第33話 健気な乙女のバレンタイン

文字数 1,827文字

「あの……シェフ」

「あれ。上がったんじゃなかったの、タケちゃん」

 その翌日、帰り支度を整えていると厨房からそんな声が聴こえてきた。

「ちょっとだけ、器具とコンロと冷蔵庫、貸してもらえませんか。材料は用意してあるんで」

 もじもじと話すタケコさんの片手には近所のスーパーで買ってきたらしいお菓子の材料が入っているようだった。

「ん。いいよ。なんか作るの?」

「……えと、はい」

 そう答えるタケコさんは、耳まで真っ赤になっていた。

 シェフは「ははん、なるほど」と笑って「じゃ俺は邪魔にならないよう退散するよ」とその場を離れた。

 代わりに私がそろりと近づく。「タケコさん」

 驚いたのかタケコさんはびくん! と本当に飛び跳ねて「ひゃ」と柄にもなく可愛い声を出した。

「どうしたんですか? こそこそしたいのか大胆なのか、よくわからない行動しちゃって」

 私が茶化すと「だって」と口を尖らせる。

「ここでやった方が絶対うまくいくもん」

 たしかに、器具や設備は揃ってますからね。

「で、なに作るんですか?」

 わくわく訊ねると「ええ、見るの?」と嫌がられてしまった。

「誰に渡すんですか?」

 半分予想を立てて訊ねていた。答えはいかに。

「教えないよっ」

 ありゃ残念。でも秘密ってことは本命ですね。

「キャラメルとチョコのムースケーキ……難しいかもだけど」

「すごい!」

「できたらすごいけどね」

「え、できるんじゃないんですか?」

 私が訊ねるとじろりと睨むように見つめられてしまった。

「とにかくやってみるのっ」

 怒らせてはいけないのでそれ以上は余計なことは言わずに静かに見学させてもらった。

 タケコさんはやはり不慣れだったりこわごわといった様子で、途中「ん」とか「えっと」とか言いながら奮闘していた。

 でも途中で「あれぇ」と大きく言って手を止めると「あー、ダメだぁ」と項垂れてしまった。

「え、ダメなんですか?」

 そっと訊ねると「うん、ダメ」としょげて答えた。その手もとには型からびしゃりと無惨に零れた生地が見える。

「温度が高すぎて生地がゆるすぎたの。たぶん煮詰めすぎてるみたい……」

 私にはよくわからないけどどうやら再生不能の状態らしい。そんなあ。

「とにかく、別の型に入れ直して固めてみる。あんみつちゃん、あとで味見してくれる?」

「もちろんです」

 力強く頷くと「ありがと」と泣きそうな声で言った。タケコさん……。

 使った器具を片付けて、テーブルや床も綺麗に掃除をした。時計を確認してから、こくり、と頷いて冷蔵庫からケーキを取り出す。

「はーあ。予定と全然違うケーキになっちゃったなぁ」

 残念そうに眺めるそれは、本人が言うほど悪い見た目ではなくちゃんとケーキらしいものだった。

「美味しそうですよ?」

「んん、そう?」

「食べてみたいです」

「うん……じゃあどうぞ」

 型から外してもらって、お皿に載せた。「飾るから待って」と言われて待つと、ホイップクリームと苺やミントで更に素敵に変身していった。

「わ。すごいじゃないですか! お店に出せますよ、これ」

 私が騒ぐと「感想は食べてみてから」と自信なさげに言われてしまった。

 フォークをひと刺し。ん。思ったよりもちょっと固い?

 ひと口切り取って口に運んだ。んん。ほろ苦い甘みがいっぱい広がって大人の味のムース……というかババロア? んん。でも結構甘いかも。まあそんなに悪くもない。

「……どう」

 心配そうな顔に「大丈夫ですよ」と微笑む。

「美味しいですよ。甘くてほろ苦くて」

「でも固いでしょ?」
「まあ少しは」
「やっぱり」

 そうして「はーあ」とため息をついてしまうから「美味しいですってば」と慌てて励ました。

「持って行って大丈夫かな」
「え……」

 それはもちろん、『本命』さんのもとへ、という話。

「大丈夫ですよ」

 私の頭の中には、ひとりの男性の顔がしっかりと浮かんでいた。タケコさんの、本命。あの人でしょ。絶対。

「松尾さんなら絶対喜んでくれますよ」

 にっこりとそう伝えると、タケコさんはわかりやすく顔を真っ赤にした。かわいいな。

 せっかくだから箱詰めは私にやらせてもらった。可愛くリボンをつけて、タケコさんに引き渡す。「これでOK」

「ほんとにOK?」

 まだ自信がなさそうなタケコさんの両肩に手を置いた。「大丈夫です。がんばって」

 乙女はこくりと頷くと、大切そうに箱を抱えて出ていった。ああ、いいな。バレンタインか。そういえば私は本命チョコって、今まで誰にも渡したことがない。

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