第80話 一年

文字数 1,076文字

「くそっ。あの遊び人」

 うちの大事な兼定をたぶらかしやがって。許せん。とシェフは握った拳を震わせた。

 専門学校からの帰り、善は急げと私たちはその足でシェフの自宅へと向かったわけでした。

 住宅街にあるシンプルな二階建ての一軒家。直前に連絡はしたもののいきなり押しかけたので「何事?」とゆうこさん共々驚かせてしまった。

「それまじで言ってる?」と再度確認をして、兼定くんが「はい」と低く答えるとシェフは大きなため息をついて頭を抱えた。

「小野先生と仲良いってのは聞いてたけどさ。にしても誘う前に俺にひとこと断るのがスジじゃない? あいつ。俺を困らそうとしてるとしか思えないね。くっそ、腹立つ。チンピラ小野スケ」

「決めたのは俺なんで。責めるなら俺を」
「いや。誘ったあいつが百パー悪い」

 シェフはきっぱり言ってから「はーあ」とまたため息をついた。

「でもま、いい経験にはなるだろうね」

 そう言うと腕組みをして「ううーん」と唸った。

「……一年、だな」

「一年?」
 兼定くんが繰り返すとシェフは「そう」と頷いた。

「二年も貸せない。来月からでしょ? それなら一年だけ待つよ。そしたら二号店のオープンも半年ちょっと延ばすだけで済むし」

「いや、俺の都合でオープン延ばすわけにはいかないですよ」

 兼定くんが言うと「なら行くのやめんの?」とシェフが拗ねた目で見つめる。

「それは……」

 できません。すみません。と頭を下げた。

「いいよ。店長は兼定しかやれないんだから仕方ない。一年しっかり学んで、更にすげえパティシエになって帰ってきてよ」


 うわあ。こんな急に、そんなことになるなんて。

 全然思考が追いつかなくて、応援することも、悲しむことも、怒ることすらもできずに私はすっかり取り残されてしまっていた。

「あんみつ」

「……ん?」

「反対したいの?」

 アパートに着いて二人になると、兼定くんは私の顔を覗き込んでそう訊ねた。

「……ちがうよ。でも……よくわかんない。自分でも」

 どうして素直に応援できないのか。だからと言って「勝手だよ」と怒る気持ちにもならない。

 兼定くんがいなくなる。〈シャンティ・フレーズ〉から。日本から。私のそばから。

 すこん、となにかが足りなくなって、ひとりで暗闇に落っこちたみたいだった。

「勝手に決めたことはごめん。でもチャンスだから。逃せない」

「……わかってるよ」

「なら」
「わかってるけど……。いきなりで、整理つかなくて」

「悪いけど、連れては行けな」「わかってるってば!」

 あ、だめだ。

「ごめん。……ちょっと、ひとりになりたい」

 そう言い残して、アパートを飛び出した。

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