番外編3 まだ終わらないホワイトデー
文字数 2,507文字
那須さんと別れて自宅の玄関。鍵を開ける前に今何時だろうと画面を確認した。すると。
【タケコさん。お仕事終わったらお店に来てもらえませんか。 松尾】
なんてこと。確認すると一時間も前に受信したメッセージだった。
ああ、那須さんなんかと時間使ってる場合じゃなかった。……とまでは思わないですけど。
出しかけていた鍵をバッグに戻して回れ右。那須さんの姿がないことを確認してほっとする。
いちおう、那須さんやほかの知り合いとの遭遇を考慮していつもの道は避けつつ例のイタリアンへと早足で向かった。
徐々に近づく、黒い雑居ビル。まもなく閉店という時間。お店に灯りはあるけれど、お客さんの出入りはない。
そうだ、今日はホワイトデー。だからあんなメッセージを……。意識した途端にどきん、と胸が鳴った。
ひと月前のバレンタインデー、私は厨房を借りてケーキを作った。精一杯がんばったけど、案の定出来はイマイチ。味も……まあ悪くはない、というレベルだった。
あんみつちゃんに気合いを注入してもらったものの、それでもいざ相手を目の前にしたらもうなにもかもよくわからなくなって、ほとんど押し渡すような格好でその箱を置いて逃げてしまった。
手紙くらい添えればよかった、と後悔しても後の祭り。せめて日頃の感謝のひと言でも伝えるべきだった。あれから【おいしかったです】【ぜひまた会いたい】そんなメッセージをもらってはいたものの、なんだか気恥ずかしくて足が向かなかった。
今日、会えばどうなるんだろう。まさか専属パティシエの話、白紙になったりしないよね? でも、有り得る。あんな程度のケーキしか作れないのかと思われたのだとしたら……。ああ、あんなケーキ、渡さなきゃよかった。
お店を目の前にして、足が止まってしまった。ああ、だめ。行けない。どうしよう、帰ろうか、でもそれならメッセージを返さなくちゃ。でもなんて返せば……。
バッグから取り出した小さな画面をつけたり、消したり、またつけて文を打ちかけて、やっぱり消したり、そう繰り返していて、周りはあまり見えていなかった。
「タケコさん……?」
「えっ、あ、わ、わ、」
心臓が止まるかと思った。驚きのあまり手を滑らせてスマホを落としそうになって、二人であわあわと取り合った。
「っはは、どうしたんですか、こんなお店の目の前で」
「て、店長さんこそ……なんで」
「遅いから心配で。ケーキ屋さんの方まで行ったんですけど、もう閉まってたんで入れ違いになったかなって戻って来たとこです」
「す、すみません、返信しようと思ってて」
「返信? ここで?」
「え……と」
そうか。おかしいよね、お店に入ればいいのにって思うよね。
「タケコさん」
呼ばれても顔が見られなかった。恥ずかしくて。それと、怖くて。『やっぱりあの話はなかったことに』そう言われるんじゃないかって。
「タケコさん」
「な、なんですか」
店長さんは私が向くのを待っているようだった。それでもその目を見られない私に「仕方ないな」と呟いて無理やり屈んで私の視界に入り込んで来た。
「タケコさん」
顔が近い。逃げ場はなかった。
「……はい」
力のある目が私をとらえる。吸い込まれそうな大きな瞳。イタリアの血なのか色素の薄い綺麗な色をしていた。そこに小さな私が写っていた。
「なにを言っても『うそだ』『お世辞だ』って受け取られるかなと思って」
言いながらズボンのポケットに手を入れた。
「どうしたら信用してもらえるか、考えたんです」
なんだろう。
「仲間には『そんなのないだろ』って言われたんですけどね」
照れた風に苦笑いして、そしてそれを私の前に両手で出した。
真っ白の、真四角の小さな箱。
……え。え、え、……え!?
