第89話 クッキング!

文字数 1,947文字

 私の言葉に春野さんははっとして、徐々にその目を潤ませた。

「彼は、とっても強く逞しく成長しています。運命に負けないで、自分の手で未来を切り開いています。それに巻き込んでもらえて、私、すごく嬉しいんです」

 気づいたら私まで泣いていた。

「……そう。そんなに立派になっていましたか。あの家を、自ら断ち切って」

「リンゴの木だって、言っていました」

「リンゴの木……?」

「ふふ、そうなんです。『接ぎ木』って、ご存知ですか? リンゴの木って、もとの木から枝を断って、それを別の台木に接いで大きく育てるんだそうで。彼、自分はそれだ、って言っていました」

「そんなことを……」

「たくさん勉強して、経験をして、いつか自分のお店を持つことが、今の彼の夢なんです。そして、それは……私の夢でもあります」

 春野さんは「あなたと会えて本当によかった。ありがとうございます」と涙を拭って頭を下げた。こちらも慌てて下げ返す。

「こちらこそ、お会いできてよかったです。あの、それと……」

 厚かましいお願いなのですが……とおずおず申すと、彼女はキョトンとして小首を傾げた。

「もし、その、ご迷惑でなければ、お料理を……教えていただきたいんです。今日じゃなくても、お時間がある時、いつでもいいので。……兼定くんが懐かしいと感じる、春野さんの、お母さんのお料理を」

 とても緊張してお願いしたのに、春野さんは案外「あらそんなこと?」と明るく笑った。

 しんみりしていた空気が一気に吹き飛ぶ。春野さんが笑うとその名の通りお花が一斉に咲いたような明るい雰囲気が拡がった。

「兼定のお嫁さんになる人とお料理できるなんて、こんな夢みたいなことってないわ!」

 そうしてあっという間に丸山さんを呼んで電話をかけてもらいあとの予定を空けてしまうと、「早速買い物に出ましょう」と嬉しそうに言い出した。

「えっ、今からですか!?

 言い出したもののまさか今日いきなり叶うとは思っていなかった。

 戸惑う私をよそに春野さんは「娘とお出かけみたいで嬉しい!」と少女のようにはしゃいでいた。そっか、これがこの人の本来の姿なんだ。



「小倉さん……と仰ったわね? だけど……なんとお呼びしましょうね」

 運転席で変装用なのかただのお洒落なのか、素敵なサングラスをかけた春野さんがそう訊ねてきた。せっかくなので「あんみつ」と呼んでくださいとお願いした。敬語もいりません。と。

「どうして『あんみつ』なの?」

 ありゃ。案外わかりませんか。

「『小倉』なので、あんこを連想されるんです、それで名前が『果実』だから」

 そう説明すると春野さんは「あー、なるほどーっ」と膝を打って「ふふふ」と愉快そうに笑った。

「かわいい。本当にかわいいのね、あなた」

 あなたこそ可愛らしいです。名前だけでそんなに褒めていただけて恐縮です……。

「では『あんみつ』さんって、私も呼ばせていただくわね」

 ありがとうございます。と微笑むと、「素敵な笑顔」とまた褒められた。なんだかむずむずしてしまう。

 五分もしないうちに最寄りのスーパーに到着した。なんの変哲もないスーパーだけど、料理研究家の先生と一緒に来れば商品のひとつひとつも普段とは違って見えてくる。

「このお野菜はまだ旬じゃないから。ほら、なんとなく色が薄いでしょう?」

「今年はこれ。豊作だったの。特に九州産がよかったの」

「調味料、うちに揃っているから買わないけれど種類を教えてあげるわね」

「お肉の選び方、ご存知?」

 爆弾おにぎり以外の料理をろくに知らない私にははじめて聞く話ばかりだった。「は行」の感嘆詞はもう言い尽くした。

 そうして帰宅。手を洗うとすぐに調理にかかった。広々とした機能的なキッチン。お洒落な照明。揃いに揃った器具や食器。この場所はもしかしたら全主婦の憧れと言えるかもしれない。

 いつか兼定くんが「製菓と調理は別もの」と話していたのを思い出す。たしかにこうして見るといろいろとちがうと感じる。

 だけどその手つきや華麗さにはどこか似通ったものがあった。……いや。ちがう、似てるのは製菓と調理じゃなくて、兼定くんと春野さんなのかもしれない。作業に集中している眼差し、そしてとっても楽しそうな空気。これがこの人の『好きなこと』なんだ、ということがとてもよく伝わって来る。

「んん。あんみつちゃん、スジがいい」

「そ、そうですか?」

 お買い物をしてお料理をするうち春野さんとはもうすっかり打ち解けていた。

「うんうん。上手よ。完璧」

 春野さんは褒めるのがとっても上手な人でした。お世辞と思っていてもついつい乗せられてしまう。

 するとふいに春野さんは「ねえあんみつちゃん」と話しかけてきた。

「兼定は……なにが好き?」

「え?」

 それはむしろ、私が聞きたいことなのに。

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