第90話 もったいない?

文字数 2,304文字

「どんな暮らしをしてる?」
「食事はどうしてるのかしら」
「帰りは結構遅いの?」

 質問が止まらなくなって「いやあの」と慌てた。そうか。知りたいよね。だってお母さんだもん。

「……兼定くんは、とってもストイックです。休みの日もケーキの勉強に熱心だし、ケーキ中心の食生活だからこそ、偏らないように気をつけて、運動もちゃんとしていて。偉いんです」

 私の答えを聞いて「へーえ」と笑った。「そうなんだ」

「じゃああんみつちゃん、付き合うの大変でしょう?」

 素直に即時「はい」と答える。自分でもがんばってると思うもん。まあおかげでいろいろ身に付いた知識はある。……身に付いた贅肉もあるけど。

「会ってみたいなあ……」

 会えばいいのに、と思うけど。そう簡単なことではないのかな。

「会うつもりは、ないんですか?」

 訊ねると「うーん」と首を傾げた。

「でも孫が出来たら、ぜひ写真はちょうだいね」

 にっこりと笑われて私は顔が熱くなった。


 お料理はどれも絶叫するくらいに美味しかった。プロってすごい。プロフェッショナルってこういうことを言うんだ、となんだか打ちのめされた気分でもあった。

「ひ、ひとりでもこんなに美味しく作れるかな……」

 教わったからといってすぐにこのレベルが出来るとはとても思えない。

「大丈夫。あんみつちゃん、お料理は経験よ。それと心。少しくらい見た目が悪くても、相手に伝わるものがあればそれは成功したと言えるもの」

「そうかあ……」
 だけどそんな不完全な出来で完璧主義の兼定くんを唸らせることができるのだろうか。

「あんみつちゃんは、ずっと販売員さんをしてきたの?」

 すると食べながら突然そんなことを訊ねられた。戸惑いながらこくりと頷く。

「ほかの仕事をしてみたいとかは、思わない?」

「え……」

 はじめて言われたことだった。当然考えたこともなかった。

「んん。なんていうかあんみつちゃんって、人当たりもいいし、気立てもいいから……ケーキ屋さんの販売員さんだなんて正直

と思って」

 こんなところで、ガツンと衝撃を受けることになるなんて。でも当然といえばそう。春野さんは『ケーキ屋さんの外の人』。つまり一般的にヴァンドゥーズという職業がどう認知されているかを表しているんだ。

「外国語や手話も勉強してるってさっき言っていたじゃない? せっかく習得したのならもっと活かせる職業がいろいろとあるのにと思うの。なんなら私が雇いたいくらいよ。そうでなくてもなにかお仕事のご紹介くらい出来るんじゃないかしら」

「え……ちょっと待ってください」

 わわわ。慌てる私をよそに春野さんは止まらない。

「それならいいお仕事が見つかるまでの間、私のアシスタントをやればいいんじゃない? あんみつちゃんさえやる気があるなら私は大歓迎! ね。名案じゃないかしら?」

「え!? いや、えっと、そんな!」

 突然のことにひどく慌てた。だってそんな、嘘みたいな話! とっても嬉しいけど、半分はとっても悲しい気持ちになっていた。

 だって。

 「もったいない」なんて……。ヴァンドゥーズを極めるために身につけてきたことなのに、ヴァンドゥーズをしていてはもったいないと言われてしまうだなんて。そんな悲しいことってないよ。

 ヴァンドゥーズという職業を『簡単な仕事』と誤解されている。でもそれが今の日本での現実。まず『ヴァンドゥーズ』という言葉を、いったいどれだけの数の人が知っているだろう。それも業界外の人なら? ほとんどいないと言えるんじゃないだろうか。

 だけど、ただ憂いていてもなにも始まらない。

「春野さん」

 呼びかけると「ん?」と機嫌よく答えてくれた。

「『ヴァンドゥーズ』って言葉、ご存知ですか」

 訊ねると「ヴァンドゥーズ……」と呟いて「フランス語?」と言い当てた。

「そうです。意味は〈洋菓子店販売員〉。私たちの職業のことです」

 私がそう教えると春野さんは興味を持ったように「へえ」と答える。

「なんかいいわね。その呼び方だとプロっぽいというか、かっこいい感じ」

「そうなんです」

 伝えたい。これを伝えていくことも、きっと私の役目だ。

「販売員、つまりヴァンドゥーズというのは、洋菓子販売の『プロ』なんです。パティシエとヴァンドゥーズには、どちらが欠けても成り立たない関係性があるんです。ヴァンドゥーズにも、パティシエと同じように無限の可能性があるんです。だから」

 全部、兼定くんが教えてくれたこと。

「私がヴァンドゥーズとして身につけたものを、『もったいない』なんて言わないでください」

 泣いてはいけない、と思いながら、堪えることは難しかった。すると少しの沈黙をおいて、ふいにお花のようないい匂いのする柔らかなものにふんわりと包まれた。一瞬驚いたけど、すぐに抱きしめられたのだと気がついた。

「……もう。ごめんなさいね、あんみつちゃん。私ったらあなたのことをなにも知らないで余計なことを言ったようね。あなたは本物のヴァンドゥーズだわ。その道を極めるプロフェッショナル。自信を持ちなさい。この私が認めます」

 ぶわ、と全身が粟立つ感覚がした。心の底から思いが込み上げて、やがて大粒の涙となって溢れ出した。

 春野さんはまるで我が子のように私の頭をそうっと撫でると、抱き寄せていた手を緩めて今度はそれを私の両肩へ置いて目を合わせた。

「こんな素敵な方と縁を持てた兼定は幸せ者です。私はもうあの子の母だと名乗る資格はないけれど、息子のことを、これからもどうかよろしくお願いしますね」

 ボロボロと止まらなくなってしまった私の目から溢れる雫をひと粒その指で拭って、「もう、泣きすぎよ」と微笑んだ。

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