第30話 いい匂い

文字数 1,261文字

「ここ?」
「たぶん」
「へーえ」

 お店の近くのシンプルな三階建てのアパート。オートロックなどはなくてすんなりとそうと思われる部屋の前までたどり着いていた。

「あんみつちゃんはもちろん来たことあるんでしょ?」

「せりなちゃん、もうその線諦めてくれません?」

「お似合いなのに」
()ですよ、あんなケーキ馬鹿」
「まあたしかにねー」

 苦笑いをしたかと思うと、そのまま躊躇なく呼び鈴を鳴らしてしまうから慌てた。

「ちょ、本気ですか!?
「ここまで来たら押すしかないでしょ?」

 どきどきしたけど反応は……ないらしい。寝てる? もう?

「いないんですかね」
「居留守じゃん?」
「え」
「電話番号、知ってるよね」
「い、嫌ですよ!」
「かけて」
「えええ」
「かけて」
「うー、もう」

 せりなちゃんには逆らえない。

『…………はい』

 電話は案外すぐに繋がった。

「あ……えとその」

『なに』

「今、どこに?」
『家だけど』
「出て来れません?」
『は? どこに』
「どこっていうか……家から」

 すると会話は途切れて、やがてガチャリと目の前のドアが開いた。

「こ、こんばんは」

「……なんの用」

 いつかの従業員旅行と変わりない、黒の上下に身を包む小野寺くんの姿がそこにあった。


「いやその、せりなちゃんが……」
 言いながら私もせりなちゃんもすんすんと無意識に鼻を動かしていた。甘く、香ばしい、これは……。

「なに? いい匂い……」

 せりなちゃんが言うと小野寺くんは「ああ」と応えて「上がれば?」と中へ通してくれた。

 入ってすぐにトイレとお風呂場、そして狭いキッチンがあった。そこにはなんと数種類のココア色の焼き菓子が所狭しと並んでいた。いい匂いの正体はこれ。甘く、濃い。こっくりとしたこの香りは、バターたっぷりのココアの生地の焼ける香りだったんだ。

 小野寺くんはそこに立ってそばの家庭用オーブンレンジから熱々の焼きたてクッキーが載った天板を取り出している。

「うわあ、なにこれ!?
 大興奮のせりなちゃんが飛び跳ねて言った。

「ちょうど上がったところ。狙ったように来たな」

「なにかに使うの?」
 私が訊ねると「ただの試作」と素っ気なく返してきた。

「試作って……なんの?」

 更に訊ねると首を傾げて「なんでもないけど」と答える。そして熱々のココアクッキーを網に並べ終えると近くのものを一枚摘んで口に放り込んだ。「配合とか、トッピング、あと隠し味とか変えて試して遊んでただけ」言いながら私とせりなちゃんにも一枚ずつ渡してくれた。

「うわ……おいし」

 焼き立ての本格クッキーなんて生まれて初めてだった。豊かなバターとほろ苦いココアの香り、そこにベストマッチした香ばしいナッツの風味がたまらない。さくさく、ほろほろ崩れる食感、もっと、と舌が求める。

「ヤバうま」

 こっそりもう一枚取ろうとするせりなちゃんに「好きに食っていいよ」と小野寺くんは笑った。

「どうせ食べきれないし」

「よくこういうことしてるの?」

「たまに。つーかあんたらなにしに来たわけ?」

 器具を片付けながら横目に訊ねてきた。よくぞ訊いてくれました。

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