第36話 無限の可能性

文字数 2,407文字

 意外だったのかキョトンとされてしまった。

「だってそれだけ知識も豊富で、資格や検定もたくさん持ってて仕事だって難なくこなせるんだから、それこそ稲塚ナントカさんのケーキ店みたいな都会の大きなところへも就職できたんじゃないの?」

 聞くところによると学生時代も成績トップだったらしいし。

「『稲塚 忠宣(ただのぶ)』くらいちゃんと覚えてくれる? ヴァンドゥーズなら」

「それはすみません。でも」

「好きだったから」

「へ」

「それに尽きる」

 それは思っていたより単純で、そして熱いものでした。

「初めて美味(うま)くて感動したケーキが、シャンティ・フレーズの苺ショートだった。ほかのどこの苺ショート食っても、未だにダントツ」

「たしかに美味しいけど」

「好みがあるから。人によって言うことは違うだろうけど、とにかく俺の中では特別だった。ほかのプチガトーももちろん美味(うま)いけど」

 小野寺くんはこちらを見ずにまっすぐ前を向いていた。すました横顔は相変わらず整っている。

「どんな人が作ってんのかと思って入ってみたら、ただの気さくなおっさんで」

 シェフのこと、だよね?

「余計に惹かれた」

 価値──それは人それぞれ。東京の有名店に就職するというのはすごいことだし、それを夢見るパティシエさんは実際多い。

 だけど小野寺くんは、自分の原点を大切にしたんだそう。自分が得た感動を、今度は自分が届けたい、とそう考えたんだそうです。

「まあ、俺の家が〈pâtissier(パティシエ) Tadanobu(タダノブ) Inazka(イナヅカ)〉の近所で、最初に感動したケーキがそこのだったら人生まるごと違ったかもしんないけど」

 小野寺くんはそう言うと「は」と短く笑った。

「けどそうじゃなかったんだから、それが俺の運命ってこと」

 なんというか。こういう類の話をする男性というものは、とても魅力的に見えるものなんですね。だめよ、あんみつ。騙されちゃだめ。こいつは汚部屋(おべや)に住むヘンタイのケーキ馬鹿なのよ。

「だけどもちろんずっとシャンティ・フレーズにいるつもりはない」

「え……」

「世界も見てみたいし、それこそ東京の有名店にもいつかは飛び込んでみたいよ」

 この人の意識の高さには毎回、鼻血が出そう……。

「あんみつも」

 呼ばれて向くと、熱い瞳と目が合った。

「小さく収まる必要はないと俺は思う」

「私が?」

「『前例』っていう道がないなら、自分で切り拓いてみれば」

 びっくりしすぎて答えられずにいると、ふん、と笑った。

「ヴァンドゥーズにだって無限に可能性はあんでしょ」

「そう……かな」

 前にもそんな話をしていたのを思い出した。

「ライバル」

 そう、従業員旅行の日だ。

「ライバル……」

 繰り返して再び小野寺くんの顔を見た。

「ライバルとして、突き詰めてみてよ。あんみつはヴァンドゥーズを」

「私が?」
「おまえが」

 突き詰めたその先に、なにがあるのか。パティシエさんだったらそこには、開業だとかちゃんとしたものが見えるのだろうけど。

「ケーキ屋ってのはさ」

 私の心の内を見抜いてか、小野寺くんはそう切り出した。

「『いい作り手』と『いい売り手』がいて初めて『いい店』が成り立つんだよ」

「それは……そうだけど」

「どっちかだけが優れてても、『いい店』とは言えない」

「まあ……」

 私が腑に落ちていないのが伝わったのか小野寺くんはこんな例を挙げた。

「例えばすげえ凝った見た目で味も抜群、コンテスト受賞歴もあるケーキがあったとして」

「うん」

「それを買った時の接客がとにかく最悪。散々待たされた上、笑顔はもちろんないし、勘定も間違ってる。おまけに持ち帰って箱を開けたら派手に倒れてた、となればどう?」

「ん……すごく嫌だ」

 自分がヴァンドゥーズでなくても許せないし、クレーム電話のひとつもしたくなる。そしてたぶん二度と行かないだろう。

「味なんか伝わんないっしょ」

「極論だね……」
「でもそういうことだ」
「まあ……」

「だからパティシエだけじゃダメなんだよ。ケーキはお客に届かない」

「けど小野寺くんはひとりでどっちも出来るじゃん。それなら」
「ひとりでやるのには限界がある。結局はヴァンドゥーズって職業は必要っしょ」

 職業として必要。それはいさえすれば誰でもいいわけではない、ということを意味する。

「俺はパティシエだから」

 その目はずっと先の未来を見ているようだった。

「ひとりじゃ夢を叶えられないと思ってる」

 ふいに、どきん。と胸が鳴った。

 小野寺くんが私に上を目指せと言う理由。自分と同じように、広い世界を見ろと言う理由。

 従業員旅行の時は、それは単に互いに高め合うライバルとして、という意味だったのかもしれない。でも今は、たぶんそれだけじゃない。

「あんみつ」

「……はい」

 それは、つまりは。


「いつか……その日が来たら俺と────」


 そんなジャストなタイミングで、ホールの照明が、すう、と暗くなった。

 ほどなくして開演を告げるブザーが鳴って、やがて幕が上がってリサイタルが始まる。

 舞台の明かりに照らされて、苦笑している小野寺くんの顔が見えた。

「────いいや。また今度言うわ」

 つられて少し笑って、「わかった」と静かに返した。


 ステージで妖精のように美しくフルートを奏でるせりなちゃんを見つめながら、その優美な音色に包まれて自分の、自分たちのはるか未来に思いを馳せた。


 ──前例がないなら、自分で切り拓いてみろ


 ヴァンドゥーズにだって、無限の可能性があるんだ。私にも。



「おーい、小野寺くーん」

「終わりましたよー」

「帰りますよー」

「小野寺あ!」
 興味の幅はどうした!

「ん……ああ、よく寝た。……ここどこ?」



 ちなみにこの数日後、せりなちゃんから例の彼氏候補とお付き合いすることになった、と報告がありました。恋多き乙女はすごいや。あのチョコのお菓子のおかげなのかな?

 あのお菓子、せりなちゃんひとりでは作れないことを新しい彼氏さんはまだ知らないんじゃないかな……。あ、はは。

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