第35話 チョコの対価

文字数 1,520文字

 二日ぶりの小野寺邸は、びっくりするくらいになにも変わっていなかった。しいて言うならクッキーのいい匂いがなくなって散乱した洗濯物が少し増えたという具合。

 悪臭がしないのは唯一の救いだった。

「ゴミはきちんと出してるんだね」

「虫は嫌いだから」

「……なるほど」

 せりなちゃんがいない分、今日はとても静かだった。

「それで」
「チョコレートはさ」

「……はい」
 またウンチクですか。

「半分こ出来ないんだ。完成されてるものだから」

「はあ」

 たしかに、中にとろとろの物とか入っていたら大変だし。

「……ニーヨンでどう?」

「ニーヨンとは?」

「そっちが二、俺が四」

 なるほど、二対四、という分け方で。

「いや……いいってば、これは小野寺くんので」
「そうはいかない。そうしたいけど」

 その相談のために家に呼んだわけですか。

「いいって。お礼なんだから」
「対等じゃないもんは受け取れない」
「頑固だなぁ」

「あんな古いテキストとこれが対等でたまるか」

「……そうですか」

 対等、ねえ。少し考えて、そして閃いた。

「なら、付き合ってくれない?」

 言うと相手は「は」と目をしばたいた。あ、しまった、誤解。

「そっちじゃなくて。えっとね」

 言いながらごそごそとバッグを探る。見つけ出したのは二日前にせりなちゃんに無理やり渡されたペアチケット。

「せりなちゃんのソロリサイタル。今週末、一緒に行ってほしいの」

「うわ。そういうの苦手」

「だと思った。だからチョコレートの対価として一緒に行ってくれればいいよ」

「んん……」

 本当にとても嫌そうで思わず笑った。

 それでも結局は承諾して、更にしぶりながらも「やっぱ一粒だけ好きなんあげる」と言ってくれたのでお言葉に甘えさせていただいた。

 口に入れたら、「んーーーー!」という声とともに目が飛び出た。

「おいひい」と発するために口を開くのも惜しい。そのくらいのカカオの深い風味と中の柑橘系のガナッシュの風味と甘酸っぱさが一気に口から鼻へ、鼻から脳へと突き抜ける。

 目を閉じたら、花と果物の楽園が見えた。

「あんみつ」

「は、はい」

 呼ばれて現実に引き戻された。

「ありがとう」

 土下座にも似た御礼(おんれい)だった。


 そんなわけで、週末。

 せりなちゃんが例のリサイタルの準備でお休みなので今日は私も小野寺くんも出勤。時間もないので仕事あがりでそのまま会場へ向かうことにした。

「小野寺くん、ほかに服ないの?」
 前から思っていたけどさ。音楽鑑賞に行くのでも例の黒の上下とは。

「ない。必要ない」

 こいつは本当に。ケーキ以外はまったく無頓着なんだから。心配になるくらいに。

 ドレスコードで入場拒否されるかとハラハラしたけど大丈夫だった。席につくと早くも眠そうな顔をするからこちらは慌てる。

「せっかく来たんだからちゃんと聴いてよ?」

「わかってる」

 会場は畏まった雰囲気はなくて、どこかせりなちゃんを思わせるような明るく華やかな雰囲気のホールだった。

「こんな場所でソロリサイタルなんて、せりなちゃんってすごいんだねぇ」

稲塚(いなづか) 忠宣(ただのぶ)ってさ」

 く。相変わらずの自己中男子。

「パティシエの巨匠だけど、サックスが趣味なんだって」

「サックスって……楽器の?」
「ほかにないっしょ」

 あるかもしれないじゃん。

「ケーキだけが趣味じゃダメだな、とは思ってたんだよ」

「巨匠を見習って?」

「そう」

「楽器やるつもり?」

「つもりはないけど、幅を広げようとは思う」

「はば……」

「興味の幅」

 それはとてもいい心がけです。ぜひ服装や身だしなみももう少し幅を広げてみては。

「稲塚 忠宣(ただのぶ)はさ」
「小野寺くんって」

 仕返しというわけじゃないけど、ふいに思ったから訊ねてみたくなった。

「なんでシャンティ・フレーズに就職したの?」

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