの案を例えば『プランA』として」
それは思いもしない提案だった。
「今から俺が言う案は『プランB』。どっちが我が家にとって最善か、一緒に決めたい」
「一緒に……」
「そう。一緒に」
これまで仕事に関しては何事も「あんみつが決めて」と言っていた兼定くんが、そんなことを言うなんて。
だけどたしかに。子育ては私ひとりでやることじゃないから。
「まず果実が二号店に復帰したら、
「え……。だけどりんごちゃん、せっかく慣れたのに」
二号店と本店では細かなところで勝手が違うこともあるから。
「家から本店のが近いんだと。それに」
それに?
「彼女、辞めるつもりらしいよ。六月いっぱいで」
「へ……なんで!?」
目が飛び出た。驚く私に「これは俺も今日聞いたばっかの話だけど」と言う。
「大学生だった彼氏がこの春就職したらしくて。六月までは東京研修なんだけど、その後赴任先が決まって全国のどっかに行くって話なんだって。で、楠木さんもそこに付いて」
「うそ……」
らしいといえば、とても彼女らしいけど。
「つかあの子もともと東京出身だっていうしね。彼氏が実家出てこの辺の大学に進学したから自分も付いてきたとかって。早い話が彼氏と一緒ならどこでもいいし、仕事もなんでもいいって思ってるみたいだよ」
「ひえ……そうなんだ」
「けど今回ヴァンドゥーズを経験して、……つーか、おまえと仕事して、すげーよかったから、たぶんこれからもどこかでヴァンドゥーズやると思うって言ってた」
「ほ、ほんと……?」
りんごちゃんがそんなことを。
「ふ。よかったじゃん。初めての新人教育は成功ってわけ」
「んん、それは……よかったけど」
「けどなんせそんな話だから。果実が復帰しないと二号店としてはかなり困る」
兼定くんはそう言うとその視線を置いた雑誌に向ける。国内外の製菓業界のことが載る月刊誌。我らが〈シャンティ・フレーズ〉が取り上げられたのは先月号のこと。ほんの小さくだったけどね。
「
「な! そんなのありなの!?」
「あり。ゆうこさんのことと佳乃さんのことでシェフも結構考え変わってきてるからね」
なんでもズバズバ言うタイプの佳乃さん。ゆうこさんとの一件の時シェフにかなり意見をしたらしい。
──従業員には時代に合った働き方をさせてあげないと!
「だから結構融通は利くよ。イベントなんかでどうしようもない時は
そこで言葉を切ると兼定くんは少し照れたような、拗ねたような顔をしながら私が抱いている娘を見つめつつ言った。
「一応俺も父親なんだからさ。そりゃ佳乃さんの店の話はメリットもデカいのかもしんない。けどそれだと俺はほとんど育児に参加できないじゃん」
だから嫌だ。と。
たしかに、私の職場の託児所に入るからにはなにかあった時にはまず私に連絡が来るし、送迎はもちろん私。休日も私のシフトに合わせることになるだろう。それが兼定くんの休日と重なるかはわからない。
「いくら条件が良くてもすれ違った生活になるなら意味ないと思わねえ?」
「それは、もちろん」
「……で、さ。佑に二号店任せられるようになったら俺、〈シャンティ・フレーズ〉を出て独立するつもりだから。店作るから。そしたらもっと自由にやれる。もちろんその分大変なこともあるかもしんないけど、夫婦で、家族で乗り越えたいって思ってる。だから」
言葉を切ると彼はまっすぐ、私を見て言った。
「一緒にやらせて。育児も、仕事も」
真剣な瞳を前に一瞬キョトンとしてから、ぶわ、と視界が潤んだ。
「ったく、また泣くのかよ」
ほんと泣きすぎ。と呆れられても涙は止まらない。
兼定くんは照れ隠しにか「でもま、佳乃さんのプランに乗ったほうが収入は格段にいいだろうけどね」と苦く言う。開業費用もきっと早く貯まる、と。
むう。収入……。それもたしかに大事だ。けど、それが多くても家族での時間が少なくなるのはやっぱり寂しい。
「『働く母親だけの』ってのも、話題性もあるし、いろんなとこで取り上げてもらえるかもしれない。そうなれば強いよ。彼女は腕も確かだしね」
「だけど那須さん、復帰しないなんてちょっとショックだったな……」
私が言うと兼定くんは「そ?」と意外そうに言って首を傾げた。
「最初から言ってたじゃん。『俺はもういい』って。本当のとこは知らないけど、もしかしたら今回のコンセプト提案したのは那須さんの方かもしんないよ。少なくともなにかしらの助言はしてるっしょ。一番近い相談相手なんだから。金銭面でも強力なスポンサーで影のプロデューサー。だとしたら佳乃さんはまじで最強だよ」
な、なんと。那須さんがプロデューサー!? だけどたしかにそれは充分有り得る。
「ま、あの人は聞いても話してくんないだろうけどね。こういう真面目な話は」
言って「はは」と愉快そうに笑った。
「とにかく復帰してよ、果実。全然わかってないみたいだけど、おまえのこと、みんなすんーげえ待ってんだから」
ああ、そうなんだ。
居場所がない、なんて大きな勘違いだったのか。