第1話 ことのはじまり
文字数 2,091文字
いつのことだったか、どこのお店だったか、ほとんど憶 えてはいない。
だけどその空間は、とっても明るく華やかで、甘い香りに満ちていて。まるで楽園みたいだった。
そこに立つ店員さんの、にっこりとした素敵な笑顔。それだけが、ずっと記憶に残っている。
魅力
そんな言葉も知らなかった幼い頃、私はすでに心を奪われていたんだ────。
──洋菓子店販売員 という職業に。
◇
ことのはじまりはシェフの三人の娘さん(高三・高二・中一)が、深夜に自宅で寛 ぐシェフに詰め寄ってきたことだった。
「「お母さんに自由な時間をあげたいの!」」
季節は爽やかな風の吹く初夏。真っ赤なカーネーションが全国のフラワーショップに所狭しと並ぶ頃。そう、年に一度の『母の日』が近い今日この頃。心優しいシェフの娘さんたちは、いつも頑張るお母さんに『時間』というお金で買えない素敵なものをプレゼントしようと決めたんだって。
あら素敵。なんと親孝行なことでしょう……。
「で、なんでそのしわ寄せが俺らに来るんだろーな」
色とりどりの美しいケーキたちで埋まり始めたショーケースを内側から見つめながら、私の隣の整った横顔はそう低く毒を吐く。
「……ちょ、そういうこと言わないでくれません?」
慌てて小声でそう返した。シェフの耳にでも届いたら大変だ。
「なんで。あんたも思ってんじゃないの。つーかいつまで敬語? 同期っしょ」
「思ってません。それに同期でも私のほうが年下なので」
たしかに同期ではある。けれど二つも年上だし、男の人だし。なにより私、この人苦手だし。
顔はまあまあ……いや、かなりの男前。ここの制服の黒のベストも腰エプロンも、ついでに深いボルドーカラーの蝶ネクタイも、うわあ、って見とれるくらいに似合うけど。だけどそんなの第一印象が良かっただけだもん。
そう。現在 の彼の印象は……。
「あ、そういやその母の日ケーキ、中身とか構造わかってる? 昨日訊かれて答えらんなかったっしょ」
「……大丈夫です。シェフに確認しましたからっ」
「じゃあ使ってる洋酒の種類は?」
「えっ……」
「なんの酒か」
これっていわゆるパワハラなのでは? と常々思うわけなのです。
「そんなの訊いてくるお客様いないですよ」
「俺なら訊くけど」
「うわ。嫌なお客」
あ! しまった、つい口が滑った!
普段は絶対にこんなこと言わないんです! 私、『あんみつちゃん』こと、小倉 果実 は! 可憐で清楚な人気ヴァンドゥーズ(洋菓子店販売員)なんですからっ!
すると相手、小野寺 兼定 は「ふ」と一瞬笑って、仕上がったケーキを取りに厨房へ行ってしまった。
ああ、憂鬱だ。こんないけ好かない同期と二人きりで今日の繁忙日を乗り切らなきゃならないなんて。
本当ならこの場には土日アルバイトの大学生せりなちゃんもいるはずだった。彼女がいればもう少し売り場の空気は良くなるのだけれど。
『ごめんなさーい、都合わるくなっちゃった』
てへぺろ。絶対デート。それかバンドマンの彼氏のライブの日。
自由なアルバイト身分は高校を卒業して正社員となった今では羨ましい。数か月前までは私もそんなお気楽アルバイトだったのに。
「あんみつちゃあーん!」
開店前の自動ドアをこじ開けて現れたのはシェフの奥さん、ゆうこさん。例の親孝行な三人娘から素敵なプレゼントをもらった張本人であり、このお店の主任ヴァンドゥーズ。
その姿はなるほどこれからお出掛けですね、とすぐにわかるような『よそゆき』の出で立ちだった。メイクもいつもと少し違って、そのふくふくしたほっぺにも今日はいくらか色づきが増している。
「わ。ゆうこさん、別人みたい。すっごく素敵です」
私が言うとゆうこさんはわかりやすく照れてその大福もちのようなほっぺを桃大福みたいにピンクにさせて笑った。「もう、やだわ、あんみつちゃん。娘たちにやられたの。いい歳して張り切ってるみたいで恥ずかしいでしょ」
言いながらも嬉しい気持ちが全身の穴という穴から滲 み出ていた。
「今日は本当にごめんなさいね。本当はあの子たち、お店自体を休みにしろだなんて馬鹿なこと言ってたの。でもそんなの無理に決まってるじゃない? それで結局はあなたたちにこんな迷惑をかけることになってしまって」
申し訳なさそうに眉をハの字にしてそう言った。だけどやっぱり浮かれているのがよくわかる。そりゃ嬉しいでしょう。ゆうこさんはこれから愛する娘さんたちにめいっぱい尽くしてもらえる予定なんだから。
例年なら血走る目から涙が流れるほど忙しくなる、あの殺伐とした『母の日』のお店に立たずに済むんですから。
「小野寺くんは?」
「今、厨房です」
「そう。ああ、怒ってたでしょう?」
大正解。さすがはゆうこさん。スタッフの性格をちゃんと熟知していらっしゃる。
「ふふ、謝っといて。今度埋め合わせするからって」
「はあ」
「じゃ、いってきます♡」
