第19話 ひとの幸せを願う

文字数 1,946文字

「あんみつちゃん」

 秋の綺麗な月が昇った夜空の下で、タケコさんはその明るい光を見上げながら私を呼んだ。

「辞める。私」

 ひやりと涼しい秋の風が私たちの間をぬけてゆく。

「本気だよ。もう決めた」
「タケコさん……」
「人生一度じゃん」
「そうですけど」

「応援してくんないの?」

「してますよ、いつも」

 いつも、いつも。そう。励ましてきたもん。応援してきたもん。だけど、だけどやっぱり、嫌です。私、タケコさんに辞めないで欲しいんです。

「……そんなの、寂しいですよ。置いていかれるのは。仲間なのに、私たち、仲間なのにっ!」

 肩に掴みかかっていた。心が張り裂けそうだった。言ったら困らせる、そんなことはわかっていた。だけど、自分をとめられない。だって私は、タケコさんが好きだから。タケコさんがいる、今のシャンティ・フレーズが好きだから!

「あんみつちゃん」

「タケコさん……」

 お姉ちゃんみたい。頼ったり、頼られたり。共感し合ったり、人生について教わったり。他愛のないことで笑い合って、愚痴り合って。これからもずっとそうありたかったのに。ああダメだ。困らせる、泣いたら、困らせるのに。

「ふふ、かわいいなあ。あんみつちゃんは。……ありがとうね」

 そうっと私の頭を撫でてくれた。優しい、赤切れだらけの手で。

「春まではいるから。よろしくね」

 すっきりと笑うその顔は、酔いもすっかり覚めているみたいだった。

 一度の人生。タケコさんの人生。

 止める権利は、誰にもないんだ。



「あんみつちゃん、知ってたんだ?」

 数日後、タケコさんがシェフに胸の内を話したあとで、私はゆうこさんにそう訊ねられた。

「……引き止められませんでした」

 タケコさん……。そして那須さん……。

 シャンティ・フレーズはずっと変わらない、なぜかそう思い込んでいた。そんなはずないのに。

 変わっていくんだ。どんどん。人も、環境も。

 止めることなんてできない。誰にもできない。それがタケコさんの、那須さんの、シャンティ・フレーズの運命だから。

 己の無力さに打ちのめされる私に、ゆうこさんはそっと寄り添って、そして話してくれた。

「それもある意味で、ヴァンドゥーズの役割なのかも、と思うのよね」

「……どういうことですか?」

 訊ねると少し肩を竦めて「パティシエさんってね」と小さな声で言う。

「夢のある仕事だけど、その分理想とのギャップも大きい仕事だから」

 タケコさんがいつも汗と涙にまみれてひいひい言っていたのを思い出す。理想と、現実。現実というのは、やっぱり厳しい。

「その理解者っていうか。寄り添って支えたり、時に背中を押したり。そういうのを担うのも私たちの役割なのかなって、そう思うの」

 背中を押したり……か。

「厨房を外から見てる私たちだから、わかることや言えることってあるもんね」

「たしかに……そうですね」

 変わりゆく運命は止められない。だけど、相手に、タケコさんに寄り添うことならできる。これまでも、そしてこれからもきっと。

「そうっすかね」

 び、と空気を裂くような棘のある声。小野寺くんの声だった。

「甘いんじゃないすか、そんなん」

 少し離れた位置からゆうこさんを見つめるその目は、ドキっとするほどまっすぐ真剣で、挑戦的でもあった。

「甘いか……。小野寺くんにとってはそうかもね。だけど実際はそんな強い子ばっかりじゃない」

「弱い奴は辞めてく、それだけっしょ。支える役割なんて、俺は必要ないと思いますけど」

 聞いて震えそうなほどつめたい声だった。小野寺くんはゆうこさんの答えを待たずに「外掃いてきます」と会釈をして出ていってしまった。

 この話に関しては小野寺くんはパティシエ側だから。夢も、現実も、私が思うよりもきっともっと具体的で身近なのかもしれない。そしてそれに対する覚悟も、きっとしっかり出来ているんだ。

 ──耐えられる奴だけが生き残れる。

 いつかそう話していた。長時間のキツい力仕事。少ないお給料に休日。『好き』という気持ちだけで、一体どこまで耐えられる?

「……それでも私は、できる限り寄り添いたいです。全部を理解できなくても、今回みたいに、お別れする形になっても」

 仲間として。

「〈ひとの幸せを願う〉それがヴァンドゥーズの基本だもんね」

 ゆうこさんはそう言ってウインクをして見せた。そう、幸せになってほしい。タケコさんにも、那須さんにも。それから、小野寺くんにも。

「あんみつちゃん。いいヴァンドゥーズになるわ」

 しみじみ言うゆうこさんに、いやいや、と恐縮した。

 いつか、パティシエさんになった小野寺くんの愚痴や悩みも、私は聞かせてもらいたいな。

 地面に落ちた真っ黄色のイチョウの葉を丁寧にほうきで掃きのける小野寺くんの姿を窓越しに眺めながらそんなことを考えた。

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