「ちょっと待ってください!」
戸惑う私に「ふ」と優しく微笑んで、その小箱をそっと開いた。
夜空の下でも、こんなに眩しく輝くなんて。
「あなたのために星をひと粒、取ってきました」
ドラマみたいなキザな台詞。指さす空には、たしかに星が瞬いていた。あれ、さっきまでは曇っていたのに。
「ゆ、指輪……?」
息みたいな微かな声しか出なかった。
「そうです」
「なんで……?」
どきんどきんと心臓がうるさい。だって私たち、お付き合いもしていないのに。
「すぐじゃなくてもいいんです。ゆっくり、お付き合い、というかまず友達から、ですかね……ええと。あ、はは。そうか、仲間たちの言い分がやっとわかりました」
途端にあちゃーと恥ずかしそうにする店長さんをくすりと笑った。「すみません、先走りすぎました、かなり」と謝られて、もう笑いが止まらない。
「ありがとう……ございます」
笑いながら、涙が出てきた。この人はなんでそんなことをしてくれるんだろう、こんな私に。
「タケコさん、あなたが好きです」
「うそ……」
「うそじゃないです。一生懸命で、頑張り屋で、かわいくて、食べっぷりもいい。話は楽しいし、気づかいもできる。正直でうそがない、目が綺麗、爪が綺麗、髪も綺麗。耳たぶがかわいい。頬が桃色でかわいい。まつ毛が──」「店長さんっ」
恥ずかしすぎて遮ってしまった。もう、もう勘弁して……。
店長さんのこと、そういう相手として見たことは申し訳ないけどこれまでなかった。というか私なんかの手が届く相手とは思っていなかったんだもん。
だから先月のバレンタインデーだって、まさか異性としての下心なんかこれっぽちもなくて、ただこれからお世話になるからというのと、本当に日頃の感謝の気持ちだけだった。だから、まさか、そのお返しでこんなことになるなんて考えてもなかった。
「では改めて」
そう言うと素敵に微笑んで私を見つめてきた。
「結婚の予約、させてもらえますか」
こんなことって起こりうるのか。夢でも見ている気分だった。
「……私なんかで、いいんですか」
訊ねると店長さんはふるふると首を横に振った。
「『なんか』じゃないです。僕はあなたがいいんです」
まさか。〈交際ゼロ日婚〉なんて、テレビの中だけの話だと思っていたのに。
「よろしくお願いします」
照れて小さく答えると、ぎゅうと抱きしめられて慌てた。
〈番外編3 完〉
【タケコさん。お仕事終わったらお店に来てもらえませんか。 松尾】
なんてこと。確認すると一時間も前に受信したメッセージだった。
ああ、那須さんなんかと時間使ってる場合じゃなかった。……とまでは思わないですけど。
出しかけていた鍵をバッグに戻して回れ右。那須さんの姿がないことを確認してほっとする。
いちおう、那須さんやほかの知り合いとの遭遇を考慮していつもの道は避けつつ例のイタリアンへと早足で向かった。
徐々に近づく、黒い雑居ビル。まもなく閉店という時間。お店に灯りはあるけれど、お客さんの出入りはない。
そうだ、今日はホワイトデー。だからあんなメッセージを……。意識した途端にどきん、と胸が鳴った。
ひと月前のバレンタインデー、私は厨房を借りてケーキを作った。精一杯がんばったけど、案の定出来はイマイチ。味も……まあ悪くはない、というレベルだった。
あんみつちゃんに気合いを注入してもらったものの、それでもいざ相手を目の前にしたらもうなにもかもよくわからなくなって、ほとんど押し渡すような格好でその箱を置いて逃げてしまった。
手紙くらい添えればよかった、と後悔しても後の祭り。せめて日頃の感謝のひと言でも伝えるべきだった。あれから【おいしかったです】【ぜひまた会いたい】そんなメッセージをもらってはいたものの、なんだか気恥ずかしくて足が向かなかった。
今日、会えばどうなるんだろう。まさか専属パティシエの話、白紙になったりしないよね? でも、有り得る。あんな程度のケーキしか作れないのかと思われたのだとしたら……。ああ、あんなケーキ、渡さなきゃよかった。
お店を目の前にして、足が止まってしまった。ああ、だめ。行けない。どうしよう、帰ろうか、でもそれならメッセージを返さなくちゃ。でもなんて返せば……。