そうウインクをして店を出ていった。開店までのこり数分。そろそろ店先にお客様の姿も見え始めている。
ああ、憂鬱な今日が始まる。
「ようこそいらっしゃいませ! 洋菓子店シャンティ・フレーズへ!」
だけどその空間は、とっても明るく華やかで、甘い香りに満ちていて。まるで楽園みたいだった。
そこに立つ店員さんの、にっこりとした素敵な笑顔。それだけが、ずっと記憶に残っている。
そんな言葉も知らなかった幼い頃、私はすでに心を奪われていたんだ────。
──
◇
ことのはじまりはシェフの三人の娘さん(高三・高二・中一)が、深夜に自宅で
「「お母さんに自由な時間をあげたいの!」」
季節は爽やかな風の吹く初夏。真っ赤なカーネーションが全国のフラワーショップに所狭しと並ぶ頃。そう、年に一度の『母の日』が近い今日この頃。心優しいシェフの娘さんたちは、いつも頑張るお母さんに『時間』というお金で買えない素敵なものをプレゼントしようと決めたんだって。
あら素敵。なんと親孝行なことでしょう……。
「で、なんでそのしわ寄せが俺らに来るんだろーな」
色とりどりの美しいケーキたちで埋まり始めたショーケースを内側から見つめながら、私の隣の整った横顔はそう低く毒を吐く。
「……ちょ、そういうこと言わないでくれません?」
慌てて小声でそう返した。シェフの耳にでも届いたら大変だ。
「なんで。あんたも思ってんじゃないの。つーかいつまで敬語? 同期っしょ」
「思ってません。それに同期でも私のほうが年下なので」
たしかに同期ではある。けれど二つも年上だし、男の人だし。なにより私、この人苦手だし。
顔はまあまあ……いや、かなりの男前。ここの制服の黒のベストも腰エプロンも、ついでに深いボルドーカラーの蝶ネクタイも、うわあ、って見とれるくらいに似合うけど。だけどそんなの第一印象が良かっただけだもん。
そう。
「あ、そういやその母の日ケーキ、中身とか構造わかってる? 昨日訊かれて答えらんなかったっしょ」
「……大丈夫です。シェフに確認しましたからっ」
「じゃあ使ってる洋酒の種類は?」
「えっ……」
「なんの酒か」
これっていわゆるパワハラなのでは? と常々思うわけなのです。
「そんなの訊いてくるお客様いないですよ」
「俺なら訊くけど」
「うわ。嫌なお客」
あ! しまった、つい口が滑った!
普段は絶対にこんなこと言わないんです! 私、『あんみつちゃん』こと、
すると相手、
ああ、憂鬱だ。こんないけ好かない同期と二人きりで今日の繁忙日を乗り切らなきゃならないなんて。
本当ならこの場には土日アルバイトの大学生せりなちゃんもいるはずだった。彼女がいればもう少し売り場の空気は良くなるのだけれど。
『ごめんなさーい、都合わるくなっちゃった』
てへぺろ。絶対デート。それかバンドマンの彼氏のライブの日。
自由なアルバイト身分は高校を卒業して正社員となった今では羨ましい。数か月前までは私もそんなお気楽アルバイトだったのに。
「あんみつちゃあーん!」
開店前の自動ドアをこじ開けて現れたのはシェフの奥さん、ゆうこさん。例の親孝行な三人娘から素敵なプレゼントをもらった張本人であり、このお店の主任ヴァンドゥーズ。
その姿はなるほどこれからお出掛けですね、とすぐにわかるような『よそゆき』の出で立ちだった。メイクもいつもと少し違って、そのふくふくしたほっぺにも今日はいくらか色づきが増している。
「わ。ゆうこさん、別人みたい。すっごく素敵です」
私が言うとゆうこさんはわかりやすく照れてその大福もちのようなほっぺを桃大福みたいにピンクにさせて笑った。「もう、やだわ、あんみつちゃん。娘たちにやられたの。いい歳して張り切ってるみたいで恥ずかしいでしょ」
言いながらも嬉しい気持ちが全身の穴という穴から
「今日は本当にごめんなさいね。本当はあの子たち、お店自体を休みにしろだなんて馬鹿なこと言ってたの。でもそんなの無理に決まってるじゃない? それで結局はあなたたちにこんな迷惑をかけることになってしまって」
申し訳なさそうに眉をハの字にしてそう言った。だけどやっぱり浮かれているのがよくわかる。そりゃ嬉しいでしょう。ゆうこさんはこれから愛する娘さんたちにめいっぱい尽くしてもらえる予定なんだから。
例年なら血走る目から涙が流れるほど忙しくなる、あの殺伐とした『母の日』のお店に立たずに済むんですから。
「小野寺くんは?」
「今、厨房です」
「そう。ああ、怒ってたでしょう?」
大正解。さすがはゆうこさん。スタッフの性格をちゃんと熟知していらっしゃる。
「ふふ、謝っといて。今度埋め合わせするからって」
「はあ」
「じゃ、いってきます♡」
そうウインクをして店を出ていった。開店までのこり数分。そろそろ店先にお客様の姿も見え始めている。
ああ、憂鬱な今日が始まる。
「ようこそいらっしゃいませ! 洋菓子店シャンティ・フレーズへ!」