第17話 行こうよ。今から

文字数 1,713文字

 驚いたせいでウーロン茶が鼻の方に入ってしまった。顔の奥がつんと痛むのを目をしばたいてなんとか耐える。

「ありゃ、ごめん。口が滑った。今の聞かなかったことにしといて」

 聞かなかったことに、と言われても聞いてしまったものは戻らないよ。タケコさん。

「え、辞めるんですか? 那須さん」

 改めて訊ねると、しー、と鼻先に指を立てて、誰に隠すつもりか小声で教えてくれた。

「家族のために、夢捨てるってさ」

 ぞく、と寒くなった。

 シャンティ・フレーズは個人経営の小さなケーキ店。そこでいくら頑張ろうともお給料は那須さんの年齢の平均からするとやはり少ない。お子さんが生まれて間もない那須さん。家族の今後を思えば、その決断をしてもおかしくはない。

「なんか……現実ってやだ」

 夢って、なんでこんなに苦しいんだろう。思い描いている時はあんなに幸せなのに。

「だからさ」

 ショックを受ける私に構わずタケコさんの話は続く。

「春に小野寺が厨房(なか)に来たとしても、那須さんが抜けるじゃん? そしたら私まで抜けられないよねぇ」

「誰がいるからってタケコさんが抜けていい理由にはならないですよ」

「そんなことないよ。新人でも入ればいいけど」

「新人さんがタケコさんの代わりになるわけないですよ。それに新人さんが来てもまた売り場からじゃないんですか?」

「それもどうかわかんないよ? 私も那須さんも売り場未経験で厨房(なか)やってるもん」

「え、じゃあなんで小野寺くんだけこんなことに?」

「期待値が高いんでしょ。両方やれるスタッフがひとりいると便利だしね」

「便利ってそんな」

 言葉がお悪いです、タケコ(ねえ)さん。

「その点で売り場に回してもらえない私は全然期待値がないってこと。はーあ」

 指で〈ゼロ〉を表して揺らした。

「そんなことないですってば」

「無駄にアレコレ考えなくても、さっさと居なくなっても店はなんとか回るもんなんだよね、実際」

「そんなあ」
「辞めてやろっかな」
「タケコさんん」
「才能ないもん。続けるの、つらい」
「そんなこと……」
「それならまだ必要としてくれるイタリアンに行ったほうが幸せかも」
「それだってやってみなくちゃわかんないじゃないですか」
「そうなのよ!」

 びし、と指を鼻先にさされた。

「一週間だけ試して、ダメなら戻る、とか出来ればいいのにねぇ」

「人生に『おためし』はないですから」

「あーん。十八歳にそんなこと言われるなんてぇー」

 わざと悔しそうにテーブルを叩くふりをした。かわいいほろ酔いタケコさん。

「タラモサラダ食べる? 美味しいよ、ここの」

「……いただきますけど」

 食べてみたら本当に美味しくてびっくりした。

「なんですかこれ、絶品」
「でしょー? 考えた人天才だよね」
「天才ですっ」

 箸が止まらなくなってぱくぱく食べてしまった。

「私もそういう『考えた人天才』って言われるようなケーキを生み出したかったのにさ」

「え」

 驚いて箸を止めてその顔を見ると、ピンク色に頬を染めて少し照れたような、だけどどこか自嘲するような表情をしていた。

「男になんて絶対負けない、って。修行して海外に留学もして、自分のお店持つ……とか鼻息荒く言ってた時期もあったんだよ、これでも」

「え……タケコさんが?」

「そう、この私が」

 言って自分で「信じられないでしょ」と笑うからこちらは困る。

「でもいざやってみたら全然ダメで。留学どころか、こんな近所のケーキ屋で日々過ごすだけでも苦痛でさ」

 痛々しい自身の指先を眺めながらつぶやくように言って悲しげに微笑んだ。

「イタリアンの専属パティシエって……どんな感じなんですかねぇ」

 転職したとしても同じパティシエの仕事だったら結局つらいのに変わりはないかもしれない。

「さあ……。でもおいしいお店だよ。ひとりでも気兼ねなく行ける感じだし。店長も若くてイケメン」

「そこ重要ですか」
 苦笑いをした。

「重要でしょ。シャンティ・フレーズだってあんみつちゃんと小野寺を並べて置いてんのは見栄えも絶対あると思うもん」

「な……」

「ま、いいわ。とにかくいいお店だよ。ああ、……行ってみる?」

「え?」
「そうだよ、いいじゃん。行こうよ。今から」
「え!?

 人生は思いもしないことの連続なのです。

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