第59話 彼の実家は

文字数 1,939文字

「噂?」

 するとタケコさんは「そう」と頷いて確信があるものじゃなかったんだけど。と付け足す。

「〈小野寺〉って聞いて、あんみつちゃんなにか浮かばない?」

「へ……?」

 唐突な質問に困惑した。だってそんな苗字、どこにでも……。

「あんみつちゃんも見たことあると思うよ。そこの駅前の、日本庭園のある立派なお屋敷」

 思わぬ話に一瞬固まって、それからゆっくりと記憶を辿った。

 お屋敷……。たしかにあった。電車通学だった高校時代、毎日その立派な門の前を通っていた。黒い鉄の門の隙間からは立派な日本庭園が見えていて、門には警備会社のロゴとそれから表札があって。その表札には……なんて書いてあっただろう。まさか。いや、だけどそんなのって。早くもそわそわした。冷たくなった手をぎゅ、と握る。

「前に来たお客さんが話してたんだけどね。そのお屋敷。それが、どうやら……小野寺くんの実家みたいなんだよね」

「……は」

「つまりその話が本当だとしたら彼、育ちはめっちゃめちゃのお坊ちゃんってことよ」

 小野寺くんが……、お坊ちゃん? 

 ……え。待って。待ってよ? お坊ちゃんって、あのケーキ馬鹿が? いや、あの汚部屋の住人が? お坊ちゃん、お坊ちゃん? ……お坊ちゃん!?

 あんみつ、フリーズしました……。

「いや、うそですよ! そんなの」
「私も信じられなかったよう。だけど話してたお客さん、小野寺くんの高校の同級生らしくて。『そこのケーキ屋で見かけてびっくりした』とかって言ってたから」

 このお店の立地からして『そこのケーキ屋』というのは〈シャンティ・フレーズ〉でおそらく間違いない。

「人違いって線もなくはないけど……。でも苗字がそうだし。それに南美ちゃんがあんみつちゃんに忠告してきたって言うから。それってつまり、そういうことじゃない?」

 ──あんみつちゃんを巻き込みたくないの。

 私が持っていた欠片と、タケコさんが持っていた欠片。ふたつが揃って、真実が見えてくる。

 つまり南美ちゃんの言葉の意味は、家の事情に巻き込みたくない、ってこと? たしかにそんな名家のお坊ちゃんとお嬢さんが揃ってパティシエなんて。ご両親と揉めていてもおかしくはない。

「ほぼ確定でしょ。シェフは知ってるのかな。まあ知ってても秘密なんだろうね……。引かれると思ってんのかな」

「引くなんて……」
 たしかにびっくりはしたけど、それで小野寺くんと南美ちゃんへの見方を変えたりはしたくない。

「どう? 玉の輿なら魅力増す? それとも面倒事は御免?」

「そ、そんな言い方」

「まあでも。親と不仲でほぼ絶縁、となれば遺産も期待できないかもね」

「もう、やめてくださいってば!」

 お金持ちだろうとそうでなかろうと何も変わらない。変わらないでいたい。だって小野寺くんは、小野寺くんだもん。

「……大変、なんですかね。そういうお家っていうのは」

「そりゃあ庶民とは違うんじゃない? 細かい家族構成までは知らないけど、もし長男で跡取りとかだったら相当まずいだろうね。そうでなくても大学も出ないでパティシエっていうのはかなり反対されたと思うな」

 そりゃそうだ。

「うわあ……。なんにも知らなかった」

 ぐにゃりと項垂れた。情けない。四年も一緒に働いてきたのに。

「だからさ。そういうのをだんだん知っていくのが恋愛じゃん。どうなのあんみつちゃん。この件を踏まえて小野寺くんのこと、もっとちゃんと知りたいと思った? それとも……やっぱり同期のままがいい?」

 それは……。

 同期でも、そうでなくても。

 『彼』という人のことを。私は。

「ちゃんと、知りたいです。……だけど」

 だけど。私にそんな資格があるのだろうか。小野寺くんを好きになっていい資格が。

「好きで……いいんですかね」
「もうバカ。そういうもんじゃないでしょ、『好き』って」

「じゃあどういうもんですか」
「コントロールできるもんじゃないってこと」

 するとタケコさんは私の額を人差し指でび、と押した。「ぎぁっ」

「好きだよ。あなたは彼が好き。好きじゃなきゃ悩まない。気にならない。知りたいとも思わない。どう? 悩んでるし、気になるし、知りたいんでしょ? お金持ちでも、そうでなくても、そんなのどうでもいいくらいに好きなんでしょ? ね。いい加減認めなさいっ」

 畳み掛けられてようやく観念した。
 好き。ああ、そうだ。好きなんだ。私。

 小野寺くんが好きなんだ。

 すると「ではお会計ね?」と頼りのお姉さんは小首を傾げる。

「え、まだ」と言いかけると「会いたくなったんでしょ」とまた図星をついてくる。

「……なりました」
「素直でよろしい」

 会計をしながら「いつかのお返しだね」とウインクされた。

 カラン、とお店のドアを抜けて、秋の星空の下を進み始めた。


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