第102話 異変?

文字数 1,756文字

「……あの。モンブラン、頼んでないです。モンブランじゃなくてフルーツタルト」

「えっ! わ、たいへん失礼いたしました!」

「いえ。いいのよ。小倉(おぐら)さん、お疲れなんじゃない? 顔色悪いわよ?」

「えっ……、そ、そうですか?」

 常連さんに心配されてしまった。

 店先までお見送りしてカウンターに戻ると、補充のケーキのトレーを持った兼定くんが立っていた。

「あ、もらいます」
 しっかりと受け取ったつもりが手が滑ってトレーごと落としそうになってしまった。咄嗟に兼定くんが支えてくれてなんとか惨事は免れた。「ひい」と全身から冷や汗が噴き出す。

「……なに珍しい。つかおまえほんとに調子悪いな。顔色最悪じゃん。大丈夫かよ。裏で休む?」

「ん……大丈夫。なんだろね、元気なのになあ」
「全然元気じゃない。熱は」

 トレーを近くの台に置くと強引に額に触れてくるから(たすく)くんの目を気にして慌てた。兼定くんはそんなこと全然お構い無しで手まで握ってくる。うわわ、体温チェックとはいえ職場でそこまでしちゃだめだよ!

「熱はない、か。とにかく売り場は俺ができるからちょっと裏で休憩して。それでもだめなら先に帰ってていいよ」

「な。大丈夫だよ。ほんとにちょっと変だっただけだしっ!」
「変なんだろ。病気の前兆かもしんないし、実際顔色悪い。こういう時は言うこと聞いて」
「……うー、……はい」

 渋々頷くと厨房からこちらをじっと覗く(たすく)くんとばっちり目が合った。

「二人って、やっぱ付き合ってます?」

 固まった。……まあさすがにわかるよね。

「つーか。もしかして一緒に住んでんじゃないすか、今の会話」

 ──先に帰ってていいよ。

 ビンゴ! さて。どうしますか、店長。

 兼定くんの様子を窺うとその視線を(たすく)くんから厨房奥のコンロに移して「あれ」と冷めた声を出して顎で示した。

 佑くんとともにその方向を見ると……手鍋が豪快に吹きこぼれておりました。

「うわうわうわ! 忘れてたっ!」

 叫びながら飛んでいく後輩くんに兼定くんはため息。「とにかく、休んでよあんみつ」

「……はい」

 休憩室にある長椅子にごろん、と寝転がった。長年働いてきてこんなこと初めてだった。寝不足? 過労? それとも風邪? 病気の前兆……。ひとりきりなのもあって、不安はどんどん膨らんでしまう。


 いつの間にかそのまま眠っていたらしい。薄目を明けると、日は暮れて休憩室はギリギリで周りが見えるくらいまで暗くなっていた。ドアの隙間から向こう側の光がもれている。今、何時だろう。どのくらい寝ていたのか、お店は大丈夫なのだろうか。

 ゆっくりと起き上がる。頭痛や目眩はなく、お腹がすいていた。ずいぶんと身体が楽になった気がする。やっぱり寝不足だったのかな、と考えていると、ドアがそっと開いて溢れる光に目が眩んだ。

「あ……起きたの」

 光の中から現れたのは、心配そうな目をした兼定くんだった。

「ごめん、寝てた」

 慌てて立ち上がると「無理しないで」と支えてくれた。

「んん、もう大丈夫だから」

 寝不足だったみたい。お店戻るね、と笑い掛けたけど「だめ。今日はもう上がり」と言われてしまった。

「明日も休んで。シェフには俺から言っとく」
「え、大丈夫だってば!」

 反論したけどこの頑固店長は絶対に首を縦には振らない。

「今日は勉強会も休みにするから。営業終わったら俺もすぐ帰る」

「そ、そんな。大丈夫なのに大袈裟だよ、(たすく)くんにも悪いしっ」

「佑にも、俺らのこと言ったから」
「え」
「夫婦だって」
「うそ」
「ほんと」

「べつに隠しとく必要もないっしょ」
 彼がそう言うのと同時にお客様の来店を(しら)せるドアベルの音が聴こえた。

「じゃ。とにかく今日はもう帰って。晩飯も俺が用意するしどこにも寄り道しないでよ」

 むう。心配性め。

「いい? 約束。帰ったら布団で寝てて」
「ええ? 大丈夫だってば」
「だめ。わかって。心配なんだ」
「……んん。……はい」

 仕方なく着替えて帰路に就いた。営業時間中に帰宅するなんてことも社員になってからほぼ初めて。

 桔梗色の空の下を、とぼとぼひとりで歩いて帰った。

 佑くんに知られたのか。どんな風に言ったのかな。どう思われたかな。明日は本当に休まなきゃだめかな。私が抜けてお店は大丈夫かな。

「元気なのにい……」

 星が見え始めた初夏の夜空に小さく呟いた。

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