バッグから取り出した小さな画面をつけたり、消したり、またつけて文を打ちかけて、やっぱり消したり、そう繰り返していて、周りはあまり見えていなかった。
「タケコさん……?」
「えっ、あ、わ、わ、」
心臓が止まるかと思った。驚きのあまり手を滑らせてスマホを落としそうになって、二人であわあわと取り合った。
「っはは、どうしたんですか、こんなお店の目の前で」
「て、店長さんこそ……なんで」
「遅いから心配で。ケーキ屋さんの方まで行ったんですけど、もう閉まってたんで入れ違いになったかなって戻って来たとこです」
「す、すみません、返信しようと思ってて」
「返信? ここで?」
「え……と」
そうか。おかしいよね、お店に入ればいいのにって思うよね。
「タケコさん」
呼ばれても顔が見られなかった。恥ずかしくて。それと、怖くて。『やっぱりあの話はなかったことに』そう言われるんじゃないかって。
「タケコさん」
「な、なんですか」
店長さんは私が向くのを待っているようだった。それでもその目を見られない私に「仕方ないな」と呟いて無理やり屈んで私の視界に入り込んで来た。
「タケコさん」
顔が近い。逃げ場はなかった。
「……はい」
力のある目が私をとらえる。吸い込まれそうな大きな瞳。イタリアの血なのか色素の薄い綺麗な色をしていた。そこに小さな私が写っていた。
「なにを言っても『うそだ』『お世辞だ』って受け取られるかなと思って」
言いながらズボンのポケットに手を入れた。
「どうしたら信用してもらえるか、考えたんです」
なんだろう。
「仲間には『そんなのないだろ』って言われたんですけどね」
照れた風に苦笑いして、そしてそれを私の前に両手で出した。
真っ白の、真四角の小さな箱。
……え。え、え、……え!?
「ちょっと待ってください!」
戸惑う私に「ふ」と優しく微笑んで、その小箱をそっと開いた。
夜空の下でも、こんなに眩しく輝くなんて。
「あなたのために星をひと粒、取ってきました」
ドラマみたいなキザな台詞。指さす空には、たしかに星が瞬いていた。あれ、さっきまでは曇っていたのに。
「ゆ、指輪……?」
息みたいな微かな声しか出なかった。
「そうです」
「なんで……?」
どきんどきんと心臓がうるさい。だって私たち、お付き合いもしていないのに。
「すぐじゃなくてもいいんです。ゆっくり、お付き合い、というかまず友達から、ですかね……ええと。あ、はは。そうか、仲間たちの言い分がやっとわかりました」
途端にあちゃーと恥ずかしそうにする店長さんをくすりと笑った。「すみません、先走りすぎました、かなり」と謝られて、もう笑いが止まらない。
「ありがとう……ございます」
笑いながら、涙が出てきた。この人はなんでそんなことをしてくれるんだろう、こんな私に。
「タケコさん、あなたが好きです」
「うそ……」
「うそじゃないです。一生懸命で、頑張り屋で、かわいくて、食べっぷりもいい。話は楽しいし、気づかいもできる。正直でうそがない、目が綺麗、爪が綺麗、髪も綺麗。耳たぶがかわいい。頬が桃色でかわいい。まつ毛が──」「店長さんっ」
恥ずかしすぎて遮ってしまった。もう、もう勘弁して……。
店長さんのこと、そういう相手として見たことは申し訳ないけどこれまでなかった。というか私なんかの手が届く相手とは思っていなかったんだもん。
だから先月のバレンタインデーだって、まさか異性としての下心なんかこれっぽちもなくて、ただこれからお世話になるからというのと、本当に日頃の感謝の気持ちだけだった。だから、まさか、そのお返しでこんなことになるなんて考えてもなかった。
「では改めて」
そう言うと素敵に微笑んで私を見つめてきた。
「結婚の予約、させてもらえますか」
こんなことって起こりうるのか。夢でも見ている気分だった。
「……私なんかで、いいんですか」
訊ねると店長さんはふるふると首を横に振った。
「『なんか』じゃないです。僕はあなたがいいんです」
まさか。〈交際ゼロ日婚〉なんて、テレビの中だけの話だと思っていたのに。
「よろしくお願いします」
照れて小さく答えると、ぎゅうと抱きしめられて慌てた。
〈番外編3 完〉